2020年10月27日火曜日

『九人と死で十人だ』カーター・ディクスン/駒月雅子(訳)

2020年2月4日 Amazonカスタマー・レビューへ投稿

創元推理文庫
2018年7月発売



 【戦時下サスペンス航海小説】の仮面を被った本格もの



印鑑をキレイに押すのが下手だったりしないですか? まさに私がそうです。まっすぐ押そうとしてなんとなく歪んでしまったり、朱肉に印面をつけ過ぎたり、反対につけるのが薄かったり。シャチハタや拇印なら問題ないんですけどね。拇印といえば・・・。

本作は『白い僧院の殺人』『ユダの窓』後の事件。アメリカ東海岸からイギリスへ、爆撃機四機と高性能爆薬を輸送する大型客船エドワーディック号。ひとたび北大西洋へ出たら敵国ドイツの潜水艦にいつ攻撃されるかわからぬ〝死と隣り合わせ〟の海上の旅、乗船する訳ありの客はほんの数人たらず。命懸けの航海に出航して二日目、マックス・マシューズは発見した。喉元を残忍にブチ切られたエステル・ジア・ベイ夫人の屍体を。頼るべき警察はいない。屍体にクッキリと残る血の指紋。

 

 

数少ない乗客に容疑は絞られて正確な指紋採集が行われるが、屍体上のものと一致する該当者がいない。ボート等を使って海へは逃げられぬクローズドな状況なのだから、犯人はまだこの船の中にいる!では誰の仕業によるものか? そんな中、エドワーディック号にはもうひとり隠れたる乗客がいた・・・体重二百ポンドのあの人物、ヘンリ・メリヴェール卿(H・M)だった・・・。

 

                    


作者カーが序盤で匂わせているように、誰かが出航時に全乗客をもれなく観察しておけば事件は防げたかも。この事がすべてのトリックに繋がっていくので、気に留めながらページをめくって犯人のたくらみをあばいてみてほしい。動機が軍事スパイと関係あるのかないのか、そこも最後まで読んでのお楽しみ。

 

 

甲板でマッチ一本つけることも憚られる荒れた漆黒の海原と閉ざされた船中の不安な空間。トリックもさながらその雰囲気描写が完璧、時間にゆとりがあれば一日で一気に読み終えられるほどに面白い。もちろん堂々たる〝本格〟探偵小説だし、あるいは第二次大戦時下のサスペンス航海小説として読むのも可能。

 

 

原題は『Nine – And Death Makes Ten』といい『九人と死で十人だ』と人数を強調することでここでもカーは読者に目くらましを仕掛けているのだろう。もっとジャストなタイトル訳がありそうにも思うけど。

エンディングで謎解きを求められたH・Mは、私語が多くおとなしく耳を傾けようとしない人々を怒ったり、推理の説明を終えて「感謝のかけらもない!」とムクれる大人げないキャラクターで読者を笑わせる。こんな人に私はなりたい。解決後の謎解き場面で矢鱈周りの人々を立てて謙遜がいちいちわざとらしい金田一耕助より、いいひと感の押し付けがないこの罵詈雑言男のほうが名探偵としてふさわしい。




(銀) こんなにスリリングで気持が高ぶる長篇なのに我が国で正式に単行本になったのは99年の国書刊行会版。そのくせ本作に比べたらずっと出来の悪い「死者はよみがえる」のほうが戦後江戸川乱歩が高評価したおかげで本がずっと流通していたのだから、日本の読者はどれだけ不幸だったことか。



国書刊行会版の訳者も同じ駒月雅子であったが、今回の文庫ではかなり訳文を全面改稿しているそうなので、国書刊行会版を既に所有していても本書を改めて読む価値はある。戦時下における武器輸送船という1940年代前半特有の世界情勢を、よくもここまで本格ミステリの背景に活かしきれたもんだ。カーの場合、終戦後の望ましくしくない翻訳や紹介の仕方のせいで日本では本作よりずっと面白くない作品が過大評価されていたりするから、他人の言う事など信用せず色々なカー作品を読んで自分の感性で良し悪しを判断してみて。