2022年4月6日水曜日

『狂人館』大下宇陀児・外

NEW !

東方社
1956年10月発売



★★★★    戦後派作家の活躍




本書に収録されている三つの中篇はどれも、探偵作家三名が 前篇中篇後編 を分担して書いているため一見リレー小説のように見えるが、三篇とも同じ雑誌・同じ号に一挙掲載されているので、事前に三人でおおまかな打ち合わせをした上で書かれている可能性はある。初出誌に当たっていないから、この企画の詳しい事情については何とも言えないけれど、通常のリレー小説のように方向性も文体もバラバラな感じが無くて、スッキリ読める。




                     





「狂人館」【『読切小説集』1955年3月増刊号】

上)大下宇陀児

(中)水谷準

(下)島田一男

 

 

三船紀子は小さな食料品会社に勤め、新聞記者の戸沢信一とつきあっている。信一とのデートの途中、弟に貸す約束をしていたカメラを会社に置き忘れたのに気付いた紀子が事務所に戻ると、会社の社長・疋田文平が見知らぬ男二人女一人と密談を交わしていた。それというのが他人に聞かれてはまずい話だったらしく、彼らは紀子を脅して車に押し込み、ある場所へと連れてゆく。その建物はまるで狂人が設計したような奇妙なビルだった。

 

 

〝狂人館〟と名付けられた建物は普通の雑居ビルとは全然違う怪しい造りになっているが、そこまで読者に印象付ける程のものでもない。

このメンバーゆえ、どうという事もないスリラーだけど、ひとつ感心したのは三番手の島田一男が、大下宇陀児と水谷準の蒔いた種をすべて丁寧に回収している事。紀子が信一を呼ぶ時「信一さん」と言っていたのが島田の回のみ「信さん」になっていて、これだけはご愛嬌。

宇陀児/準からすると島田一男は探偵小説界の後輩ではあるが、水谷準と殆ど年齢に差は無く、単にシーンへのデビューが遅かっただけに過ぎない。連作や合作の場合、回収し忘れる些末事はいつもありがちなのに、それが無い点は褒めていい。〝狂人館〟が雰囲気作りの為だけのものでなく、何かしら必然性のある意味合いを持たせられれば、尚良かった。


 

                     

 


「鯨」【『探偵実話』19537月号】

発端篇/血染の漂流船      島田一男

捜査篇/血しぶく女臭      鷲尾三郎

解決篇/血ぬられたる血潮    岡田鯱彦

 

 

漁業仲買人・津上専吉には、お新という年齢が十四も違う若い女房がいる。
お新は男好きのするところがあって、貞淑とはいえぬ女で人の評判もよくない。
専吉の船・第三半七丸に乗り共に働いているのは専吉の弟でギャンブル好きの与太者・啓次と、男前だが最近胸を患っている雇人の坂田為蔵。この二人、あわよくばお新を自分のものにしたい魂胆を抱いている。ある日の午前、第三半七丸が本来戻るべき木更津ではなく、東京港から品川~お台場を経由、南の方角に向かっているのを他の船が目撃。そのまま船は大森へ航進し、大勢の海水浴客が遊んでいる砂浜へと暴走する。それなのに乗り上げた船は無人状態、船倉には大量の鮮血が・・・。

 

 

この作にはトリックがあるので、本書の中では一番興味を引かれた。
「狂人館」では上手くラストを締め括った島田一男が、今度は一番手。
スリラーに設定してもイケそうな発端ではあるが、先程も申したとおり三作家が事前にキッチリ打ち合わせして書いたと云われても納得いくような、スムーズに謎解きを提示する展開を見せている。「鯨」というタイトルから、読み手はある程度犯人の企みを予想できるかもしれないけれども、それだけでは終わらないのが良い。

 

 

                       



「魔法と聖書」【『探偵実話』1954年2月号】

前篇 ― 小心な悪漢    大下宇陀児

中篇 ― 五階の人々    島田一男

後篇 ― 三つ巴の闘い   岡田鯱彦

 

 

丸金商事の外交員・浅井新吉は自分の会社が入っているビルのエレベーター・ガール南条市子を情婦にしている。二人とも悪い意味でのアプレで、新吉はホテルで市子とセックスするか、パチンコ屋に入り浸るかの日々。そんな新吉の行くところに妙な男の影がチラつき、市子はエレベーターの中でセクハラをしてきた丸金商事のエロ支配人が往来で死体となっているのを目にする。彼らの周りでいかなる悪事が進行しているのか?

 

 

う~ん、これは「狂人館」よりもイマイチ。
〝赤と青のインクじみが沢山付いた碁盤縞のハンカチ〟と〝支配人の持ち物だった聖書〟に、
二つで一つとなる秘密を持たせるとしても、あまり有機的なカタルシスは生まれていないかな。ここまで読んで思うのは、トリックに興味が無い宇陀児のような戦前の先輩作家と、戦後デビューした後輩作家を組ませて異世代のケミストリーを狙わせる・・・それもひとつの面白いトライだと理解はできるけれど、こんな企画が持ち上がった時「(戦前の本格派)濱尾四郎が生きててくれれば」とか「蒼井雄がバリバリ本格ものを書き続けてくれていたらなあ」とか、叶わぬ望みが湧いてくるのである。


 

 

 

(銀) なんにせよ、島田一男/岡田鯱彦/鷲尾三郎といった戦後派の作家が頑張っているのはよくわかる。奥付を見ると、本書の著者検印は大下宇陀児のものだった。著者名は大下宇陀児・外になっているし、年長者を立てるということか。





2022年4月4日月曜日

『南総里見八犬伝㊃』曲亭馬琴

NEW !

岩波文庫 小池藤五郎(校訂)
1990年7月発売



★★★★    獣人妖猫の怪



(前回の記事で述べた理由により、今回から岩波書店新版文庫を使用している) 

◕ 犬村角太郎の実父・赤岩一角を喰い殺し、その姿になりすまして赤岩家の主に収まっていた庚申山の化け猫。しかし角太郎をはじめ里の人間は誰もその事に気付かず、角太郎の実母の死後化け猫のニセ一角は次々と妻を迎え、窓井という女が(角太郎とは腹違いの)二男・牙二郎を産んだ。後妻達は皆ニセ一角に精気を吸い取られて死んでいったが現在の妻・船虫だけは悪人同士だけにニセ一角とウマが合い、継母の立場で角太郎と許嫁の雛衣をじわりじわりと苦しめる。




 

射干玉(ぬばたま)の闇に、鬼火のように燃えている妖猫の眼。人獣交婚。和のゴシック。魑魅魍魎。江戸川乱歩が「人間豹」を書いた時、この赤岩一角妖猫譚が頭の中にあったとしても何の不思議もない。より読者に戦慄を与えるため、角太郎と犬飼現八をもっと苦戦させるほどの手強さと凶悪さをニセ一角/牙二郎に備えてもよかったと思うが、これでも江戸時代の読者にはかなりインパクトを与えただろうな。


それにしても馬琴は犬士達と縁の深いヒロインには悉く非業の死を背負わせる。伏姫や沼藺はさらなり、浜路に次いで雛衣の運命は特に悲惨。そう思うのはやっぱり犬塚信乃が浜路を悪人だらけの大塚にひとり置き去りにしたのと同様、いくら親のニセ一角と船虫から云われたからって、妻となるべき雛衣を遠ざけてしまう角太郎の行動も影響している気がする。







◕ ここでちょっと、関東及びその周辺の武家の争いについて説明しておこう。『新八犬伝』で目立っていたのは滸我の足利成氏と鎌倉の扇谷定正だったが、原作ではもう少し複雑。関東管領の座には扇谷定正と並んで山内顕定がいる。赤岩一角妖猫譚に登場する籠山逸東太縁連は赤岩一門出身の男で、その武芸を認められて山内家の内管領・長尾判官景春の家臣になっていた。前巻では白井城に扇谷定正が居たのに、何故この第四巻で長尾の者である逸東太が白井城へ向かうのかというと、その後定正は長尾景春に攻め落とされ武蔵國の五十子城へ移っているから。つまり扇谷からしたら長尾は怨み重なる敵なのだ。

 

逸東太はニセ一角と一緒に現八を討とうとしたが、結局化け猫どもは二犬士に退治される。罪人として船虫を長尾家に差し出すよう逸東太は二犬士に指示されていたにも関わらず、色仕掛けによる一晩の同衾を許してしまった逸東太は船虫に逃げられ、おまけに主から預かっていた名刀も掠め取られてしまって、長尾家におめおめと帰れなくなり扇谷定正側へと寝返るのだった。







◕ 犬塚信乃は甲斐國で村長・四六城木工作の養女・浜路と出逢う。ある晩、亡くなった信乃の許嫁・浜路の霊がこの生きている浜路に乗り移って、信乃へ想いを伝える。この第二の浜路、実は里見義成の五の姫で、幼児の頃大鷲に攫われ甲斐の地で木工作に拾われ育てられていた。信乃を逆恨みする泡雪奈四郎は不倫している木工作の後妻・夏引と共に、木工作を殺してその罪を信乃になすり付ける。それを救うのは眼代に化けた犬山道節。石禾の禅寺・指月院には丶大法師と蜑崎十一郎照文が居り、四人は合流。木工作殺しの真相を調べた国主の武田信昌は信乃/道節の人となりを気に入って「自分に仕えぬか」と誘うが、里見家への義がある信乃と道節はそれを丁重に断り、再び旅に出た。

 

このような形で再度浜路が登場してきたのには、当時の読者から「あまりに浜路は不憫過ぎた」とでもリアクションがあったか。四六城木工作殺しを調査するくだりには、現代でいうところの探偵趣味が見られる。







◕ 犬田小文吾は越後國小千谷の里にいた。この地に逃れてきた船虫は盗賊の妻になっており、前の前の夫・並四郎を討たれた復讐をすべく、贋按摩となって小文吾殺害を図る。こちらも越後にやって来ていた犬川荘介(=荘助)は小文吾を支えて盗賊を誅戮するが、なぜか二人は領主に捕えられてしまった。その訳というのが、長尾景春の母である箙大刀自なる老婦人が越後を仕切っており、彼女の娘のひとりが武蔵國大塚の大石家に、もうひとりは石浜の千葉介自胤に嫁いでいる。それゆえ大塚で仲間の犬士に助けられて死刑を逃れた荘介がお尋ね者になっている事、更には対牛楼で馬加大記らを皆殺しにした下手人の旦開野と一緒に逃げたのが小文吾である事も、すべて箙大刀自には筒抜けだったから。

 

 

 

かかる最大の窮地を、ある賢人の詭計によって救われた小文吾は荘介と共に越後を去り、信濃路で相模小猴子(さがみ こぞう)を名乗る乞食に身をやつしていた犬阪毛野と再会。ようやく毛野が「智」の玉を持ち、肘には牡丹に似た痣があるのも判明した。自分が八犬士の一人で、将来里見家に仕える身であることを理解した毛野。だが、彼には馬加大記の他にもまだ討たねばならぬ親の仇がおり、置き手紙代わりの詩歌を残して、小文吾と荘介が熟睡している間にそっと宿を後にしたのだった。といったところで第四巻ここまで。

 

 

 

(銀) 戦前の刊行から新版が出るまで、昭和の時代に流通していた『南総里見八犬伝』の旧版岩波文庫がコレ。カバーは無く帯が巻いてあるのみ。本文が旧仮名遣いなのは新版も同じだが、文字間隔も行間も若干狭く、挿絵は少ししか入っていない。



 

 









現八と角太郎が見逃してやった籠山逸東太縁連こそ犬阪毛野の求める仇敵だったのだが、二人はまだその事を知らない。そして越後で盗賊征伐がなされた際にも淫婦船虫はまたまた逃げおおせる。雛衣の掻き切った腹から「礼」の玉が飛び出して、これでようやく(読者には)全ての霊玉の持ち主が明らかになった。

 

 

次の第五巻に収録の〈第八輯〉下帙が出版される頃から、作者馬琴は右眼の視力に異常を感じ始めていたらしい。





2022年4月1日金曜日

『南総里見八犬伝㊂』曲亭馬琴

NEW !

岩波書店 小池藤五郎(校訂)
1985年1月発売



★★★★★    仇討刺客



 犬士の中には親の仇を取るべく、刺客として生きてきた者もある。それはピュアな孝行心から来る行動なのだが、いつしか他の犬士達をも巻き込む事態に陥ってゆく。




◕ 心の汚れた人間ではあれ、自分の主人には違いない蟇六/亀篠夫婦を斬り殺した陣代・簸上宮六を討った額蔵(=犬川荘助)は筋違いな数々の濡れ衣を着せられ、拷問の果てに処刑されようとしていた。しかし犬飼現八(=見八)/犬田小文吾、そして故郷の大塚へ帰ってきた犬塚信乃が額蔵を救出。何かと味方になってくれた矠平という船頭の提案で、追われる身の彼らは(関東の北西部に位置する)上野國荒芽山へとひた走る。

 

 

 

◕ その上野國、白井城下。
上野~信濃~越後を領有している管領・扇谷定正は現在この地に居り、近臣を従え狩競べに出ていた。その帰り道に「宝刀を買い取ってほしい」と待ち構えていたのは〝大出太郎〟を名乗る下総千葉の浪人、これぞ名刀村雨を手にした犬山道節。一瞬の隙を突いて、父・犬山道策を殺した仇の総帥である扇谷定正の首を刎ねたかに思えたが、(『新八犬伝』でも定正の知恵袋として八犬士の前に立ちはだかる)巨田薪六郎助友の罠に嵌まってしまい、そこへやってきた信乃/荘助/現八/小文吾も道節の一味と決めつけられ、巻き添えを食う。


ここで非常に興味深いのは、本巻195頁に犬川荘助のこんなセリフがある事。
「彼定正は大敵なり。(中略)又定正を討んとならば、八犬士具足の日に、里見殿を相佐けて、思ひの随なる軍をしつべし。今はその時ならず。」
まだ犬士達は里見義実に一度も会っていないし、安房にいる義実は自分の知らないところでこんな事件が起こっていようとは露ほども知りえぬ初期〈第五輯〉の段階なのに、作者馬琴は早くも斯様な最終決戦が物語終盤で勃発するかもしれないよという伏線をチラ見せしているのだ。心憎い演出なり。

 

 

 

四犬士が目指す荒芽山に住む音音(おとね)という老婆は実は道節の乳母で、本当は彼女の夫である前述の矠平こと姨雪世四郎はかつて犬山家の若党だった。以前円塚山で敵対した荘助と道節は、音音の庵にてようやくお互いの事情を知り、あの時入れ替わっていた「義」の玉と「忠」の玉を相手に戻す。


この庵の一幕で犬士達はなぜかあまり顔を見せず、姨雪世四郎/音音の子で四犬士を救う為に大塚で戦死した力二郎/尺八郎兄弟の幽霊及び彼らの嫁・曳手/単節の一家情愛が中心になるのはどういう理由だろう?道節が妹・浜路の許嫁である信乃に初対面して、村雨を返還するところを描いたほうが盛り上がるような気がするのだが、馬琴には何か考えがあったのか?

 

 

 

◕ 音音の家も巨田薪六郎に知られてしまい、荒芽山は火に包まれる。押し寄せる敵に苦戦する犬士達は皆バラバラに。曳手と単節を守る役目だった犬田小文吾は彼女達を見失い、ひとり武蔵方面へ戻ってきた。ここで鷗尻の並四郎/妻の船虫という悪漢夫婦に関わった不運から、石浜城主・千葉介自胤の極悪家老・馬加大記によって一年近くも座敷牢に囚われの身とされてしまう。そんな小文吾を救い出したのは美形の女田楽師・旦開野。実は馬加大記によって滅ぼされた粟飯原胤度の一子、犬阪毛野は男でござる。何も知らない小文吾が「諸々の事が片付いたら妻として迎えたい」なんて口にするぐらいだから、よほど美しい娘姿だったのだろう。


いよいよ現れたる悪女船虫。原作ではどのように描写されているかというと、
〝年歳も三十のうへを、六ッ七ッにやなりぬべからん、物のいひざま進止まで、よろづ男めきたるが、さりとて容貌の醜きにもあらず。〟
『南総里見八犬伝』における他の小悪党とは違って、船虫はその名のとおりチョロチョロしぶとく生き残り、この後のエピソードでも悪事を働く要注意キャラクターである。

 

 

 

かくて対牛楼での毛野の復讐はドラマティックに成し遂げられたが、玉や痣の確認をする暇も無く小文吾は毛野と離れ離れに。行徳へ帰った小文吾は父の文五兵衛が病で亡くなっており、甥っ子の幼い犬江親兵衛も神隠しにあったという不幸な出来事を聞かされる。


話変わって、犬飼現八は他の犬士を探して西へ行き、京で三年も武芸指南をして生計を立てていた。このままズルズルと此処に居てはいけないと思い直した現八は再び東国へ向かい、下野網苧の里に立ち寄る。庚申山の奥深く、胎内竇に現れた妖怪の眼を弓矢で射た現八は世にも不思議な亡霊の頼みを引き受け、犬村角太郎の草庵を訪れた。


其処には又甚麼(いか)なる話説(ものがたり)かある。そは次回の記事に解分るを見て知らん。といったところで第三巻はここまで。

 

 

 

 

(銀) 『南総里見八犬伝』の記事を書き始めて知ったのだが、岩波書店版『南総里見八犬伝』は函入り単行本ではさすがにもう売っていないのは当然としても、まさか文庫まで新刊書店から消えているとは思わなんだ。もっとも2000年を過ぎて新潮社版の単行本が新しくリリースされていたのだし、その頃から岩波文庫は再版されず新刊で買えなくなっていたのかもしれないが。

おまけに「南総里見八犬伝」と並んで曲亭馬琴の代表作である「椿説弓張月」もまた、岩波書店『南総里見八犬伝』の新版が文庫になったのと同じ頃に岩波文庫旧版が再発されてはいたけれどそれっきりで、今は他の版元からもオリジナル文語体テキストでの現行本は出ていない。


 

 

「椿説弓張月」は「南総里見八犬伝」ほど長い小説ではない(旧岩波文庫で全三巻)。しかも現在私が記事に使用している岩波書店の『南総里見八犬伝』は新版となった時に挿絵を全て収録し直しているのに対し、旧岩波文庫版の『椿説弓張月』は挿絵未収録。今、新刊で馬琴を読もうとしても『南総里見八犬伝』と『近世説美少年録』は(あまり手軽ではない価格の単行本しかないが)とりあえず読むことはできる。けれども当時の挿絵を全て収めた『椿説弓張月』の現行本が無いというのは大問題だ。

どこかの出版社がオリジナル文語体によるテキストで、なおかつ挿絵を完備した『椿説弓張月』を新しくリリースしてほしいと思う。そして岩波文庫の『南総里見八犬伝』も定期的に再版してくれなければ。


 

 

そういう現状に気付いたので、この第三巻の記事までは新版函入り単行本の岩波書店『南総里見八犬伝』を使ってきたが、版元が早く文庫を再版するよう、次回第四巻からは新版岩波文庫を用いる事にする。たぶんテキストの紙型は函入り単行本とほぼ同じの筈。



 


2022年3月29日火曜日

他人の小説を、テキストの最終チェックもせずに平気で売り捌く愚人達のこと②

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からつづきです。以下、参考までに色文字にはリンクを貼っている部分があります。必要に応じクリックして御覧下さい。画像も同様です。

         

 

さて、捕物出版大陸書館主宰・長瀬博之の twitterでの最近の投稿(☟)を見てもらおう。この人物が日常どのような事をSNSにて発言しているのか、全て御覧になりたければこちらを。


                       




                          


〝「誤字、送り仮名の揺れなどに神経質な方にはお勧めしません」と書誌に明記しました。数人の面倒な方々のために、余計な手間がかかります。〟だそうだ。

「どんなテキスト入力をしてどんな本であろうと、自分は正しい。何か指摘をする者がいたら、そいつら(=例えば私)は皆面倒な人間だ。」と仰せになる。このお方は大陸書館を始める時にまるで鬼の首でも取ったように〝魔子鬼一「牟家殺人事件」を収録した過去の単行本は、どれもこれも重要な登場人物名にミスがあり、それを正す為にこの作を第一弾として出すのだ〟と広言しておられた。現にいま、大陸書館の近刊をお持ちの方は巻末の既刊リストを見れば『牟家殺人事件』の紹介文にも「登場人物名の間違い云々」とアピールしているのが確認できる。大手出版社の本に比べると自分の作った本のミスの数は許容範囲だとか、他人の作った本には徹底して厳しいのに、自分の本にはひたすら甘い姿勢。なんだか我々がどこかでしょっちゅう見かける光景にも似ている。


 

                      

 


2012年に光文社文庫/ミステリー文学資料館(編)としてリリースされた『「宝石」一九五〇 牟家殺人事件』に再録された同作に対しても長瀬は「間違いを相変わらず修正してないし、著作権継承者を探しもせず印税を払っていないから、これは海賊版だ。」と twitterで息巻いていた。それを見てミステリー文学資料館名義の本に関わっていた新保博久が「海賊版はお言葉が過ぎましょう。ちゃんと光文社は印税を収めています。」と説明したにもかかわらず、長瀬から返ってきた言葉はこれ(☟)。他人から何か云われたら即「言葉の暴力だ!」などとキレるのに、新保氏や光文社への自分の言動は「言葉の暴力」には当たらないのか。











言っとくけど私は新保氏の知り合いでも味方でもない。いつの間にか長瀬はあたかも自分を被害者ぶって「私を責める人が」などと怒っているが、一方的にキレているのが長瀬のほうで、責められているのはむしろ新保氏にしか見えない。最初に〝「牟家殺人事件」の発売はよしたほうが良いでしょう〟と言ったのは新保氏だから、言われた長瀬を擁護できる点はあった。それにしたって、このあと新保氏は大人しく引き下がっているのに、ダメ押しするかのようなこの言い方(☟)はどうなのか。




 

 

 






                     



更には記事にて紹介したtwitter発言以外にも、甲賀三郎『劉夫人の腕環』に収録されている作品を、私が〝「こういうのは探偵小説ではない」と言った〟としつこく繰り返しておられる。確かに『甲賀三郎探偵小説選Ⅱ』の記事にて「もっと良い作品があるのに何故こういうセレクトを?」だとか『甲賀三郎探偵小説選Ⅳ』の記事では「みな甲賀三郎が目当てで買うのだし、彼の作品は未だに現行本に未収録の作品が沢山あるのだから、甲賀の娘さんの作品は彼女単独の著書に収録するべきでは?」等の発言なら間違いなく書いているので、どうぞ気の済むまで私を批判するなり罵って下さっても構わない。

しかし、ココの甲賀関連記事をズラッと見てもらえればわかるけれど、『劉夫人の腕環』に収録されているような甲賀の作品群を「これは探偵小説じゃないから嫌だ」なんて、いったいどこで私は発言しているのでしょう?自己反省の糧にするので、お手数ですが教えて頂けないでしょうか。むしろ「カシノの昴奮」なんかはせらび書房『外地探偵小説集』に是非選んでもらいたかったと書いているくらいなんですが。それとも誰かに吹き込まれましたか?

 

 

 

思い返してみると自分のレーベルを立ち上げた時から長瀬が執拗に「書評の類いはお断りする」と言い続けてきたのは再発する作家と作品を守るためでもなんでもなくて、ただ単に自分のミスが露顕した時、他人に指摘されるのが不服だった、そうとしか映らない。「イヤなら買うな!」「イヤなら読むな!」自分を省みる余裕の無い人間が最後に吐くセリフを遂に吐いておしまいになられた。そうこうしているうちに天の審判か大衆の審判か知らんけど、予想もしていなかった裁きが貴方に下されないといいですけどね。


 

                      

 


 古本でも新刊でも内容ではなく「この本はレアだから将来カネになる」という目的で、読みもしない本まで買い込んで整理もせず、ゴミ屋敷状態になった本の山をネットで自慢する古本狂いの拝金主義。

 

 古書の即売会が行われているデパートで、他の客を突き飛ばして会場に駆けつける事を自慢げにヘラヘラ笑っていた年寄りの書痴。

 

 日本の古本屋や即売会で仕込んだ古本を、ヤフオクで高く転売するミステリ評論家。そして、それにすぐ釣られる莫迦ども。加えて、この評論家を古本神などと崇める腰巾着。

 

 まがりなりにも本を作るのが仕事の筈なのに、他の事(twitterなど)が最優先な、別のミス テリ評論家。

 

 

こういった連中を中心に、探偵小説再発本や探偵小説関連古書の世界は回っている。あと・・・いつだったかな、平山雄一が自分で翻訳したマニアックな海外ミステリの出版をプレゼンしたらそれは拒否したくせに、後になって平山氏のアイディアだけを盗用し、別の翻訳者を使ってぬけぬけと新刊リリースしていた某出版社とか。



これだけでも十分アレなのに先日の、左川ちかの詩集刊行を企画していたらどこぞの古本屋周辺人物に妨害される被害を受けたという島田龍の報告を知った時には、流石に私も「コノ・ギョーカイ・モ、イヨイヨ・オワリダナ」と情けなくなった。今時恫喝なんて、ある元・女性タレントぐらいしかやる奴いないだろと思っていたら・・・甘かった。いや、煽り運転実行犯とか全国にいるからそうでもないか。島田氏制作中の左川ちか全集は無事リリースされそうな気配なので、それはよかったけど。                        

 

 

 

この記事をご覧になられた方のうち、お身内あるいはお知り合いの御先祖の中に、もしも小説(特に探偵/SF/時代もの)を書いていらっしゃった方があれば、どうか教えてあげて下さい。ある時、急に「そちらの〇〇さんの小説を復刊したいんですけど」などと言ってくる者がいても「ワア、本を出してもらえるんだ」と喜んですぐOKを出さず、しっかりその相手を確認してから御返事して下さい、と。

この世界に通じていないとなかなか対処しにくいとは思いますが、私のBlogもその見極めの一助になれば幸甚です。世の中には他人の書いた小説を誤字誤植だらけのまま平気で世間に売り捌いている人間が実在しているのですから。

 

 

 

そして今回の主役・長瀬博之氏へ。「自分の本について入力ミスとは絶対に認めない!感想その他一言たりともお前は口にするな!自分の本は一切買うな!」という貴方の無礼極まりない御申越し、ご希望に沿うようそのとおりに致しましょう。OCRで入力がどうとかおっしゃっていましたが、普通の口調で〝これこれこういう理由によって「わしにはよじ登る事ができね」みたいな文に変換されてしまったんだよ〟とでも仰っていれば私も「ああ、そうでしたか。これは大変ご無礼致しました」とお伝えしてましたよ。機械がどのような読み取りをしたら「輪」が「輸」になるのか、読者には想像もつきませんが。日下三蔵ともせいぜい仲良くして、全国一千万の貴方の読者のため、健康には気を付けて頑張って下さいませ。なお第二第三の私といいますか、貴方の本の愛読者がこれ以上減りませぬよう草葉の陰からお祈りしています。あらあらかしこ。



 


他人の小説を、テキストの最終チェックもせずに平気で売り捌く愚人達のこと①

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誰しも小学校の国語の時間に「作文を書いたら一度は見直してスイコーしてみましょう」と先生から教わった記憶がおありでは?大学生が自分の所属するゼミの教授へ論文を提出する際には、書き上がったらまず内容を読み返してみるのが当り前だし、企業の中でもクライアントや上司にデータや資料の作成を頼まれ、それが出来上がったなら簡単にでも最終チェックをするのがごく普通だと私は思っていた。ところが昨今のSNS社会において、当Blogで扱うジャンルに属する本を作っている一部の人間のアタマの中は「自分の刊行する本のテキストに不備がないか、などと見直す必要は無いから、何をさておいてもネットで自分のエゴサーチに専念しましょう」という常識になっているものと見ゆる。(以下、参考までに色文字にはリンクを張っている部分があります。必要に応じ、クリックしてご覧下さい)



                    




生きていると色んなことがあるもので、自分のBlogで褒めて応援していた相手からtwitterで罵倒されるというなんとも貴重な経験をさせて頂いた。昨今は東池袋での自動車暴走事故などでも、加害者はおろか被害者となられた方にまでSNSで誹謗中傷する人間が現れる時代だから、不思議でもなんでもないのかもしれない。私をご指名で罵倒して下さったのはPOD(プリント・オン・デマンド)システムでAmazon/楽天ブックス/Hontoといったネット書店で本を販売し埋もれていた旧い小説を自主レーベル捕物出版大陸書館より再発している長瀬博之という人物。曰く私に対し「他人の作った作品や本に☆の数で偉そうに批評するなど何様のつもりだ」という考えをお持ちのようだ。このレーベルには好意的な事を書いていたのだが、それもこれもひとえに私という人間の不徳の致すところか。

 

 

 

どんな人にも発言する自由はある。この方が私への憎しみを表現なされるのも結構。先日、大陸書館より刊行された甲賀三郎『劉夫人の腕環』のテキストで誤表記な箇所がある件につき、私がBlog上で指摘し「ご高齢の方のようだし老眼によるミスらしい」と書いたら「言葉の暴力だ!」とご立腹になっておられた。この人までもが杜撰な態度で本を作っているとは思いたくなかったし「老眼ゆえ、文字をつい見誤ってテキスト入力のケアレス・ミスをしたのであろう」位のフォローで書いたつもりだが、向こうが断然そうは受け取れぬというのならば、それこそ私の至らぬところに違いない。ただ、長瀬の言い分にはどうしても聞き流せぬ点がある。


 

                     

 


私がBlogで「本の刊行はゆっくりでいいから、収録テキストが出来上がってきたら時間をかけてチェックをしてみては?」と言ったのに対し、「自分には時間が残されていない。そういう余裕は無い。」との発言があった。この方がどれだけご高齢で何か病気でも抱えておられるのかどうか生憎存じ上げないけれども、例え若者だろうが年寄りだろうが健康体だろうが重病だろうが、本を販売して人様からお金を頂くのに、その本のテキストを自分の都合でチェックもろくにせず流通させたってかまわないという言い分が罷り通ると本気で思っておいでなのだろうか?

しかもだ。小説でもエッセイでも、どんな内容であれ自分名義の本を売るのであれば、どれだけ誤字誤植だらけのクソみたいな書籍になっても自分一人が責任を取ればいいけれど、長瀬が制作販売しているのは既に故人となられている様々な小説家の作品ばかり。他者の大切な小説を再び世に出すのであれば、自分名義の本以上にそのテキスト精査には注意を払って間違いの無いよう制作するのが、小説を遺した泉下の作家達に対する最低限の礼儀というものではないのか?そもそも一冊ぶん(何百頁もあるような分厚さではない)の出来上がって きたテキストをチェックするのに、いくら視力が厳しいとはいえ、そんなに手間を厭わなければならないものだろうか?

 

 

 

何年か前、高名な評論家で小説もお書きになる方が超メジャーな探偵作家の評論を上梓された。その本にはいくらかの誤った表記が目立ち、それを何人かの好事家は目ざとくtwitter上で指摘 していたが、私は「この方も年を召されて、最近はそんなミスを見逃すようになったか」程度にしか感じてなくて、その本のレビューをAmazonへ投稿した際には特段触れなかった(のちに、このBlogへ転載する時には「他の本に対してフェアじゃないかも」と思ったので、その誤りの事は追記している)。

私が本の感想を述べる時に、著者や制作者のそれまでやってこられた活動内容や普段の言動に対する自分の見方が色濃く反映しているのは事実。実際、前述した高名な評論家のそれまでの仕事ぶりからして「仮に年齢による衰えは少々あっても自著を物するのにテキトーになられた訳では決してあるまい」、そんな風に見ていたし、現にその方が次に出した新刊を読むと、誤りが目に付く事も無く同じミスは繰り返しておられなかった。ま、これが普通の良識あるパターンといえよう。


 

                      

 


私は出版関係者でもなければ、校正業の経験者でもない。ギョーカイなんて関わりがあろう筈もなく、献本をタダで頂けるような立場でもない。本はどれもちゃんと身銭を切って入手し読んでいる。但し探偵小説も読書も好きだから自然とシビアな見方にはなるし、幸か不幸か生まれつき思ってもいない〝おためごかし〟なヨイショを言う性格ではないので、良いと思ったものには手放しで激賞するけど、「これは・・・違うのでは?」と思ったものには思ったままの感想を吐露する。私の書く文章なんて書評といえる程の立派なものではない。何が言いたいかといえば、私程度の一般人でさえ読んでいてすぐ気付くような誤字誤植満載の本が増殖しているのに対し、無関心どころか喜んで許容しているこのギョーカイとオタク達の異常さを訴えているのだ。普段の生活では使わない言葉だけど「思考停止」というワードはまさしく彼らのためにある。twitterをやっている人は、長瀬が拡散した私への発言をどんな種類の人間が共有しているか、見てみると面白いだろう。そこには一定の傾向がきっと発見できるだろうから。




「☆の数で批評するなんて何様のつもりだ!」という長瀬の意見に対しては、〝不快な思いにさせてなんとも申し訳ないです。でも世の中には貴方の好き嫌いはともかく、Amazon以外の通販サイトにも、☆の点数機能を備えた投稿欄がありますね。「食べログ」という食事をする店専用のサイト、「ブクログ」という書籍専用のサイト、果ては病院や美容室の評判サイトまで、実に多様な形で ☆ の数を用いて思ったことを投稿できるwebサイトが存在しています。サッカーA代表の試合が行われれば、翌日のスポーツ紙には必ず監督+出場選手の採点表が掲載されます。                                           

もし「ブクログ」かなんかで「捕物出版/大陸書館」の本に貴方の好ましからぬ投稿が寄せられたら、私同様その人にもしつこく罵声を浴びせ続けるつもりですか?「自分への中傷はおろか、舞台の演技に関する全肯定以外の意見は許さない」とyoutubeで発言したその途端、週刊誌に 見つかって蔓延防止期間の最中にどこかの女性と外でデートしているのがバレてしまった歌舞伎 役者みたいな事になりませんかね?〟とお答えする。




へつづく。


 


2022年3月27日日曜日

田村正和の一周忌に

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 田村正和が亡くなって、早一年が経とうとしている。そのわりには〈雑誌/書籍〉の紙メディアでも〈地上波/BS〉といったテレビ・メディアでも、彼の役者人生のすべてを偲べるような追悼企画といえるものは見当たらない。渥美清や高倉健が逝去した時には、何かしらそれなりの追悼番組が制作されていたと思うのだが、正和氏の訃報後、目にするものといったら『古畑任三郎』の再放送ばかり。あとはCSでやってる『パパはニュースキャスター』とか、既にソフト化されている作品の安易なリピート。彼ほどの存在が生涯を閉じたのに、この扱いは納得がいかぬ。あのバンツマ(父・阪東妻三郎)の超スター性を、田村三兄弟の中で最も受け継いだ男だぞ。






訃報が伝えられたのはちょうどコロナ騒ぎの真っ只中。最初のうちは「田村正和の亡くなった原因もコロナでは?」という勘繰りさえあったようだ。正和氏の追悼番組を作ろうとテレビ関係者が動かないのはコロナの影響?イヤ、そんな事は無いはず。では正和氏のマネージメント・サイドがそういったものを断っているのだろうか。先日も『徹子の部屋』に弟・田村亮が出演して兄の想い出を語っていたが、これだけではなんとも寂しい。

そんな中『ミステリマガジン』最新号の表紙を田村正和演じる古畑の姿が飾っていた(この記事の左上にある画像を見よ)。これとて『古畑任三郎』の特集であって、決して田村正和特集ではないのだけど、俳優・田村正和の軌跡を振り返る書籍が何も制作されていない現在、往年の内容とはすいぶんかけ離れた方向へ行ってしまったこの雑誌ではあっても、今月号のちょっとした特集を眺めるだけで、少しは救われた気持ちになる。

 

 

 

● 久方ぶりの映画出演となった『ラストラブ』2007年)の頃から、正和氏は「そろそろ店じまいしたい(=引退したいという意味)」と口にしていたし、その前年『古畑任三郎 FINALでシリーズにケリを付けたあとは連ドラ出演も減ってゆき、年一回スペシャル・ドラマで顔を見せる程度の露出になっていた。晩年いつも「静かにフェイドアウトしたいね」と語っているのは知っていたので、テレビで正和氏の姿が見られなくなるとしても、心の準備(?)は出来ていたつもり。とはいえ遺作となった『眠狂四郎 The  Finalや、その後成城の街中で散歩しているところを直撃取材された時の正和氏は、以前にも増して瘦身になっており、見ていてつらかったのだが。

 

 

 

氏はもともと、心臓があまりよろしくなかったと聞いている。『古畑』シリーズがスタートする四年前、日テレでやった年末のスベシャルドラマ『勝海舟』では当初正和氏が主役を務めていたものの、急病にて途中降板となり、後半部分は弟・田村亮が代役リリーフ。この頃から何か体に異変が起きていたのかもしれない。そういえば『古畑』の2ndシーズンと3rdシーズンの間にも「体調があまりよくない」という、まことしやかな噂があったぐらいで。

だから昨年の春、「田村正和、逝く」とテレビの情報番組が騒ぎ立てた時にも、「ああ、ついに来るべき時が来てしまったか。でもコロナは勿論、大病で長く苦しむことも無く、正和氏生前望んでいたとおり静かに退場できたのなら御本人も身内の方も良かったのではないか・・・。」と頭の中で考えていた。

 

 

 

● 話を今月号の『ミステリマガジン』に戻すと、『古畑』特集のメインは番組プロデューサー石原隆×脚本担当三谷幸喜の対談。そして近年三谷が新聞に発表していた活字による古畑任三郎短篇「殺意の湯煙」、『古畑』サントラ記事、そして『古畑』シリーズ登場人物の元ネタ・チェック。三谷幸喜特集ではなく『古畑』の特集だから難しいかもしれないけれど、せっかく三谷を引っ張り出しているのでクリスティー翻案・勝呂武尊シリーズについてもしっかり頁数をとり、その魅力を解析してくれてもよかった。

 

 

 

今回『ミステリマガジン』が『古畑』の特集を組んだのは、現在DeAGOSTINIが隔週刊で『古畑任三郎コレクション』を発売しているからかもしれない。私は『古畑』シリーズについてはVHSテープ時代の録画、そしてDVD-BOX3rdシーズンの画質があまりよくなかった)と、あまりに何度も観過ぎて、感覚が麻痺してしまっている状態。だから今更そんなに言いたいこともないのだけど、やはり観るに値するのは2ndシーズンまでというか、3rdシーズン以降は「しゃべりすぎた男」(明石家さんま)や「魔術師の選択」(山城新伍)級の上出来なエピソード、つまり再見に耐え、ミステリ的な驚きを視聴者に与えられる回は残念ながら作れなかった、そんな感想を持ち続けて今日に至っている。

 

 

 

3rdシーズンの或る回の中で三谷幸喜が古畑にボヤかせているように、日本のドラマは一時間枠ったってCM等を除けば正味たったの45分しかない。おまけにスポンサーがうるさいから車で轢き殺すのはダメだとか、無用な縛りが多過ぎる。これで『刑事コロンボ』級のクオリティを求めるのは酷というものだ。それでも『すべて閣下の仕業』や『FINAL』には期待したんだけどね。(石坂浩二に心理操作をやらせるというアイディア、松嶋菜々子の二役演技は良かったけれど)

当初三谷は古畑シリーズについて「ドイルのシャーロック・ホームズと同じ60エピソードぐらいは書いてみたい」と発言していた。せめて古畑もあと1シーズン連ドラをやれていたら・・・・。でも、肝心の正和氏が「古畑は大変だし、もうやりたくない」としょっちゅうコボしていたそうだから、スタッフは殿と三谷幸喜の両方をなだめ、その気にさせるのに大変だったろう。           

 

 

 

● 今回の『ミステリマガジン』をきっかけに、テレビでも書籍でも今からでも遅くはないから田村正和・俳優人生のアーカイヴスを制作してほしい。CMにはよく出ていたけれど、作品以外のところでは、下らないバラエティ番組に出たりせず、普段の生活も見せず、我々一般人には手の届かない特別な存在であり続けようとした氏のプロ意識が、私にはとても好ましかった。                                               

昔たまたま偶然、生の正和氏をお見かけしたことがある。まだ『古畑』が始まる前の話で、陽の暮れた西麻布交差点を広尾駅のほうへ歩いていた時だと記憶しているのだが、道路沿いにある、小ぶりでトラットリアみたいな感じの一軒家の店の前を通るとガラス越しに店内がよく見えて、内輪のパーティーそれとも打ち上げか、同席している人達と立ったままにこやかに談笑している素の田村正和の姿がそこにあった。ケータイなんていうものが無かった時代だし、礼儀知らずな人間に外からバシャバシャ写真を撮られるのを気にする必要もなく、楽しいひとときを過ごされていたに違いない。


 

 

 

(銀) 『ミステリマガジン』の裏表紙を見るとAXYミステリーでは、4月3日(日)【没後1年特集 田村正和と推理作家の巨匠たち】というのをやるそうだ。とにかく私は『うちの子にかぎって… 』でコミカルなキャラクターとしてブレイクする前の、神経質で暗そうな青年時代の正和作品をひとつでも多く観たいのである。

 

 

 

大河には殆ど出ていないせいもあってNHKとは縁遠そうな正和氏なれど、全四十四回という一年近い連ドラの主演を務めている。1977年の『鳴門秘帖』がそれで、原作は吉川英治なんだけど、脚本が『新八犬伝』を手掛けた石山透だし、なんと小林麻美も出演。この番組もまたNHKは保存していなかったのだが、視聴者からの録画提供によってほぼ全話揃ったというネット・ニュースを以前確認済み。地上波でもBSでもいいから早く全話放送してチョーダイ。




2022年3月24日木曜日

『聖フオリアン寺院の首吊男』ジョルジュ・シメノン/伊東鋭太郎(訳)

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春秋社 シメノン傑作集
1937年5月発売



★★★  これに比べると乱歩の「幽鬼の塔」はよく書けている




伊東鋭太郎の翻訳による春秋社版がこの作品の日本で最も旧い訳書の筈。シムノンに触発されたか、江戸川乱歩は19394月より雑誌『日の出』にて「幽鬼の塔」の連載を開始した。世間では十把一絡げに「幽鬼の塔」はシムノンの翻案だと軽く扱っているが、実際両方の作品を読み比べてみると、著作権的な検証はさておき乱歩が自作に活かしたのは〝ある一部分〟であって、筋をまるごと頂戴した訳ではないんだなとわかる(勿論「幽鬼の塔」を先に読み、慣れ親しんできたせいもあるのだけど)。

光文社文庫版・江戸川乱歩全集第十三巻『地獄の道化師』に収録された「幽鬼の塔」を開けば、乱歩自身〝セントラル・アイディヤを借りているが翻案というほど原作に近い筋ではないので、シムノンに断ることはしなかった。〟と自作解説で述べているのが確認できよう。


【当Blog上のラベル(タグ)管理は、一般的に呼ばれている〝ジョルジュ・シムノン〟の発音で登録するが、この記事に限っては本書中で使われている〝シメノン〟あるいは〝メーグレ警部〟表記を用いて進めさせてもらう。】

 

                    

 

主人公が不審な人物の鞄をすり替えることで事件は動き出す。メーグレ警部が鞄すり替えをやっちゃうのは、上記で紹介した光文社文庫版乱歩全集第十三巻『地獄の道化師』の解説で山前譲も指摘しているとおり、公人の行動としてはどうも不自然。これならば乱歩が設定した猟奇趣味を持つ素人青年探偵・河津三郎のほうがずっと適している。また、その他の登場人物たちも「幽鬼の塔」のほうが気狂いじみていて何をしでかすかわからないアブナさに満ちているが、「聖フオリアン寺院」の登場人物にはアタマがプッツン切れていそうな火薬の匂いがしない。

 

 

 

「幽鬼の塔」での名場面のひとつ、鉄橋を走る汽車から河津三郎(甲賀三郎と言い間違えそうな名前だ)が突き落とされてしまうシーンと比べてみよう。本書でのメーグレは不意を突かれて水力発電の為に築かれた堰堤へと落とされそうになる。しかし伊東鋭太郎訳で読むと水門から堰堤へ流れ込む渦巻がどれほど激しいものなのか読者にはあまり伝わらなくて、メーグレの身の危険がちっとも感じられん。

また、「幽鬼の塔」の犯罪の動機は美しいミューズの死から来ているのだけど、原作で描かれる動機とかインテリを気取った男達の秘密結社グループがシェアしている思想は読み手にもう少しイメージしやすくしたほうが共感度(?)はアップしただろうな。本書の中でメーグレに目を付けられて身辺を嗅ぎ回られるのは、この面々である。

 

ルイ・ジュネエ ➤ 機械工(物語の冒頭、口中をピストルで撃ち抜き自殺)

ヨゼフ・ヴァン・ダアム ➤ 貿易商

モーリス・ベロアール ➤ 銀行監査役

ジェフ・ロンバール ➤ 石版商

ガストン・ジアナン ➤ 彫刻家 


                     

 


「聖フオリアン寺院の首吊男」は近年新しい訳書が出ていなくて、読むとすれば古書に頼らざるをえない。あまり良い訳とはいえない伊東鋭太郎の春秋社版を最初に読む人はまずいないだろうから大丈夫とは思うけど、もし原作を読むなら戦後の訳書を探して読まないとダメよ。はじめは本日の記事に水谷準訳を使うつもりだったが、どこへ行っちゃったかライブラリーで発見できず戦前の伊東訳を用いた。

 

 

 

(銀) 後出しのハンデがあるから比べちゃシムノンが可哀想だけど、日本人からすると乱歩作の「幽鬼の塔」のほうがずっと面白い。本当ならなるべくオリジナル・アイディア100%濃縮のほうが望ましいのだが、乱歩には他の日本人探偵作家にない語り口と演出の魅力があるからね。伊東鋭太郎訳は粗いので☆☆☆、「幽鬼の塔」は☆☆☆☆☆を進呈してもいい。



「幽鬼の塔」は世相の悪化で隠棲する直前の発表だから、乱歩の通俗長篇としてはこれまであまり顧みられない作品だった。大仰な仕掛けが無いぶんトリッキーな楽しみは望めないかもしれないが、明智小五郎の登場する通俗長篇のような矛盾が気にならず纏まり良く読める点は(「吸血鬼」なんかよりずっとよく出来てるし)もっと評価されてもいいのに。



乱歩の翻案ものでも鬼」はさすがに覇気が感じられないけれど「白髪鬼」「幽鬼の塔」そして「三角館の恐怖」は決して悪くないと思うのは小生だけか。なんか話がシムノンよりも乱歩中心になっちゃった。