2022年2月24日木曜日

『劉夫人の腕環』甲賀三郎

NEW !

大陸書館(楽天ブックス POD)
2022年2月発売




★★★★   テキスト入力さえ完璧なら満点だった




大陸書館のコンセプトにぴったりな甲賀三郎作品がセレクトされ、彼の著書に初収録となるものもあって嬉しい。大陸を舞台にした内容ともなれば、そこには大なり小なり戦前日本の拡大方針が描かれているため、本書に収録されている作品は戦後は再録される事がなく、読むに読めない状態が続いてきた。そういう点を重視して本来なら迷わず☆5つなのだが、ここでもテキスト入力ミスがちらほら見つかり、読書への耽溺を邪魔される。とりあえず一作ずつの概況、及び読んでいて気がついた誤入力箇所を記していく。私がミスだと思った箇所の正しい表記(○)は初出誌ではなく、(過去の著書に収録されている作品については)単行本テキストを参照している。

 

 

 

支那服の女」(『雄弁』昭和1010月号発表)

昭和12年の単行本(大白書房)表題作になった事もある短篇。尚子は真面目で身持ちの固い女。貧しい家の出だったが一介のタイピストから東亜探偵局へとひっぱり上げられ、今では秘かに女間諜でもある。その尚子に女学校時代の旧友・綾子から「自分は支那の金持ちの妻になったのだが、ぜひ助けてほしい事があるから上海まで来てほしい」という手紙が届いた。折しも東亜探偵局の上司から上海出張を告げられ、早速向こうで綾子と再会する尚子。すると綾子は昔の男に強請られていると告白し・・・。

 

 

 

「劉夫人の腕環」(『新青年』昭和158月号発表)

これも昭和17年に出た単行本(長隆舎書店)の表題作。国際都市上海のエムパイヤホテル。タイトルから予想されるとおり、新政府筆頭要人・劉秀明の妻が所有する腕環をめぐる攻防。

 

「うでわ」という単語をPCで普通に打つと、どうしても「腕輪」と出てくるから仕方がないのだけれど、本書では文中に出てくる「うでわ」という漢字が全て「腕輪」とタイプされてしまっている(中には「腕輸 ―うでゆ― 」になっているところも)。「環」という字は別に旧字ではないから、書名や章題同様に文中の表記も「腕環」で統一すべき。長隆舎書店版の初刊本を調べてみたが、やはり「腕輪」ではなく「腕環」だった

 

あと、この本の制作者は老眼なのかカタカナの「ペ」と「ベ」を見間違えるようで。

ベン皿(✕) 54頁上段6行目

ペン皿(○)

 

婚約【ルビ/おおなずけ】(✕) 60頁上段2行目

婚約【ルビ/いいなずけ】(○)

 

 

 

「カシノの昴奮」(『新青年』昭和1411月号発表)

上海の賭博場における恋とイカサマのギャンブル泣き笑い話。こうしてみると甲賀って、上海という舞台が結構お気に入りなのかしらん。

 

 

 

「不幸な宝石」(『冨士』昭和72月号発表)

エスピオナージ小説を甲賀はいくつも書いているし、本作が満洲事変直後の執筆とはいえ、昭和ヒトケタのタイミングで(退役軍人は別にして)関東軍や現役の軍人を描いた探偵小説は珍しく後年甲賀が日本文学報国会の一員になる事を思うと色々考えさせられる。

 

 

 

「血染のパイプ」(『雄辯』昭和748月号連載)

昭和7年刊改造文庫(改造社)の表題作だった中篇。改造文庫冒頭の解題で、甲賀は「血染のパイプ」について、このようにコメントしている。

 

〝「血染のパイプ」は探偵小説の本道から云ふと、稍傍道に外れている所があり、多分にスリリング(戦慄)小説の要素を含んでゐる。舞臺を満洲に取つてあるので、意外な結末と共に、時節柄讀者諸君の好奇心を十分滿足せしめると信ずる。〟


 

日本が満洲という新国家を建設しつつある時、千万長者蜷川良作老の娘・瑠璃子が悪の秘密結社赤蠍団に誘拐された。美しく汚れのない瑠璃子の彼氏である『満洲新報』の青年記者・楠本瑞夫は良作に頼まれて瑠璃子を救い出そうとするのだが、最近知り合った友人・井内健太郎/楠本の通報を受けてやってきた民野警部とその部下/現地警察/怪支那人趙儀之、すべて信用できぬ者ばかり。このままでは満洲国は赤蠍団の背後にいる敵国に乗っ取られてしまう。八方塞がりな中で楠本は蜷川家の巨額の財産が赤蠍団に流出するのを防ぎ、瑠璃子を救出できるか?

 

二人は日本によってはならいのじゃ。     (✕) 119頁下段14行目

二人は日本に止(とゞま)つてはならぬのぢや。(○)

 

女関の床に手紙らしいものが(✕) 148頁下段16行目

玄關の床に手紙らしいものが(○)

 

わしにはよじ登る事が出来ね(✕) 191頁上段16行目

わしにはよぢ登る事が出来ぬ(○)

 

 

 

「イリナの幻影」(『雄辯』昭和115月号発表)

春秋社『甲賀・大下・木々傑作選集 霧夫人』に収録。民国政府顧問で親日家のヴィンセント・カスタニエ伯爵は日支提携のため来朝していたが、帰任するその前日にホテルの一室で机に凭れかかって死んでいるのが発見され、その上にはフィルムを取り出そうと後部の蓋を開けた状態のカメラが。イリナという妖婦のエロティシズムに加え、甲賀十八番の理化学トリックも。

 

 

 

「特異体質」(『雄辯』昭和169月号発表)

当時日本の統治下にあった台湾。高砂大学の蒲原医学博士と助手の宮本医学士は検察局から依頼され検死を行う。姜という医師が鎮静剤ブローム・カルシウムを丹毒患者に注射したところ、異常反応を起こし絶命したためなのだが、姜医師はあくまで自分には手落ちは無く患者の特異体質のせいだと主張する。これも一種の理系ネタ。

 

 

 

「海からの使者」(『キング』昭和164月号発表)

昭和12年刊『支那服の女』(大白書房)に収録。都内で医師として働く主人公の〝私〟は過去に患者として面倒を見た矢柄平太なる男の急な訪問を受ける。彼は秘密厳守を前提として、国防を匂わす奇妙な任務を〝私〟に受諾させた。待ちかねていた『華北日報』上の秘密通信を確認すると〝私〟は娘の宮子を連れて、ダットサンを走らせ九十九里浜に向かう。雨の降る真夜中の海辺にやってきた者とは?

 

入力ミスではないけれど〝三月〟〝二月〟という表記が出てくるが、これはMarchFebruaryではなく〝三ヶ月〟〝二ヶ月〟の意味。甲賀の書き癖がまぎらわしい。

 

 

 

「靴の紐」(『満洲良男』康徳912月号発表)

康徳とは満洲国の元号。よって康徳9年は日本でいう昭和17年。編者曰く、これだけは大陸小説ではないが掲載紙『満洲良男』が関東軍による機関誌という特異な雑誌なので、附録として収録したとの事。本作は探偵・木村清シリーズものなのだが、実は『甲賀三郎探偵小説選Ⅲ』に収録されていた「郵便車の惨劇」(『キング』昭和412月号発表/探偵役は杉原潔)のリメイク。『満洲良男』はその全貌がよくわかっていないだけに掲載された探偵小説がひとつでも多く判明するのは有難い。




いつもアイナット氏運営のHP「甲賀三郎の世界」にはお世話になっている。今回もいくつか初出情報を確認させてもらった。感謝。




大陸書館(=捕物出版)の長瀬博之は魔子鬼一『牟家殺人事件』を再発する時に、これまで犯人の名前がいつも誤植されていた事を強調していたぐらいだから、本書に見られる入力ミスの数々は不注意というより年齢からくる視力・集中力低下の問題とは思うが、こうしてどの版元からも立て続けに発生する探偵小説新刊のテキスト入力ミスを見ていると(中には最初からこうした作業には完全に不適格な人間もいるが)、テキストの制作方法が昔のようなアナログな手作業ならきっと起こり得なかっただろうに、PCみたいなデジタルな工程では無意識のうちにタイプミスを犯しがちなのが明々白々。毎回言っているけれども、刊行ペースはゆっくりでいいから一度テキストを入力し終えたなら時間をかけ再チェックした上で印刷・製本に回してほしいんだってば




(銀) 上記でも述べたように甲賀三郎は日本文学報国会に加入しているほどだから、探偵作家の中ではいわゆる保守寄りだったのかもしれないし、関東軍の創刊した『満洲良男』に作品を提供するのもそう不思議ではなさそうに感じる。でもそうすると逆にかなりリベラル派な横溝正史が『満洲良男』に「三行広告事件」を提供したのはどういう経緯があったのだろう?横溝オタも金田一の話ばかりしてないで、たまにはこういう事を真面目に調べてみてはどうか?