犯罪捜査における鑑識学の祖ハンス・グロス曰く「もっとも優れたスリには体の一部に或る特徴が見られる」、と本書211ページにあります。スリの知り合いがいないからか、私は実際そんな人を一度も見たことがありません。或る特徴とは?それを知りたければ本書をお読み下さい。
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現在リリースが続いている<奇想天外の本棚>シリーズ。監修者・山口雅也によれば【読書通人のための「都市伝説的」作品 ― 噂には聞くが、様々な理由で、通人でも読んでいる人が少ない作品、あるいは本邦未紹介作品の数々(中略)、ミステリの各サブ・ジャンル、SF、ホラーから普通文学、児童文学、戯曲に犯罪実話まで(中略)、奇想天外な話ならなんでも出す】、そんな方針だという。要するに戎光祥出版が以前やっていた<ミステリ珍本全集>のコンセプトを海外作品に求め、その範囲も、より節操なく広げたセレクションといったところか。ニッチな企画であるのを強調したいんだろうけど、やたら通(つう)向けを連呼するのは品が無い。
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西田政治の訳で昭和30年代にポケミスとして刊行されたっきりだった本作。現代の訳だとどんな変化が見られるのか期待されたのだが、長年放置されていたのもむべなるかなと言わざるをえない感想に変わりはなかった。投資仲介人フェリックス・ヘイのフラットで、ヘイだけが背中から仕込み杖のような刃物で刺し殺され、ボニータ・シンクレア(美術評論家)/デニス・ブライストン卿(外科医)/バーナード・シューマン(イギリス=エジプト輸入商会経営者)の三人は蝋人形のような意識不明状態で発見される。この部屋に居た彼らはどのようにして何者に一服盛られたのか、その辺のトリックは悪くはない。
本作の主人公はジョン・サンダース医師だが、全編通して彼目線で話が進む訳ではなく、そうでない箇所も一部あり。この流れでは、そうしないと収まりがつかないのは察しが付く。とにかく上に挙げた五名、そしてブライストン卿の娘・マーシャ・ブライストン、これらを除く登場人物の絡め方が上手いとはいえず、全体を通して何が起きているのか読者に伝わりにくいきらいがある。ネタバレさせたくないので犯人に関して最低限のことしか言えないが、真相発覚に至っても衝撃を受けないし、謎と伏線以外にもドラマツルギーがどうも拙く、(初読の方など特に)読み終わっても満足感を得にくいと思う。
もしかすると本作で一番印象に残るのはH・Mの登場、つまり手押し車にわんさかフルーツを載せ坂道の真ん中を歩いているバスローブ姿のヘンリー・メリヴェール卿をハンフリー・マスターズ警部の運転する車があわや轢きそうになってしまうユルい爆笑シーンになってしまうのかもしれない。いくらカー・マニア中高年や評論家たちが本作に対しそれらしい持ち上げ方をしたって、つまらんものはつまらんのであった。
(銀) 褒めるべきポイントが少ない本作だけども新刊で読めるようになったのは良い事だし、創元推理文庫バンコラン・シリーズ和爾桃子訳みたいな不快感は無いと一応フォローしておく。例えばS・T・ジョシ『ジョン・ディクスン・カーの世界』だと〝実はメリヴェール作品は、かなり早い時期に、それも確実に下降を始めていた。〟と本作を挙げつつ、厳しい目で批評していた。さすがに私は〝下降〟とまでは言わないけれど、それまでのH・Mの事件に比べ読後の快感に浸るのが難しいのは否定できない。
『黒死荘の殺人』カーター・ディクスン/南條竹則・高沢治(訳)
★★★★★ 例えばH・M全集とか、名探偵ごとに作品を集成したものが欲しい (☜)
★★★★ 他の作家ならともかく、カーゆえに厳しめの評価
★★★★★ 【戦時下サスペンス航海小説】の仮面を被った本格もの