2020年8月1日土曜日

『天城一の密室犯罪学教程』天城一

NEW !

宝島社文庫 日下三蔵(編)
2020年7月発売



★★★    評論パートは★★★★  小説パートは★★





ロックやポップス、いわゆる商業音楽の世界だとスティーヴィー・ワンダーやプリンスのようにソングライティング・アレンジ・歌唱・演奏を一人で何でもこなせる万能な例外もいるけれど、ビートルズが登場するまでの時代は作詞・作曲・歌唱それぞれ分業が当り前だった。

日本の探偵小説界の場合はマーケットが狭いぶん、並みの成功程度では生活できないから、エラリー・クイーンばりに二人一組になって仕事をするのは難しかったのだろうか? 漫画の世界には藤子不二雄という成功例があるし、さいとう・たかをの〈さいとうプロ〉だって早くから分業制を導入していたというのに。

 

 

 

天城一の小説を読んでいると、彼がトリックを考案する担当になって文章の達者な他の誰かと組み、ペアで執筆活動してたらなあ・・・と埒も無い妄想が止まらなくなる。あるいは、専業作家じゃないのだから裏方に徹して、気心の知れた探偵作家にアイディアを売って提供するとかさ。島久平の「硝子の家」って、天城が自分のアイディアを譲ってあげたんでしょ?

 

 

 

本書収録小説でもトリックのアイディアこそ目を引くものがあるのに、それ以外の文章的な部分がおそまつで、いつ読んでも睡魔に襲われる。天城を褒める人達は、それこそ長らく著書にならなかった彼の小説を、「難解だが余計な部分を削ぎ落した〝原液〟のようなもの」だとか「関西在住だから作品を雑誌に掲載してもらうのに不利だった」「数学者という本業があって忙しかった」と持ち上げたり擁護したりしているけれど、残念ながら〈物語る力〉を持ち合わせていなかっただけなのでは?

 

 

 

PartⅠPartⅢの小説パートにおいて、言葉の運びがなんだか変。

同一セリフの中で、「・・・です。・・・です。・・・です。」「~サ。 ~サ。 ~サ。」と、同じ語尾を何度となく繰り返し過ぎるのはどうにも見栄えが悪いし、場面場面での状況や各登場人物の有り様もわかりにくい。

裸足ハダしになっていたり誤植もあるのでイラッとする)

 

ところが、PartⅡや巻末の密室作法〔 改訂 〕といった評論パートは読みにくいどころか、むしろ滅茶苦茶面白い。ただ、自作に対して弁解が多いのは潔くない。国内外さまざまな作家の作品にも触れているので、やはり探偵小説の読書量が多い人でないと薦めにくい。

 

 

 

「朝凪の悲歌」における牡丹野雪子はヒロインとして印象的だし、GHQのヴィンセンスなどは他の作家にはあまり見られないキャラ素材だから、存在感をもっとふくらませて、準レギュラーにでも仕立てれば独特のものが出来たのでは・・・と惜しい気持ちになる。江戸川乱歩から「探偵小説のスタイルの極北としては、学術論文とほとんど同じものが考えられる」と言われて「盗まれた手紙」を書いたそうだが、これは乱歩が普通の小説スタイルでうまく書けない天城を傷つけないように、そういう表現方法を提案したとしか思えない。

 

 

 

「このミス第3位」「本格ミステリ大賞受賞」とか、誰かの煽り文句に左右されずに読んでみて、自分の感性で面白ければ結構だし、面白くなければ面白くなくっても別にいいじゃないか。誰かが評価しているから知ったかぶりして、自分も褒めるフリをするのが一番カッコ悪い。自称ミステリマニアでそういう人、きっといそう。 

 

 

 

 

(銀) わかりにくいものを何度もリピートしてみる愉しみ、なんてことは音楽の世界でもよくある。実際私が普段聴いているCDはそういうものが多いけれど、小説の場合はどうだろう?

 

 

海外の良く出来た本格ものなどは再読時に伏線を再確認して愉しめたりするが、土台となる文章がしっかりしていなければ、いくら魅力的なトリックを持つ内容でも、再読する気がなかなか起こらぬものだ。チェスタートンに近い?言わんとすることは解るけど、ブラウン神父はここまで読みにくくはないんじゃないか。天城一の文章を〈彼のスタイル〉として良い風に見做すほど、私は盲目的な肯定はできないな。

 

 

この本のカバー装幀は、元本の日本評論社版の落ち着いた感じのほうが絶対良い。本でもCDでもそうだけど、なんで日本人ってこんなゴチャゴチャ帯に煽り文句を並べ立てないと安心できないのかね?