2021年9月22日水曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史

NEW !

九州日報
1930年7月24日~8月3日掲載



⑯ 「袋の鼠」(1)~(10)




【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。

 

 

【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「袋の鼠」(1)~(10

 

馬車暴走事故の影響から気持ちも沈みがちになり、自宅で静養していた綾小路浪子のもとへ、胸から腹にかけてどす黒い血で汚れ、徒ならぬ様相の木澤由良子が帰ってきた。何かと目をかけてくれた浪子にそれまで自分のやってきた悪業の数々をぶちまけ、罪の代償として思いもよらぬ天罰が下った事を告白する由良子。だが毒を呷っていたこの女には、断末魔の瞬間がすぐそこまで迫っていた。数枚の紙片を浪子に手渡し、畢竟若き女妖は己の命を絶ったのである。

 

 

由良子の最期の伝言によって、浪子は再び動き出す。
彼女は検事局へ赴くと、蛭田紫影の同僚である刈谷という若い検事に、春巣街殺人事件の犯人を引き渡すからと申し出て警察を手配させ、千家篤麿の潜んでいる大場のヤサへ馬車を走らせた。たった二人で踏み込んだその家の中にはお兼の屍が残されているばかりで、成瀬珊瑚子爵と牛松そして蛭田検事の姿は見当たらない。浪子は刈谷検事と共に、由良子に教わった抜け穴の先へと一歩一歩進んでゆく・・・。


                        

 

以下は袋の鼠」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A  『九州日報』マイクロフィルムは(5)=第161回/1930728日該当部分の

     上段左端一行が欠落している。

 

 

B   春めいた陽気がしっとりと街の上に降りてきて  (春)  4551行目 

   春めいた氣持ちが、しつとりと街の上に降りて来て(九)

 

 

C   しかも自分はその中心にいたのだ   (春)  4554行目

       然(しか)も自分はその中心にゐるのだ(九)

 

 

D     由良子さん ――(春)  45613行目

       由良さん ―― (九)

 『九州日報』はこの後も浪子の呼びかけが「由良さん」になっている箇所が多い。

 一方、由良子からの呼びかけは全て「浪子さま」になっているけれども、

 ⑬「奔馬」の章では「浪子さま」と「浪子さん」が混在していた。

 春陽文庫は「浪子さん」で統一、「あなた様」の〝様〟を削ってしまっているが、

 個人的には、由良子は貧しい身分で浪子はセレブという立場の違いがあるし、

 由良子の呼びかけは「浪子さま」で統一すべきだと思う。

 

 

E      浪子は思わず声をかけた  (春)  4572行目

    浪子は思はずさう聲をかけた(九)


                        

 

F    数々の恐ろしいことができたでしょう!(春)  45817行目

    數々の恐ろしい事が出来たのでせう! (九)

 

 

G   放っておいてください。(春)  4614行目

         放つておいて下さいよ、(九)

     

 

H   あたしは花子さんまでも殺そうとした(春)  4618行目

         あたしは花子さんまで殺さうとした (九)

 

 

I    あたし、そうしなければいられなかったのです(春)  4625行目

         あたしはさうしなければゐられなかつたのです(九)

 

 

J    河内家の遺産というのが欲しくなったのですわ(春)  4626行目

         河内家の遺産といふのが欲しかつたのですわ (九)

         由良子は春巣街死美人の娘だから、河内兵部の血族の一人になりうる。

         だが、孤児として育ってきた彼女は河内兵部の遺産の存在など知る機会がなく、

         それに気付くきっかけがあって初めて遺産を狙う殺人の動機も生まれるのに、

         作者はそのあたりをごっそり書き漏らしてしまっている。


                       

  

K     殺したとき手に入れた河内家のこの謄本(春)  46511行目

     殺した時、手に入れた河内家のこの系圖(九)

       作者の描く設定が支離滅裂ゆえ、

       春陽文庫が〝系圖〟をおしなべて〝謄本〟へ書き換えたところで、

     この困った矛盾は修正できなくなってしまった。どういう事か説明しよう。

 

 

       ⑩「過去の影」の章では作者の語る地の文の中で、村役場の謄本を破り取ったのは、

         千家篤麿だとハッキリ書かれている。この設定をキープしておけばよかったのだ。

         なぜなら村役場に最初に到着した(ロシア人=つまり外人である)篤麿に

         謄本の肝心なページを持って行かれたせいで、

         二番目にやってきた(外人ではない、若い紳士に変装した)由良子は謄本とは別に

         河内家の系図を持っているお利枝婆さんを殺して系図を奪い取る理由が成り立つし、

         その結果、奪った系図を本章で由良子が持っていても齟齬にはならない。

 

 

   ところが⑮「疑問の家」の章になって作者が謄本を破り取った張本人の千家篤麿に、

  「(若い青年が)戸籍謄本の中から一部分を抜き取った」などと云わせるものだから、

   物語の終盤に来ていつの間にか村役場の謄本から肝心なページを破り取ったのは、

   篤麿ではなく由良子の仕業にすり変わってしまった。致命的なミス。

   若い青年紳士とは言うまでもなく由良子の変装である。 

 

 

L        憎むべき悪魔の最期 (春)  46613行目

      憎むべき惡魔の最後だ(九)

 

 

M    この女を憎むことができない (春)  46614行目

          この女を憎む事が出来なかつた(九)

 

 

N    綾小路浪子は仕度を整えると、

    とりあえず由良子の身体を寝台の上に載せた(春)  4674行目

          綾小路浪子は身仕度をとゝのへると、

          取敢ず由良子の體を寢臺の上にのつけた  (九)

 

 

O    彼女は馬車を使ってまっすぐに検事局へ走った    (春)  46711行目

          彼女は馬車をかつて眞直(まっすぐ)に検事局へ走つた(九)

     『九州日報』の〝かつて〟は〝駈って〟の意味であって、

   〝使って〟じゃないだろ。


                        

 

P    生憎蛭田検事がまだお見えになりませんので(春)  4685行目

    生憎蛭田君がまだお見ゑになりませんので (九)    

    元の原稿にはどう書かれていたのか分らんけど、

    物語も大詰めに来ているというのに、

    年下である刈谷検事に蛭田検事のことを「蛭田君」と言わせていたり、

    最後まで杜撰な小説で疲れる。


 

Q    用心にしくはないでしょうね        (春)  47110行目

          用人(ようじん)に若(し)くはないでせうね(九)

 

 

R      ひらりと自分から先に飛び降りた(春)  47115行目

          ひらり自分から先に飛び下りた (九)

 

 

S        一刻を争う場合ですから   (春)  4723行目

          我々は一刻を爭ふ場合ですから(九)

 

 

T     気をつけてくださいよ(春)  4728行目

     氣をつけなさいよ  (九)


                    

 

U   その静かなのがいっそう不安を募らせた。(中略)若い検事が(春) 47212行目

     その静かなのがいつそ不安を募らせた。(中略)若い検事は (九)

      

 

V   手に鉄棒のようなものを持ってきた(春)  4735行目

   手に鐵のやうなものを持つて来た (九)

   


W  なにせ、お兼が殺されているので(春)  47910行目

     何!お兼が殺されてゐるので  (九)

    〝何!〟じゃなくて〝なに、お兼が・・・〟とでもすべきでは?

 

 

X   その逃げ道も絶たれてしまった (春)  48015行目

   その逃げ道も絶たれて了つてゐる(九)


                        


前回の記事(⑮)では、春日龍三殺しの下手人の矛盾という本作のイタすぎる欠点を指摘した。あれに匹敵する作者の大失敗、つまり河内荘村役場の謄本を破いて盗んだ犯人問題というのが、上記のテキスト比較一覧の K にて詳しく述べた事項である。この二つほど酷くはなくとも、詰めの甘い(上記 のようなレベルの)問題はいくつも存在する。


  


 毎日読者をハラハラさせたいがため、本作は気を持たせるような幕切れでその章が終わり、次の章は直前の回までの流れなど無かったかの如く、新たなエピソードがスタートするという場当たり的展開を繰り返して、結果しっかり書いておくべき部分が省略されてしまい、後から取って付けたような説明がされるため、話の流れにギクシャクした印象を与えがちだ。例えば馬車の暴走によって小夏は死んでいた事が本章の地の文にてやっとハッキリするのだが、これなどまさに浪子が小夏の死を知らされる場面はあってしかるべきだった。 

             


 本来なら木澤由良子の怒りの矛先は、母を死に追いやった者だけに向けられていた筈。

本章の中で、由良子が自分の手で葬った人間(未遂も含む)を浪子に語る場面がある。父・春日龍三と腹違いの妹・花子が憎しみの対象になるのはわかるとしても、お利枝婆さんと小夏を殺めた動機は、千家篤麿に拉致された時に偶然河内兵部の遺産の存在を知ったからという苦しい弁明が前章(⑮)冒頭に由良子自身ではなく篤麿によってされるのみで、急に河内兵部の遺産が欲しくなった(納得のいく)理由は由良子の口から何も語られない。〝母である春巣街の死美人から受け継いだ悪の血がそうさせたから〟と言われても、犯罪の動機としては説得力に欠けるのよ。



 毎度の事だけど、由良子はどうやって篤麿の隠れ家である大場のヤサを知りえたのか?もともと由良子にはお兼を殺す理由が無い。部屋が暗いのでてっきり花子だと思い込み、間違えて縛られていたお兼を刺してしまったとしても、そのあたりの状況がいまわの際の由良子の口から語られなかったので、実にモヤモヤする。


 



(銀) 前回に続いて、第三次『大衆文藝』池内祥三追悼記事に関する話題を。
寄稿しているのは白井喬二/土師清二/棟田博/鹿島孝二の四名で、探偵作家からのコメントはなかった。第三次の『大衆文藝』に探偵作家が一人でも深く関わっていれば、私の欲しい情報がもっと得られたかもしれない。残念。



文芸通信社「大系社」の業態について、土師清二は次のように語っている。

〝作家に執筆を依頼して地方の新聞と契約して、主に小説を提供する。一流作家、流行作家の小説を掲載したいが、地方紙として負担が重すぎるといったような場合、通信社は発行されているそれぞれの新聞の勢力分布を考え、同じ小説が載っている新聞がカチ合わないように考えて小説を提供する。掲載紙が多ければ多いほど、作家、画家の稿料の分担は逓減する。〟

大系社が仲介配信した全ての作家/作品さえわかれば、昭和四年当時、横溝正史単独の名義だと大手中央新聞ならともかく、地方紙の連載でさえ本当にネームバリューがいまいち弱かったのか判断することもできるのだが・・・。




次はいよいよ最終章。⑰へつづく。