⑭ 「黒い棘」(1)~(11)
【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。
【この章のストーリー・ダイジェスト】
▲ 「黒い棘」(1)~(11)
炎上した千家篤麿邸から春日花子を救い出した成瀬珊瑚子爵は牛松/お兼/庄司三平と合流して人目のつかぬ街にひとまず腰を落ち着けていた。そんな彼らの居場所は誰も知らない筈なのに、春日花子を訪ねてきた者がある。木澤由良子だ。彼女は負傷した綾小路浪子を見舞った成瀬子爵が花子にも是非来てほしいと云うので迎えに来たと告げる。その由良子の跡をつけてきたのか、蛭田紫影検事が家の外をうろついている様子が窓から見て取れた。
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以下は「黒い棘」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。
A 晴れ渡ったような気持になれるのだろうか(春) 396頁15行目
晴れ渡ったやうな氣持になれるのだろう (九)
B その時に残ったただ一人の人!(春) 397頁5行目
その時に殘る唯一人の人! (九)
C 彼女の周囲は真っ暗闇だった (春) 397頁6行目
彼女の周圍は真闇(まっくら、とルビあり)だつた(九)
D どっきりとしたように訊き返した(中略)だれにも絶対(春) 397頁17行目
どきりとしたやうに聞き返した(中略)誰にも絕對に (九)
E 浪子さまじゃあないかしら (春) 398頁7行目
浪子さんぢやアないか知らん(九)
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F 走っているうちにだんだん高じてきたのだ(春) 403頁 13行目
走ってゐるうちに段々昴じて来たのだ (九)
G 裏口から出ていった (春) 404頁6行目
その間にこつそりと裏口から出て行つた(九)
H ちょっと肝を抜かれた体で由良子の顔を見た (春) 406頁6行目
一寸度肝を抜かれた態(てい)で由良子の顔を見た(九)
I だれかが跡を尾けてくるかもしれません(中略)お邸のほうへ(春) 406頁 7行目
誰かゞ後をつけてゐるかも知れません(中略)お邸のほうへは(九)
J 屋根に降りはじめた (春) 407頁3行目
家の屋根に降り始めた(九)
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K 忌まわしさを感じずにはいられなかった(春) 408頁13行目
忌まはしさを感ぜずには居られなかつた(九)
L 戸惑いもせずに歩いていく (春) 410頁15行目
戸迷ひもせずにあるいて行く(九)
M 花子は半ば失神したような気持ちで (春) 411頁8行目
花子はもう半ば失神したやうな氣持で(九)
N 浪子さまはいったいどこにいるのです(春) 412頁7行目
浪子さんは一體何處にゐるんです (九)
O あたしをこんなにしたのはいったいだれでしょう(春) 414頁5行目
あたしをこんな氣違ひにしたのは一體誰でせう (九)
毎度毎度の疑問なれど〝気が違った〟は良くて、何故〝気違い〟はダメなんだ?
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P そうです、あなたのお父さまです。
(中略)ああ、その間あなたは (春) 414頁10行目
さうです。あなたのお父さんです。
(中略)あゝ、その間はあなたは(九)
『九州日報』のこのシーンにおける由良子のセリフは、
ずっと〝お父さん〟になっている。
Q 黒いカーテンの中にある寝台の上に (春) 415頁9行目
黒い帳(ルビなし)の中にある寢臺の上に(九)
R 逸らそうとしても逸らすことのできない(春) 416頁3行目
外らさうとしても外らす事の出来ない (九)
S 身動きすることもできないのだった(春) 418頁14行目
身動きをする事も出来ないのだつた(九)
T 長い間抑えていた冷酷な残虐性 (春) 419頁2行目
長い間押へに押へてゐた冷酷な、残虐性(九)
U あなたは気がおかしいのです (春) 420頁11行目
あなたは氣が違つてゐるのです(九)
春陽文庫414頁では〝気が違った〟を採用していたのに、
ここでは語句改変。
V それを寝台の下へ投げ出すと (春) 421頁13行目
それをがつくりと寝台の下へ投げ出すと(九)
W 恐ろしい拷問の備えをここへ持ってきておいたのだ(春) 422頁10行目
恐ろしい拷問の場合を此處へ持つて来ておいたのだ(九)
木澤由良子は一体いつの間にこんな不穏な物件を見つけ、祭壇まで持ち込み(?)
母である死美人にそっくりの人形を作らせる事ができたのだろう?
X 彼女はきっと気が変になるか(春) 423頁9行目
彼女はきつと氣違ひになるか(九)
Y 突然出現した人物の顔を見詰めていた(春) 426頁2行目
突然出現した人物の顔を瞶めてゐた (九)
Z それにはさすがの蛭田検事も (春) 426頁5行目
それには遉(さすが、とルビあり)の蛭田検事も(九)
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木澤由良子は父・春日龍三が母である春巣街の死美人と自分を捨てたように思い込んでいるが、春日家を勝手に出ていったのは実は死美人のほうであって龍三氏に非は無いのは御存知の通り。物心つく前に母とも離れ離れになった由良子は誰からもその経緯を聞かされていなかったため、本章のような行動に出てしまったのだろう。思い返してみると先祖の遺した莫大な財産をめぐる陰謀みたいなのはまだしも、作者を投影した複雑な家庭環境に悩まされる登場人物という、のちの横溝正史作品に顕著なモチーフが、昭和4年の時点で既にもう顔を出している。
(銀) 前回の記事にて述べたように、地方新聞社へ連載小説を売り込むエージェント業を行っていた池内祥三からの依頼で、本作は執筆されたとも云われる。当時はまだ横溝正史単独のネームバリューでは新聞連載には弱いと思われており、それで江戸川乱歩との連名になったのでは、というのが世間の共通見解のようだ。確かにあの時代の横溝正史は作家というよりも編集者の身だし、それまで発表していた著書といえば聚英閣探偵名作叢書『廣告人形』の一冊しかなかったのだから無理もない。
ならば池内祥三は本作以外に、どんな作家どんな作品を地方新聞へ売り込んだのか、それが知りたい。そのエージェント業自体いつまで続けられたのか一切不明だが、戦前の間ずっと彼がこの配信業をやっていたとしたら、戦時下の横溝正史「雪割草」小栗虫太郎「亜細亜の旗」等も池内経由による作品だったのか?探偵小説だけでなく、昔の新聞に埋もれたままの小説発掘はもっと進められなければならない。
⑧の記事で、本作の執筆は原稿料の安い博文館雑誌に、どうしても乱歩に連載してもらうための資金捻出なのでは?なんて突拍子もない説を論じたが、もうちょっと普通の見方もしてみよう。本作を執筆する前年の1928(昭3)年の横溝家は長女・宜子氏が二月に誕生。第一子だし、いろいろ物入りになると思って、ここは一発新聞連載を引き受けたのかもしれない。昭和3年後半の「陰獣」では横溝編集長の猛プッシュがかなり効いて大成功したのもあるから、乱歩としても恩義を感じて自分の筆名が使われるのを黙認したのか。
⑮へつづく。