ジョージ・オーウェルってSF作家だと思っていたのだが、世の中ではいつの間にか政治的作家と呼ばれているらしい。地球上のすべての国を征服しようとしている中国の危険さに対し、 毎度おめでたい日本人へ今一度警鐘を鳴らすべく本書が制作されていることは、 「訳者まえがき」「訳者あとがき」を読めば誰の目にも明らか。
この記事を書いている間にも、すっかり中国共産党のイヌになり下がったトーマス・バッハ & 国際オリンピック委員会の指揮の下、「チャイナ、スゴイ!」を全世界にアピールするため冬の北京の大茶番運動会は行われている訳で、その開催直前を狙って本書は投下された。 日本の莫迦なTV局のアナウンサーが今回のオリンピック会場の食堂で、人間が一切タッチせずに全部機械で作られ天井を伝ってテーブルに運ばれてくる食事を「すごくおいしいですう」などと報道しているが、どんな異物が混入しているかわからんあんなメシ美味い訳ないだろ。
ここにセレクトされている評論は1940年代に書かれたもの。 (オーウェルは1950年に肺結核で亡くなっている) その中からアフォリズム的な箇所を無作為に拾ってみた。 以下、【 】は私(=銀髪伯爵)による注釈。
一 書評:ヒットラー著『我が闘争』(1940)
〝ネズミを殺すという段になると、 彼【ヒットラー】はネズミを竜のように見せる術を知っている。〟
〝どういうわけか彼は勝利に値する、と感じさせられる。(中略) 我々が日頃好んで観る映画の半分はそういう魅力をテーマにして作られているからだ。〟
二 聖職者特権 ― サルバドール・ダリについての覚書(1944)
〝ダリの擁護者たちがダリを持ち上げて主張しているところのものは、 一種の聖職者特権であるというのは見て取れよう。〟 〝それでも(中略)芸術家は殺人を犯しても良いなどと主張する者も一人もいないだろう。〟
三 ナショナリズムについての覚書(1945)
〝ひとたび自分が味方すべき側はこれだ、と決めると、 ナショナリストはそれを絶対に最強であると自らに言い聞かせるのである。 そして諸事実が圧倒的にその見方を否定するようになっても、 彼はこの信仰にしがみつくことができる。 ナショナリズムとは自己欺瞞で調節された権力渇望のことである。〟
四 文学を阻むもの(1946)
〝全体主義国家は、実際、過去の絶えざる偽造を要求するのであり、 とどのつまり、客観的事実なるものは存在しないと信じることを要求するのである。〟
五 政治と英語(1945,1946)
〝政治的言語は、虚偽を真実と思わせるように、殺害をまともと思わせるように(中略)、 と企まれている。〟
六 なぜ書くか(1946)
〝本を書こうとして腰を据える時、 (中略)暴きたい嘘があるから、注意を向けさせたい事実があるから書くのであり、 私【オーウェル】の最初の関心事は聞いてもらうということである。〟
七 作家とリヴァイアサン(1948)
〝政治においては二つの悪の中から、小さい方の悪を選ぶということしかできないのである。〟
八 書評:ジャン=ポール・サルトル著『反ユダヤ主義者の肖像』(1948)
〝なぜ反ユダヤ主義者がユダヤ人以外のいじめの対象をさしおいて、 もっぱらユダヤ人をいじめの対象にするのかについて、 サルトル氏は論じることをしていない。〟
九 ガンジーについて思うこと(1949)
〝ガンジーが言うには、親密な友情は危険である、 なぜなら「友人は互いに作用し合い」、友人への忠誠を通じて、 人は悪行に引き入れられることがあるからである。〟
九章のガンジーのエピソードには口があんぐり。だってガンジー曰く、 「集団自決こそドイツ在住のユダヤ人が為すべきことである」 「集団自決をしていたなら、それは全世界の人々、ドイツの人々をヒットラーの暴力に目覚め させたであろう」ってんだもん。んな理屈、誰が承服するんだよ。
私だって、香港・台湾・チベット・ウィグル、その他中国に蹂躙されている人達の為にも、 習近平はじめ中国共産党は一刻も早く一掃されてほしいと真剣に思ってるし、 本書におけるオーウェルの考えには「いちいち、ごもっともです」と納得はする。 でも一作家としての彼の在り方を鑑みると、エンターテイメント性が横に置かれてしまい、 政治的作家なんて呼ばれる見方のほうが変に肥大化してしまって、 本書を読み終わった後なんだかモヤモヤした気分が抜けないのだ。
(銀) 翻訳者・照屋佳男は「冷戦終結後、我が国では忘れられた存在となっているオーウェルを甦らせる上で本拙訳がいささかなりとも役に立てば幸いである。」って述べてるけれど、 オーウェルのどこが国内で忘れられているというのだろう? 小説というか著書だけでなく、研究書に至るまで近年いろいろな書籍が出てるではないか。 ちょっとネットで調べればすぐわかるのに、ご高齢だから御存知ないのかな。