⑩ 「過去の影」(1)~(9)
【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。
【この章のストーリー・ダイジェスト】
▲ 「過去の影」(1)~(9)
娘・花子の失踪に悩み、ひとり閉じ籠っている春日龍三の邸に千家篤麿が訪ねてきた。河内荘の村役場で謄本の一部を破り取ったのは、やはり彼の仕業。篤麿は花子の身の安全を約束する代わりに五十萬フランを要求。更に二の矢として、龍三氏が所有していたのにいつの間にか春巣街死美人殺しの兇器として使われていた例のナイフまでチラつかせてみせる。なぜ篤麿があのナイフを持っているのか?春巣街の死美人が龍三氏の先妻である事までも篤麿は知っていた。
篤麿は龍三氏に捨て台詞を残し春日邸を去りかけた時、入れ違いで到着した馬車の中から綾小路浪子と木澤由良子が降りてくるところを目撃する。浪子は龍三氏の先妻の娘として改めて由良子を紹介。親の情愛を知らずに育った由良子は父からの温かい言葉を待っていたが、龍三氏は花子の立場を慮って曖昧な態度を取ってしまう。
昔、龍三氏は二十七歳の時に美しい篠崎龍子と熱に浮かされたような最初の結婚をした。ところが赤ん坊が生まれると夫婦の間に亀裂が入り始める。元々舞台が仕事の場だった龍子は家庭的で地味な暮らしが性に合わず、赤ん坊を連れて家を出て行った。氏は手を尽くして妻と娘の行方を捜したがどうにもできず、それから二年後・・・豪州より龍子が自動車事故で即死したとの知らせが届く。まだ若かった龍三氏は勤め先である貿易商の主人に見込まれており、龍子の死亡通知をきっかけに、主人の娘つまり花子の母と二度目の結婚をしたのだった。
以下は「過去の影」の章にて、春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。
A 悠々として迫らない態度で (春) 283頁1行目
いういうとして迫らない態度で(九)
B 自分の勝手で身を隠している者の安全を(春) 283頁12行目
自分の勝手で身をかくしてゐるものを (九)
C ひと振りの短刀である。
しかもあの春巣街の事件の折、 (春) 284頁10行目
一口(口=ふり、とルビあり)の短刀である。
しかも、あの春巣街の事件の折柄、(九)
D しかし、しかし ―― おれは何も知らん (春) 286頁1行目
然し、然し ―― 俺(おれ)は何も知らん(九)
春陽文庫は龍三氏の〝俺〟を〝わし〟と読ませたいのなら、
全て統一してもらわないと。
E テーブルの水瓶を引き寄せぐっと飲み干した (春) 287頁1行目
卓子(テーブル)の水瓶を引き寄せ、
コップに一杯それに注ぐと、ぐつと飲み干した(九)
F こんな生易しいことで(春) 288行 1行目
こんな生優しいことで(九)
G コツコツと舗道を鳴らして(春) 288頁17行目
かつかつと舗道を鳴らせて(九)
擬音語まで勝手に変えてしまう春陽文庫・・・。
H 息を呑み込むと、
慌てて傍らの街路樹の陰に身を隠し (春) 289頁4行目
息を飲み込むと、
周章(あわ)てゝ傍らの街路樹のかげに身を隠すと(九)
I またしても彼の仕事の邪魔をしようとする(春) 290頁 4行目
又しても彼の仕事の邪魔を仕様とする (九)
明らかに『九州日報』の間違い。
J 彼女らは表の階段を上り切ると(春) 291頁1行目
彼等は表の階段を上りきると (九)
これは浪子と由良子の事だから〝彼等〟ではおかしい。
前章から引き続き『九州日報』の担当者はやる事なす事ボロボロで、
このあと(4)の最終行でも同じ間違いをしでかしている。
K 浪子はなんでもないように (春) 293頁8行目
浪子は何(な)んでもない事のやうに(九)
L そのある点までは知っているけれど (春) 293頁9行目
その或點(あるてん)までは知つてゐるけれど(九)
M よろよろと二、三歩後ろへよろめいた (春) 295頁11行目
よろよろと二三歩後(あと、とルビあり)へよろめいた(九)
N お母さまだと信じ切っていたんです。が、(春) 297頁8行目
お母様だと信じきつてゐたんですが、 (九)
O この無謀な恋愛を後悔したかしれない (春) 299頁2行目
この無暴な戀愛を後悔したかも知れない(九)
P 妻の不心得もさることながら(春) 300頁13行目
妻の不心得はさる事ながら (九)
Q 生まれて初めて(春) 303頁8行目
産まれて初めて(九)
R 彼女はいろんな興奮のために (春) 303頁9行目
彼女は種(いろ、とルビあり)んな昂奮のために(九)
S しかしそのくせ (春) 303頁15行目
一種甘いやうな懐かしいやうな、然し、そのくせ(九)
T この名を呼んでいたのだった。(春) 304頁1行目
この名を呼んでみた。 (九)
満璃子(安藤婆さんによる出まかせだった)
↓
白根星子(庄司三平によって通報された名前だが、まだ不明なところ多し)
↓
お鈴(前回の記事に書いたとおり、お利枝婆さんの言に偽りが無ければ本名の可能性大)
↓
篠崎龍子(本章に至って初めて龍三氏の口から語られた名前)
生前の松村は山前譲から新聞連載の複写を渡されて本作を読んだのだが、山前が提供したのは後発の『九州日報』だったから、松村はそれを初出だと誤認していた節がある。山前は北海道出身なので私はてっきり本作を地元の新聞『北海タイムス』で知ったものだとばかり思っていたら、そうじゃないみたいで。
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〇女妖(横溝正史と合作)(九州日報、二月一日より八月十四日)
という記述がある。「ナーンダ、乱歩自身ちゃんと認めてるじゃん!」と仰る方がいそうだが、実はこの部分、乱歩本人の記述ではない。「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」は元々『探偵小説四十年』の巻末に載っていたもので、乱歩生前にリリースされた元本、あるいは沖積社復刻版で昭和5年度の【小説】欄を見ると、本作の記述は存在していない。どういう事かといえば、江戸川乱歩推理文庫を出すにあたって、中島河太郎がせっせと頑張った追補のうちのひとつが上記の本作に関する箇所だったのだ。
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それはともかく松村の本作への言及だ。中島河太郎は「稚拙」だと切り捨てていたが、松村は「捨て去るには惜しい作品」とフォローしつつ、こういう事を述べている。
「そうした乱歩に目を付けた『九州日報』から執筆依頼があったと推測される。せっかくの依頼だから、引き受けはしたものの、時間的に乱歩は書く余裕がなく、当時『新青年』の編集長でもあり作家でもあった横溝氏に相談したのではないだろうか。ただし、『九州日報』としては乱歩の名前が欲しいので、横溝氏との合作という体裁をとったのだと思われる。また、実際に執筆したのは横溝氏だとしても、横溝氏と乱歩は親しく行き来していたので、大体の構成やエピソードなども相談しあったとみるのが自然だろう。」