2020年10月26日月曜日

『囁く影』ジョン・ディクスン・カー/斎藤数衛(訳)

2020年6月1日 Amazonカスタマー・レビューへ投稿

ハヤカワ・ミステリ文庫
1981年6月発売



★★★★★    フェイ・シートンという誘蛾燈




犬は標的を「匂い」で覚えさせられます。彼らにも視力はありますが記憶のベースは殆ど臭覚。ドイル『バスカヴィル家の犬』では、犯人がこの世から消してしまいたい人物の匂いを覚えさせられた怖ろしい魔犬に追っかけられて、ある人物は崖から転落死させられてしまいます。もし犬にも仕留める前に目で確認する習性があったなら・・・。本作の場合、犬ではなくて・・・。

『囁く影』は文中で時間軸を前後させストーリーが進行するので、ここでは発生する事柄を時系列に並べ直してみたい。ギデオン・フェル博士と同じ<殺人クラブ>のメンバーであるリゴー教授は下記に述べるどちらの事件現場にも居合わせており、特に第一の事件のあらましは回想としてリゴー教授の口から読者へ伝えられる部分が多くを占めている。

 

 

✤ フランスのシャルトルという町。皮革業主で、当地の名士である英国人ハワード・ブルック。溺愛されている愛息のハリーは父ハワードが秘書として雇った、言葉にならぬエロティシズムを湛えた女性フェイ・シートンと婚約するが、一方で彼女を「不品行」だと誹謗する噂も。そうこうするうち、入口とその周辺が衆人環視された古塔の上でハワードが刺殺される惨劇が起きるが、塔上での肝心な瞬間を目撃した者がなく、フェイに容疑がかかるものの、証拠不十分で逮捕されず。その年の暮にハワードの妻もこの惨劇のショックで亡くなり、あたかも欧州では戦争勃発。召集されたハリーはこれまた戦地で命を落としてブルック家に帰ってこなかった。

 

 

  第二次大戦の終息。イギリスは戦勝国だったが、街並も人の生活も変わった・・・。<殺人クラブ>の集会に招待された本作の主人公マイルズ・ハモンドは女性記者バーバラ・モレルと共にリゴー教授の話によって第一の事件を知る。そんなマイルズが司書を募集したところ、運命の悪戯でやってきたのはあのフェイ・シートンだった。フェイがハモンド家に腰を落ち着けた夜、突然リゴー教授とフェル博士が車を飛ばしてやってくる。その理由をマイルズが問い質しているうちに銃声が響き、マイルズの妹マリオンを奇禍が襲う。

 

 

ハヤカワ・ミステリ文庫版は2020年の今、現行本流通無し。読みたくても古本を探すか電子書籍しかない。『囁く影』もまた、我が国で盛んにカーが翻訳された195060年代の状況と異なり年々評価が上がってきた中期の逸品なのに新刊で買えないってのはおかしいし、当分新訳を出さないんだったらせめて適度に増刷すればいいのに。この斎藤数衛による翻訳は昭和のものだが、マイルズ・ハモンドの同一カギカッコ内のセリフで第一人称「わたし」と「ぼく」をゴッチャに言わせている箇所が二、三ある以外は読みにくい文脈もないし、そこまで悪くはないと思う。

 

 

日本の探偵作家のこういう長篇は二時間ドラマみたいにドロドロするか、あるいはキャラ立ちが淡白でロマンの無いものになりがちだが、カーは不可能犯罪とオカルティックな吸血鬼疑惑を軸にして筆を進め、メロウネスとのバランスもとれている。本作でも「 ×× を × で ×× された 人間が他人に×られずにいられるのか?」と私は一言毒突きたくなるのだが、そんな時ほどカーの長篇は面白い。

 

 

またフェイ・シートンの外見設定からして顔がとびきり美形とか男好きのする肢体とかじゃなく、一見普通っぽくも見えるけれど多情で脳裏から離れなくなる何かを持っているというこのリアルな造形がGood。一生異性に縁の無い<古本><アニメ>オタクのような人種とは違って、カーはオンナのことをよくわかってらっしゃる。

ダグラス・G・グリーンのカー評論ではニンフォマニアと呼ばれているフェイ・シートン嬢。単純なラブ・ロマンスなどではなく〝誘蛾燈〟のような女に引き寄せられていく男の運命や如何に? 



 

(銀) とりたてて扇情的な描写が書かれている訳でもないのに、そこはかとないフェイ・シートンの存在が素晴らしい。加えてハワード・ブルックの死がいつものインドアな密室ではなく塔上で起きている点、次の事件が発生するまで世の中が第二次大戦に巻き込まれていることの意味、こういったひとつひとつの仕掛けもアトラクティブに機能しており実にお見事と言うしかない。カーの戦後作の中では屈指の面白さ。