2025年2月28日金曜日

『悪魔博士フー・マンチュー』サックス・ローマー/平山雄一(訳)

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ヒラヤマ探偵文庫 08
2020年9月発売



★★★   日本ではなぜかウケないフー・マンチュー博士




フー・マンチューものには明るくないので、自分の為の手控えとして本書の巻末にあるシリーズ一覧を頼りに少し調べてみたが、海外の人気とは対照的に日本では最初の二作を除くと全然翻訳されていない様子。ふーむ、道理で何作も読んだ記憶が無い訳だ。
本書収録長篇「The Devil DoctorThe Return of Dr.Fu Manchu)」でさえ訳者・平山雄一は「戦後の全訳となると本書が初めて」と述べている。

 

 フー・マンチュー・シリーズ 作品リスト



1913  「The Mystery of Dr. Fu ManchuThe Insidious Dr. Fu Manchu)」

        =『怪人フー・マンチュー』嵯峨静江・訳/HPB 1757

 

1916  「The Devil DoctorThe Return of Dr. Fu Manchu)」

      = 本書

=『悪魔博士』寺田鼎・訳/改造社

=『魔人博士(再発時には『悪魔博士』と改題)』山中峯太郎・訳/ポプラ社

 

1917  「Si-Fan MysteriesThe Hand of Fu Manchu)」

1919  「The Golden Scorpion」(但しフー・マンチューは脇役とのこと)

 

1931  「The Daughter of Fu Manchu

1932  「The Mask of Fu Manchu

1933  「The Bride of Fu ManchuFu Manchu’s Bride)」

1934  「The Trail of Fu Manchu

1936  「President Fu Manchu

1939  「The Drums of Fu Manchu

 

1941  「The Island of Fu Manchu

1949  「Shadow of Fu Manchu

 

1957  「Re-Enter Fu ManchuRe-Enter Dr. Fu Manchu)」

1959  「Emperor Fu Manchu

1973  「The Wrath of Fu Manchu」(過去の中篇・短篇を収録)

 

 

平山雄一は「第二作である本作をいきなり読んでも差し支えない」と言うが、フー・マンチューについて予備知識ゼロの読者が初めてこの本に接する場合、謎の怪人を向こうに回して戦うネイランド・スミス&ピートリー博士(物語の語り手)のコンビ、そしてフー・マンチューの手下になっている美少女カラマニ、このレギュラー三名のバックボーンを理解できていないと話を十分咀嚼しづらいんじゃないかな。ざっくりでもいいから第一作『怪人フー・マンチュー』の内容は頭に入れておいたほうがいい。

 

 

なんだかんだでピートリー達を助けたり、自分の欲望次第で容赦なく仲間のルパン三世を裏切る峰不二子ほどドラスティックなキャラじゃないにせよ、どっちの味方なのかよくわからないカラマニの行動はこの第二作から読み始めても掴みにくい。
Si-Fan MysteriesThe Hand of Fu Manchu)」は邦訳書が出ていないけれども、シリーズ第一作から第三作までは一括りになっているみたいなので、尚更続きものとして読むほうが好ましいのかも。それはそうと、フー・マンチュー一味もネイランドやピートリーを捕えたらさっさと殺してしまえばよかろうに、結局カラマニが救いの手を差し伸べたりして、そういうパターンの繰り返しがどうも・・・ね。

 

 

白人中心の体制を壊滅させるのがフー・マンチューの野望。でも実際描かれている悪巧みに比べたら、その野望はデカすぎるような気がする。007シリーズの内容ならスペクターが世界征服を目論んでいても不自然さは無いけど、フー・マンチューの犯罪はあそこまで大掛かりではないんだし、標的にする対象はもっと絞り込んでよかったんじゃない?ただ、小難しい謎の提示も無くヴィジュアル的にキャッチーなシーンは多いから、小説を読むより映像で観たほうが楽しめそうな点でイアン・フレミングのジェームズ・ボンドとも共通している。

 

 

本書は〝China〟を〝中国〟と訳さず〝支那〟で統一。これなど同人出版だから成し得る攻めた表現。腰の引けた商業出版社は決して許可しないだろう。訳者は差別的な意図で〝支那〟という言葉を使っているのではない。サックス・ローマーが中国人をどのように見ていたかわからないけれど、フー・マンチューが欧米の「黄禍論」を擬人化したキャラクターであるのは確か。主人公のコンセプトも踏まえ、あの時代の空気感を掬い取ろうとした一種の時代考証だと私は受け止めている。悪くない。

 

 

(銀) 米パラマウントでフー・マンチュー映画第一弾「The Mysterious Dr. Fu Manchu」(1929年)が制作された時、そのオープニングにて主人公の怪人は義和団の乱によって英国軍に家族を殺されてしまったため復讐の鬼と化す設定になっていたのは私も知っている。だけどサックス・ローマーの小説にそんな来歴書いてあったっけ?映画におけるフー・マンチューのエピソードが勝手にひとり歩きして、原作の設定までそういうことにされてない?






2025年2月25日火曜日

映画『Piccadilly〈ピカデリィ〉』(1929)

NEW !

KL Studio Classics   Blu-ray
2023年9月発売



★★★★  幻の女優アンナ・メイ・ウォン




戦前日本の雑誌や新聞に発表された探偵小説の挿絵から抜け出してきたような容貌の持主Anna May Wong(アンナ・メイ・ウォン)の名を聞いたことはおありだろうか?早川雪洲/上山草人が海を渡りハリウッドで認められるべく悪戦苦闘していた二十世紀初頭、あちらには東洋人銀幕スターなどホンの数える位しかいなかった。斯様に排他的なショービズ界へ飛び込み、インターナショナルな中国系女優の先駆けとなったのがこの方。知る人ぞ知る存在ではあるものの、近年米国ではクラシック映画ファンの支持によってカルトな人気が広がり、何冊かの本が出版されている。ワタシのfavorite actress。

 

 

1905年ロスに生まれ、中国系アメリカ人を両親に持つAnnaの外見は完全にチャイニーズ。本盤のジャケット写真からもわかるとおり、170cm近い身長にスラリと伸びた美しい脚、百年も昔のアジア人女性では考えられない恵まれたスタイルが目を引く。ところがれっきとした米国籍にもかかわらず、yellow peril(黄禍論)の横行により彼女も謂れ無き差別を受け、ステレオタイプの中国女や怪しげなヴァンプ等を演じさせられること少なからず。それが不服でヨーロッパにも進出したAnna。本日紹介するPiccadillyは英国制作映画である。






【 仕 様 】

リージョン:A(日本のブルーレイ・プレーヤーで再生可能)

【 画 質 】

100点中91点

【 ストーリー 】

ロンドンのナイトクラブ&レストラン「Piccadilly Club」を経営するValentine Wilmotは雇っているダンサーMabel Greenfieldと恋愛関係にある。ちょっとした諍いからMabelのダンス・パートナーVictorが辞めたため収益が落ちて頭の痛いValentine。そんな時、彼は自分の店の皿洗い場で働く若い中国娘 Shoshoに目を付け、それまでのステージングとは趣きの異なるオリエンタルな舞踏を踊らせたところ、意外にも客は熱狂。かくしてShoshoは「Piccadilly Club」におけるダンサーの座を得た。Valentineとただならぬ仲になってゆくShoshoに激しく嫉妬するMabel。ダンサーとしての地位ばかりかValentineとの関係も譲ろうとしないShoshoに、Mabelは隠し持っていた小型拳銃の銃口を向け・・・。



「Piccadilly Club」のオーナー/Valentine Wilmot(Jameson Thomas)



ダンサー/Mabel Greenfield(Gilda Gray)
本来この映画の主役はこの人

 
 
本作はサイレント映画ゆえBlu-rayに字幕は付いていない。Annaの声もここでは聞くことができない。脚本こそ何ということもない話とはいえカメラワークや映像面の演出が洗練されており、観ていて心地良い。フィルム・ノワールの祖先とまで賞賛する海外の評論があるらしく、終盤に殺人事件が発生し、真犯人は誰かちょっとしたフェイクもあって、そのような見方をしたくなる気持ちもわからんではない。ただ私に言えるのは、この映画にミステリ的な要素があるとかないとか関係無く、観る人を魅了するのはAnna May Wongの小悪魔ぶり、それだけ。

 

 

ライムハウスの貧しい中国人コミュニティで生活しているShosho。「Piccadilly」のストーリーにはそんなロークラスの連中と、Valentineはじめナイトクラブ周辺人種との格差が根底に横たわっている。ただの皿洗い係だったShoshoが一転してステージで妖しく踊るくだりも良いけど、Valentineを自分の部屋に招きソファーで横になって彼を誘惑するシーンが出色。我が国に限らず規制が煩かったのは英米の映画も同じで、本当ならValentineShoshoのキスシーンがあるべきその瞬間、画面は切り替わる。キスに至る迄のShoshoの仕草は特別エロティックなことなどしていないのに、得も言われぬ官能的ムードが横溢。



ステージで舞うShosho(Anna May Wong)



ソファーで・・・



サイレント映画というのはレストアする際など、後付けで音楽をダヴィングするケースが多い。「Piccadilly」の場合、元々付いていた音楽をNeil Brandという人が録音した現代風なジャズ・サウンドに置き換えてしまっている。何故そんなことをしたのか解らないが、Neilの音楽は1920年代のフィーリングには程遠く、本来のJazz Ageを理解している人からすれば首を傾げたくなる改変。オリジナルはどんなもんか聴いたことが無いから、一概に否定ばかりもできないけれど、この点だけは疑問。




改めて言っておくが、Annaのフィルモグラフィーに現代人が誰しも知っている超メジャーな作品は無い。しかし「Piccadilly」は現存するフィルム、そしてソフト化されたもののうち、全盛期の彼女の魅力を捉えた代表作だと云われている。Blu-rayで彼女の出演作を楽しもうにも、まだまだアイテム数は少なく、ミステリ映画にも出てはいるが、「A Study in Scarlet〈緋色の研究〉」(1933)みたいに(現行品で流通してても)下らなくて観る気がしない駄作じゃあねえ。

フォトジェニックな人だからモデルと呼んでも差し支えなく、ネット上の旧い映像を動画で観る前に、雰囲気のあるポージングでキメている写真を眺めるのも良し。映像作品よりむしろゴージャスな写真集こそ早急に刊行されるべきなのかもしれない。満点に近い★4つの評価はAnna贔屓の偏愛であって、一般的な映画鑑賞の尺度ではないから誤解なきよう。






(銀) こういう神秘性のある女優がいれば私だってもっと戦前の日本映画を追うだろうけど、誰もいないからね。第一、探偵小説を映像化したものだとフィルム自体ちっとも残っていなくて話にならない。それはともかく「Daughter of the Dragon〈龍の娘〉」(1931)のBD、早く出してくれ。



 


2025年2月22日土曜日

『パナマ影に怖びゆ』海野十三

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興亞文化協會
1941年2月発売



★★   これも彼の歴史の一部





元来、海野十三のSFないしSFミステリーの問題点は、
〝科学恐怖の夢〟が卑俗な生物学的な恐怖感の次元にとどまり、
それがより次元の高い文明批評にまで昇華されなかった点にある。
このような思想性の欠如は、海野十三をやがて完全な軍国主義の宣伝者へと追いやることになるのである。

~ 権田萬治『日本探偵作家論』/「秘められた科学恐怖の夢=海野十三論」より

 

 

軍国主義の宣伝者か・・・。同世代の探偵作家達がここまで深入りしなかった国策協力も、海野十三は純真な人ゆえ真剣に日本を憂い、今では眉を顰められそうな小説を書きまくった。それがプロパガンダであろうと面白く読めさえすれば一向に構わない。だがいくら作者が海野十三とはいえ、面白味の無いものまで無責任に持ち上げ騒ぎ散らかすほど私も莫迦ではないつもり。本書『パナマ影に怖びゆ』は防諜/国威高揚、あるいは戦場における日本精神、そんな色合いの作品ばかり並んでいる。

 

 

小説以上に「作者の言葉」のアジテーションが読んでいてツラい。全文紹介したいのだけど四頁に及ぶため、要旨のみ御覧頂く。


 自分(=海野)は昭和十四年頃、小説家は自国の高度国防国家建設に重大なる一役を努めなければならないと認識するに至った。


✷ 「非常時局だけにしか役に立たぬ文学作品は文学ではない」などと言う文学者は、どこの国籍の人かと疑う。馬鹿野郞!


✷ 今、日本は支那大陸ですらケリが付いていないのに某々大国(=英米のこと)とも非常に危うい戦争を始めなければならない。この先五年十年の間、発表される作品は非常時局に役立つものであるべきだし、そうでない作品は如何に文学的香気が高くとも遠慮せらるべきである。



                   
 

 

「海鷲、海へ戾る」「奥地偵察日記」「戰はまだこれからだ」は死と隣り合わせな日本兵の奮闘を描き、「パナマ、影に怖ゆ(ママ)はアメリカがアルゼンチンの汽船を撃沈させてしまって両国がモメている間、秘密裡に日本がパナマ運河へ海底砲台を作っていたという、なんとも虫のいい話。「或る機密寫眞事件」「血に染つた石油傳票」は日本国内に潜入しているスパイの暗躍を描いたサスペンス・スリラーで、前述三篇に比べるとまだ読みどころはある。「幽靈飛行機」ソ連兵を主役に据えた秘密軍用都市の物語。生きている人間の死亡広告を出し周囲の目を欺くなど悪くないアイディア、探偵小説に活かさなかったのがもったいない。

 

 

戦時下日本の亡霊みたいな海野作品をことさら評価しなくてもいいとは思うが、そういった昔の常識/価値観/道徳観を無かったことにしてしまう御都合主義こそサイアク。例えば昨年末刊行された河出文庫版『盗まれた脳髄/帆村荘六のトンデモ大推理』を見て、私は開いた口が塞がらなかった。今まで(少なくとも探偵小説関連の書籍において)河出書房新社が偽善チックな言葉狩りをやらかすなんて思ってもいなかったからね。ところが新保博久による編者解説欄にはこう記してあるではないか。



Not to buy



「盗まれた脳髄」は、たとえば114ページ7行目が初出では「阿弗利加(アフリカとルビあり)の土人なんて、日本人に比べて頭脳は頗る劣等なんだらうが、人種にもよりけりで、何故阿弗利加土人なんか使つてゐるのだらうね」などと、帆村が誤った偏見に基づく発言をしているが、当時の平均的日本人の認識なのか、物語の効果上、作者は誤謬と承知で帆村に言わせているのかともかく、作者が特に過激な人種差別主義者だと誤解されかねないのを防ぐため、この一篇は全体に表現の和らげられた春陽文庫版に従った。

~ 河出文庫版『盗まれた脳髄/帆村荘六のトンデモ大推理』 351ページ17行目




平成時代に言葉狩りのみならず不要な改変を加えオリジナル・テキストを破壊してしまった春陽文庫版『赤外線男』所収「盗まれた脳髄」を採用したこの文庫の114ページ7行目にある帆村荘六のセリフは次のように表記されている。

「なぜアフリカの人なんか使っているのだろうね」

他にも、この一文の直前に出てくる〝黒ン坊〟が〝黒人〟になっているだけでなく、ポリコレとは何ら関係の無い単語の文字遣いさえあちこち変えられており、当Blogで度々申しているように一連の春陽文庫版「探偵CLUB」シリーズは最も底本に使ってはならないテキスト改悪本なのだ。「海野が過激な人種差別主義者だと誤解されかねない」とか、いかにもそれっぽい理由付けしているが何のことはない、抗議集団の襲撃が怖いばかりか彼らを納得させる労力を惜しんでるだけだろ。




「盗まれた脳髄」の原文は令和の今、許される表現ではない。しかしこんなポリコレ改変ばかり繰り返していたら昔の小説の復刊は成立しなくなる。誠意を持って原文どおりのテキストを復元したいのなら、光文社文庫版『肌色の月』所収「金狼」(☜)で日下三蔵がやっていたように、長文の断り書きを作成したりして抗議集団を納得させればいいじゃないか。日下でさえ旧い小説の復刊に際し語句改変の無いよう毎回努力しているのに、新保博久は一体何をやっているのか?もちろん一番タチが悪いのは抗議集団であり、ポリコレに対して急に弱腰になってしまった現在の河出文庫編集部だがな。




おまけに366ページでは、クソみたいな春陽文庫「探偵CLUB」版テキストを使っておきながら、「本文中、今日では差別的と目されかねない表現がありますが、執筆の時代背景と作品の価値を鑑み、原文のままとしました。」だってさ。どこが原文どおりなの?JAROに通報しなくちゃ。





軍国主義信仰に人種差別表現。それはあの時代の創作物だったら別に探偵小説・SFでなくたってありえる話。海外ミステリも例外ではなく、ホームズ物語も人種差別だとイチャモン付けられるシーンはある。映画「風と共に去りぬ」が黒人差別と標的にされ、配信停止になっている状況を大いに納得している人は世界人口のうち果たしてどれだけいるかね?そういう訳でテキスト改悪に日和った河出書房新社の本など買う価値無し。『盗まれた脳髄』の購入でドブに捨てた1,210円、龜鳴屋のある石川県へ再度寄付する為に使っとけばよかった。






(銀) 昨年後半、質の悪い海野十三の新刊本が出回り、中でも河出文庫版『盗まれた脳髄』に辟易したのもあって、前回今回と海野の記事を書いた。だいたい海野のトリビュート本ならまだしも、なんで海野個人の著書に筒井康隆のパスティーシュを紛れ込ませなきゃならんのか?物故作家の旧い作品を原形どおりのテキストで復刊する気の無い奴らは(出版社勤めのサラリーマンもフリーの人間も)旧いテキストの校閲とは全く関係の無い分野へとっとと去って頂きたい。





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2025年2月18日火曜日

『海底旅行』ジュール・ベルン(原著)/海野十三(編著)

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大日本雄辯會講談社 世界名作物語
1947年3月発売



★★★★  海野本人が執筆したと思しき翻訳本はどれ?




昭和時代のジュヴナイル本には著名作家の名前で発表しながら実は第三者に代筆させているものが少なからず存在していた。海野十三の著書にもヴェルヌ/ドイル/ウェルズ/チェスタートンの少年少女向け翻訳本があるのだけど、これらを本人の仕事だと即断していいのだろうか?参考までに、本書『海底旅行』を含む「世界名作物語」と題されたシリーズには江戸川亂歩(編著)『鐵假面』も含まれているが、これが岡戸武平の代筆であることは以前紹介済みである(☜)

 

 

ヴェルヌ長篇『海底旅行』及びホームズ短篇三作を収めた『まだらの紐』の海野訳初刊本は彼の生前に刊行されているからまだ良しとして、ウェルズ長篇『透明人間』とチェスタートンのブラウン神父短篇を幾つかセレクトした『影なき男』(のちに『名探偵ブラウン』と改題)が初めて本になったのは海野が逝去して八年後の昭和32年。まだ健在だった頃にどこかの雑誌へ発表していた可能性も無くはないとはいえ、そんな情報が載っている文献を読んだ覚えがない。というか海野の翻訳について詳しく論述している資料自体あったかどうかさえ思い出せない。ともかく『透明人間』と『影なき男』(『名探偵ブラウン』)を海野本人の訳と見做すには疑わしい点が多い。

 

 

以上の事を鑑み、海野翻訳作品四種のうち最も第三者の介入が無さそうに思える『海底旅行』を本日は紹介したい。『浮かぶ飛行島』と同様、写実風タッチの重厚な口繪・挿繪を提供しているのは樺島勝一。本書の冒頭には次のような序文が置かれているので見てもらいたい。この本では〝ヴェルヌ〟の発音を〝ベルン〟と表記している。

 

 

この物語について


本書は、フランスのジユール・ベルンの原作になる、海洋を主材にした空想小説である。
題名『海底旅行』が示すやうに、海底の魔人と呼ばれる謎の人物と、博物學者アロン博士とが、最新優秀をほこる潜水艦に乗つて、太平洋、インド洋、地中海、大西洋、南極海等の海底を縦横に探檢して廻るといふのがその内容である。この間、原作者ジユール・ベルンは、荒唐無稽な空想におちいることなく、あくまでも科學的考察にもとづいて、ゆたかな空想と、該博なる知識とをたくみにおりまぜつゝ、海洋の神祕と驚異を興味深く物語つてゐる。


諸君もすでに御承知の如く、海洋は全世界の陸地よりも、さらに廣大な面積をしめてゐる。しかもこの海洋は、領海三浬をのぞくほかは公海と呼び、いづれの國にも属することなく、航行も漁業も自由であつて、いかに文明の利器を活用して、海底から重要資源を開しようと、それは一向さしつかへのない、自由の世界である。

 

わが國は、肇國以来、海と共にさかえ、海と共に發展してきたが、今回、大東亞戦争の勃發するに及んで、さらにかゞやかしい飛躍が約束されている。

海國日本に生をうけたる者、何人といへども血潮の高鳴るを禁じ得ないであらう。また同時にわれ等にかけられた責任の重大さに粛然たらざるを得ない。

海、開けいくわれ等の海、無盡藏の富を海底に祕めた海、海はいたるところで、われ等の活躍を大手をひろげて待つている。

靑少年諸君、今こそ海に向かつて一大飛躍をなすべき時である。

私は本書が、多少なりとも、諸君の海にたいする理解を助け、親しみを增すことができれば、この上もないしあはせである。


昭和十七年三月      海野十三

 

 

戦前に翻訳された長篇の海外小説は大人向け子供向け問わず余計な部分を削ぎ落した抄訳になりがち。そもそも戦前とか戦後関係無く、常に子供向けの「海底二万哩」はそのようなエディット編集が行われてきた訳だが、それ以外にも本書を読むと、海野十三のクレジットが「訳」に非ず「編著」となっていることから分かるように、純粋な直訳ではなく当時の子供達に馴染みやすくするためアレンジを加えている形跡あり(そういえばネモ艦長の〝ネモ〟という名前を全て省略しているのは何故なのだろう?)。

 

 

例えば「饅頭」「カツレツ」「豆腐」といった昔の西洋人には縁遠い日本独自の食べ物がちょいちょい出てくるが、そんなのヴェルヌの原文にある筈が無い。なんせ戦争の激化であれだけ人気があった「のらくろ」でさえ本書の発売される前の年(昭和16年)には打ち切りを余儀なくされているぐらいだ。普段よく自作に織り交ぜていたユーモラスな表現をこの本では控えているように見せかけつつ、ちょっとだけ遊んでみたくなったのかもしれない。この「饅頭」やら「豆腐」なんていう記述が海野十三本人の執筆である証拠じゃないかな、と私はニラんでいる。

 

 

海野版『海底旅行』は戦後ポプラ社から何度か再発されてきた。それらは手元に無くテキストを確認できないけれど、本文そのものは時代に合わせて文字遣いを調整しているだけだと推測されるし、一番最後に出た『海底旅行』(「世界の名作 10」)も昭和43年の刊行であることを考えると、その頃はまだ言葉狩りが氾濫する時期ではないので〝、土人〟や〝めくら〟など目の敵にされそうなワードはそのまま生き残っているのではないか。但し上段にて御覧頂いた序文「この物語について」は戦争への言及がモロにあるため、戦後版では軒並み削除されているっぽい。





海野が亡くなった翌年(昭和25年)、木々高太郎編纂監修の名のもと東光出版社から「少年科学探偵小説 海野十三全集』というジュヴナイルの選集が発売され、そこには珍しく翻訳ものの「六つのナポレオン」「まだらの紐」「赤毛クラブ」が三篇分載ながら収められていた。だからドイル翻訳も海野本人の執筆に違いないと安易に断定するのは早計なれど、少なくともウェルズ/チェスタートンに比べたら可能性は高い。 

 

 
 
(銀) 今読んでも「海底二万哩」は面白い。ことに魚介類や鳥の料理がなんとも美味そうで、ノーチラス号には相当な腕前の調理師がいると思われる。その一方、近年絶滅危惧種指定されている儒艮(ジュゴン)を銛打ちするシーンもあり、本作が1870年に書かれた不朽の名作だということも忘れ「ジュゴンを殺すなんてけしからん!即刻その場面を削除しろ!」などと喚き立てる頭のおかしなエセ偽善者が出てこなければいいけどね。


 

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2025年2月15日土曜日

『闇からの声』イーデン・フィルポッツ/井内雄四郎(訳)

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旺文社文庫
1977年3月発売



★★★★  ホテルの部屋に死せる少年の怯えた声が・・・




私にとって「闇からの声」の翻訳者と言えば井上良夫だが、ここでは彼の訳は採らず、昭和後期の井内雄四郎を選んでみた。井内は同じ旺文社文庫で『赤毛のレドメイン家』も手掛けている。本書カバーイラストは石垣栄蔵の仕事。

 

 

「闇からの声」 歴代訳書一覧 

(ジュヴナイル本は省略した)

 

井上良夫       大元社                                  昭和17年刊

  〃        新樹社「ぶらっく選書16               昭和25年刊

  〃        早川書房「HPB 243」                   昭和31年刊

荒正人        東京創元社版「世界推理小説全集13          昭和31年刊

  〃                 東京創元社版「世界名作推理小説大系8」          昭和36年刊

  〃                 東都書房版「世界推理小説大系15」               昭和37年刊

橋本福夫                創元推理文庫                                       昭和38年刊

荒正人                 講談社版「世界推理小説大系6」           昭和47年刊

井内雄四郎      旺文社文庫 (本書)             昭和51年刊

荒正人        講談社文庫                           昭和53年刊

 

 

〝ほら、あのあわれな子供の声のことですよ。わたしはあの謎の底を突きとめなくてはいけません。さもなければ、底がないのだと率直に白状し、子羊のようにすごすごと、降霊術師に降参するほかはない。やつらはすでにわたしが軍門に下ったと主張しているのです。なんでも、人の話では、あの裁判このかた、何十人ものひとびとが信者になったそうですよ。でも、わたしは信者に加わりたくはない ― わたしの中のあらゆる本能がそれに反対しているんです〟

 

 

神経質で病気がちなルドヴィク・ビューズ少年(=ルドー)は静養に訪れたオールド・マナー・ハウス・ホテルの自室で深夜、恐るべき悪魔の仮面を目にして ただならぬ恐怖を覚え、遂には死に至る。不幸なルドーは脳膜炎になってしまったのだけど、現代の医学データによれば脳膜炎の発症は外的なウィルスや細菌が原因だそうで、ルドーみたいな症例は可能性として実際に有り得るのか、それとも作者が話を盛っているのか、専門の医者に訊いてみたいところだ。

 

 

警察を隠退してオールド・マナー・ハウス・ホテルにやってきた主人公ジョン・リングローズは子供に対する残虐な仕打ちに深く烈しい憎しみを感じる男ではあるものの、トータルで見てバランスの取れた性格付けがなされており、我々読者は快活で優秀なこの元刑事をスムーズに受け入れることができる。ルドーの死が殺人だと確信したリングローズは偽名を使って関係者達の懐へ入ってゆくのだが、積み重ねたキャリアに裏打ちされた狡猾さと慎み深さ、更に誰からも好感を持たれる明るさをフルに活かして次々相手を攻略。

 

 

「闇からの声」といえば心理描写の面を褒め称える声が多い。ビューズ家の召使アーサー・ビットン/ルドーの姉ミルドレッドとの婚約を破棄された青年医師コンシダイン/象牙細工フェチの男爵バーゴイン・ビューズ(=ブルック卿)、この三人とリングローズとの対峙がスリリングに描かれ、その部分がしっかりしているからこそ、オカルトめいた事件が論理的に説明されてゆく流れも楽しめる。

 

 

オカルト要素、すなわちリングローズがホテルの室内で二度も耳にした(既に死んでいる筈の)ルドーが助けを求める声の謎については人によって意見が分かれるかな。エンディングを台無しにするほどではないにせよ、思わず膝を打ちたくなるアイディアとも言えず、微妙な真相でね。ただ、悪魔の仮面を用いて少年を恐怖の淵に追いやる企みしかり、機械仕掛けに頼った犯罪ではない。終盤におけるリングローズ対真犯人の対決シーンにしても、キャンティはともかくサンドウィッチの欺瞞はバレなかったのか?とか一言突っ込みたくなる要素もあるにはあるけど、目を見張るレベルのトリックさえ求めなければ十分満足できる作品と言えよう。

 

 

 

(銀) この前upしたヴァン・ダイン「カナリア殺人事件」とは対照的な本作。音楽の世界でも詞はすごく良いのに曲がもうひとつだとか、その反対に作曲/アレンジは素晴らしくても作詞がお粗末とか、両方とも超一級なミュージシャンはそう滅多にいるもんじゃない。ミステリの世界も同じで、トリック/物語ともに突出している作家となると数は相当限られてくる。



 


2025年2月12日水曜日

『映像の世紀バタフライエフェクト//ラストエンペラー溥儀~財宝と流転の人生』

NEW !

NHK総合
2025年2月放送



★★★★   皇帝失格




1987年の映画「ラストエンペラー」(監督:ベルナルド・ベルトルッチ)は史実どおりのドキュメンタリーに非ず、エンターテイメント性を重んじて、あれこれ脚色を加えた作品である。今回「映像の世紀バタフライエフェクト/ラストエンペラー 溥儀 財宝と流転の人生」がオンエアされたことで〝溥儀は運命に弄ばれた可哀相な皇帝〟という単純かつ一面的な見方を改めた人も多かったのではないだろうか。

 

 

「ラストエンペラー」の冒頭、ソ連の抑留地から政治犯として中華人民共和国へ送還されてきた溥儀(ジョン・ローン)はリストカットして自殺を図るが、実際の溥儀はかなりの小心者。死刑になることを最も怖がっており、毛沢東からも皮肉を言われているほど。





映画「ラストエンペラー」より
死を恐れる現実の溥儀に、こんな真似ができる筈もない





東京駅で溥儀(右)を出迎える裕仁天皇(左)
この場面は「ラストエンペラー」でも再現して撮影されたのに、
日本側から何らかの申し入れがあったらしく、
劇場版はおろか長尺版でさえ天皇のシーンは削除されたまま。
顔立ちと言動があまりノーブルに思えない点は二人とも共通している。
(現人神だか知らんが、戦争を止めるべくアクションを起こさなかった裕仁を私は全く評価していない)

 

 
溥儀が紫禁城から流出させた由緒ある宝物の少なからぬ物量には驚いた。どれもこれも怪人二十面相がヨダレを垂らして欲しがりそうなものばかり。この番組で紹介されたお宝はホンの数点にすぎないが、中国政府が現在その回収に躍起になっているとはいえ、いくら金を積もうと何処に行ってしまったのか分からぬ品々の回収はさすがに難しいと思われる。これだけ唯一無二の宝物を流出させておいて、溥儀は中国国内でとんでもない大罪人扱いされてないのか、他人事ながら心配になるね。





溥儀が流出させた膨大な宝物のうちの一部














まだ紫禁城に居た頃から、溥儀は留学費用を工面する目的などと言って、少しづつ宝物をちょろまかし生家へ移していた。その後も日本の富豪に名画「五馬図鑑」を売却したり、日本の敗戦が濃厚になり内地へ亡命しようとしてソ連軍に取っ捕まった時も保身のためお宝をばら撒いたり、皇帝とは思えぬ振舞いばかりしている。東京裁判における溥儀の無責任な弁明を聴いて呆れかえった日本人も、ようやく溥儀のチキンぶりを知ることに。





東京裁判での溥儀





満洲で撮影された溥儀の正妃・婉容
映画でも描かれていたように、この頃の彼女は阿片中毒状態。
哀れな末路を辿る婉容にとって溥儀は嫁ぐべき男ではなかった。





同情すべき点もあるものの、どう見ても愛新覚羅溥儀は人民の上に立つ器ではない。皇帝の座に戻りたくて日本軍に頼ったかと思えば、満洲國の立場が危うくなると変り身も早くスターリンに尻尾を振ったり、言っちゃあ悪いが何の誇りも持たぬ唯の人。ジョン・ローン演じる綺麗な顔のラストエンペラーはスクリーン上の幻影だったのだ。
  

 

 

 (銀) 今回の「映像の世紀バタフライエフェクト」は面白かった。今後、ひとりの人物にスポットを当てるのであれば、前人未踏の六十九連勝を成し遂げたがゆえ皇軍のシンボルに祭り上げられた戦前の大横綱・双葉山定次を特集してほしい。引退後に璽光村事件を起こしたりもして、彼の一生は溥儀よりはるかに奥が深い。

 

 

 

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2025年2月8日土曜日

『山本周五郎[未収録]ミステリ集成』山本周五郎

NEW !

作品社  末國善己(編)
2025年2月発売



★★   カバー絵だけはサイコー




戦後の『新青年』へ発表されたにもかかわらず探偵小説として「寝ぼけ署長」が話題に上る機会は非常に少ない。私自身「山本周五郎探偵小説全集」や「周五郎少年文庫」をいくら読んでも、ミステリのフォーマットに寄せているだけで、スピリット(奇想と言い換えてもいい)が伴っていないため、この人ならではの魅力を享受できずにいる。それゆえ、2000年以降リリースされた周五郎の本にまだ未収録だったレアものを頑張って末國善己が総ざらえしたと聞いても食指は動かなかったのだが、すごく好みのカバー絵に抗いきれず、つい本書を購入してしまった。

 

 

探偵小説やSFの場合〝奇想〟と呼べるアイディアがあればあるだけ読み手の記憶に残るし、逆にそれが無かったら印象はひたすら薄くなる。このジャンルの人ではない周五郎にそこまで求めるのは気の毒だけど、突き抜けた作品がひとつとして無いのは厳しい。彼の探偵小説を収めた一連の単行本同様、いやそれ以上に、今回の本は最後まで読むのが苦痛だった。

 

 

まず長篇などの連載物だが、冒頭の「少年ロビンソン」「新宝島奇譚」が至極ありきたりな冒険小説すぎて、いきなり出端を挫かれる。また軍事色の強い「鉄甲魔人軍」(春田龍介シリーズ)と「幽霊要塞」にしても、前述の二篇がトコトンつまらなかったせいか、その道連れでこちらのテンションは下がる一方。常々思うのだけれども、決して少なくはない数の探偵小説を執筆していながら、周五郎の描くキャラクターに個性が感じられないのは何故?

 

 

それに比べて短篇、特に大人向けの小説はいくらかマシ。ちょいとお下劣なページが多い『講談雑誌』に発表した「男でなかった男の恋」「H性病院の朝」「接吻を拒むフラッパー」は〝性〟を扱った内容で、大上段に振りかぶったアクション・スリラーより、こういうチマチマした日常を描いているもののほうに意外と味があるのではなかろうか。片やジュヴナイル系短篇には「魔ヶ岬の秘密」「幽霊飛行機」「火見櫓の怪」「深夜、ビル街の怪盗」「少女歌劇の殺人」「殺人円舞曲」が並び、中には小ぶりながらトリックを用いた作品も含まれ、探偵小説と銘打った面目は一応保てている。

 

 

本書収録作の初出誌は前段で述べた『講談雑誌』の他『少年少女譚海』『新少年』に限定されており、その版元は博文館。周五郎の探偵小説は博文館雑誌の一面を象徴しているとも言えよう。最初から予想していたとはいえ、本書はカバー絵(太田聴雨「星を見る女性」)の比類なき素晴らしさに小説が見合ってなくてガッカリ。やっぱり書店で中身を確認した上で買うべきだった。それでもここまで周五郎探偵小説を発掘した末國善己と、辛抱強く末國をフォローし続けてきた作品社に対しては「お疲れ様」と言わねばなるまい。
 
 

 

(銀) 冬場、暖房の入った自室でハードカバーの古書を読んでいると堅表紙がまるでイナバウアーのように反り返ってしまう。それが嫌なので、この時期は気を付けているのだが、ふと目を離した隙に、ベッドの上へ放り出しっぱなしにしていた本書はイナバウアー状態になっていた。新刊本でもそういう事が起こり得るからご注意を





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