2022年5月19日木曜日

『南総里見八犬伝㊉』曲亭馬琴

NEW !

岩波文庫 小池藤五郎(校訂)
1990年7月発売



★★★★    盛者必衰




 前回まで各巻の見どころを紹介してきた訳だが、最後の第十巻についてはこれから初めて読む方の楽しみを奪わないためにも、多くを語らずにクローズしようと思う。結末が知りたい方は是非本を読んでみてほしい。ネットを調べれば、ある程度のことはわかるけどね。NHK連続人形劇の『新八犬伝』がテレビ的な終わり方だったとすれば、曲亭馬琴の原作は古典文学マナーに準じたエンディングとでもいうか、「里見家万歳、めでたしめでたし」のままでは終わらない。




長い物語の序盤、伏姫が富山での生活を始める章の冒頭では(その後の彼女の悲劇を予告するかのように)〝祇園精舎の鐘の声は、諸行無常の響あれども〟〝盛者必衰の理りを顕せども〟といった「平家物語」の有名な文言がサンプリングされていた(第一巻 第十二回を見よ)。その〝諸行無常/盛者必衰〟的観念をもって本巻で里見家と八犬士の大河小説は完結する。とはいえこれだけじゃナンだし、ちょっとしたチェックポイントを箇条書きにしてみるか。

 

 

 八犬士の体にあった牡丹の花のような痣は消えてゆき、彼らがそれぞれ持っている霊玉に浮かんでいた仁義礼智忠信孝悌の文字も消えてゆく。

 

 政木大全孝嗣はすっかり九人目の犬士みたいな扱いに。父の河鯉守如ともども主君の扇谷定正には酷い目に遭わされたし、幸せな結末を迎えて良かったね。

 

 同じく谷定正の家臣で、八犬士の敵役だった巨田薪六郎助友。あまり知られていないかもしれないが、この人までも後々里見家に仕えることになるという驚愕の事実。孝嗣といい助友といい、有能な人材を活かせなかったのだから、事程左様に定正は無能な管領だった。

 

 こうして原作を最後まで読み終わってみると、善の神翁・役行者の出番も玉梓同様、序盤部分に限定されていたのがわかる。『新八犬伝』にて霊験が示されるシーンでは伏姫よりも役行者のほうが出番は多かったのだが、原作にて霊験を顕すのは(犬士列伝が始まってからは)もっぱら伏姫神女の役目。死んだ伏姫が里見家の守護神となるのは変わらないけれども、原作のほうが ❛神❜ としての伏姫の存在感は強い。 

 

 

本編の後には作者・馬琴が執筆舞台裏を語る「回外剰筆」、
付録として幸田露伴「馬琴の小説とその当時の実社会」、
そして内田魯庵「八犬伝談余」が収録されている。
特に最後の「八犬伝談余」は言いたい放題のことが書かれていて必読。
おざなりに作品をヨイショした感想を読まされたって、こちとら面白くもなんともない。この内田魯庵の八犬伝論をアホな現代人は毒舌などと口にするだろうが、言っていることは至極正論ばかり。微に入り細に入り作品を読み込んでいるからこそ、これだけのキツイ感想も述べられるのだ。

 

 

 

◕ 高校の時以来、数十年ぶりにオリジナル文語体の『南総里見八犬伝』を通読。とりたてて明治以前の小説を多数読み散らかしてきたとは言えないし、文語体に脳を慣らしてした訳でもないのに、意外と昔よりもサクサク読める自分に少し驚いた。

もちろん註釈を必要とする難しい語も存在しているのだが、まあ「南総里見八犬伝」の場合は(ダイジェストとはいえ)白井喬二の現代語訳もあるし『新八犬伝』みたいな副産物もあるから「ここでどういう事が起こってどういう人物が登場するのか」、他の作品に比べるとそれが把握しやすいアドバンテージはあるだろう。私ごときの頭でも読めるのだから、ある程度昔の小説に慣れている本好きな人ならきっとオリジナル文語体で読めると思う。

 

 

 

そして私は気付いた。一度オリジナル文語体テキストが読めてしまえば、もう現代語訳の「南総里見八犬伝」はつまらなくて読んでられない体になってしまうことに。

これまでの記事でも触れてきたが、馬琴の音楽的でリズミカルな文体は訳してしまうとその魅力が悉く失われてしまう。たぶんそれは「南総里見八犬伝」以外の作品でも同じだろう。「南総里見八犬伝」のように同一作品の続きもので、これ程のボリュームを楽しめる小説は捕物などの時代小説はおろか探偵・幻想小説でもありはしない。「大菩薩峠」ほど無駄にダラダラ長いのは困りものだが、単行本全十巻程度だからちょうどいい塩梅。

 

 

 

「八犬伝談余」にて内田魯庵はこう評している

〝一体馬琴は(中略)大まかな荒っぽい軍記物よりは情緒細やかな人情物に長じておる。〟
〝線の太い歴史物よりは『南柯夢』や『旬殿実々記』のような心中物に細かい繊巧な技術を示しておる。〟
〝いずくんぞ知らん馬琴は忠臣孝子よりは悪漢淫婦を描くにヨリ以上の老熟を示しておる。〟

この辺の特徴こそ、「南総里見八犬伝」が我が国における探偵小説あるいは伝奇幻想文学に影響を及ぼした所以なのかもしれない。

 

 

 

(銀) 「南総里見八犬伝」の挿絵画家についてはこれまで特に言及してこなかったが、二十八年にわたる執筆だけあって同一画家がひとりでこなしてきた訳ではない。やはり挿絵についても物語前半のほうがずっとクオリティは高い。



 


2022年5月6日金曜日

『南総里見八犬伝㊈』曲亭馬琴

NEW !

岩波文庫 小池藤五郎(校訂)
1990年7月発売



★★★★    合戦の火蓋




 関東管領 扇谷定正は里見家そして怨み重なる八犬士を討伐すべく大軍勢を集結させた。
扇谷の内管領・巨田道灌の名代として、嫡男である巨田薪六郎助友は今回の大戦をやめるよう諫言するも、怒れる定正は聞く耳を持たず。定正と山内顕定の両管領は風を自在に操る謎の翁・風外道人を味方につけ、その弟子だという売卜(ばいぼく)の浪人・赤岩百中を海上戦の自軍に加える。

 

 

片や里見勢。八犬士随一の知者ゆえ軍師を任された犬阪毛野は、蟇田素藤の乱にて敵方に味方し里見に捕えられていた千代丸豊俊に「里見を恨んで管領軍に味方する」という偽りの言い分を持たせ、定正側へ送り込む作戦を取る。その間諜の助力として音音・曳手・妙真・単節ら四人の女たちも千代丸豊俊の家族と称し、危険な敵地へ潜入。

 

 

 

 三つの地にて、合戦の火蓋は切られた。

【下総行徳戦】

里見の防禦師は犬川荘介/犬田小文吾。兵の数で圧倒的に劣る里見勢は、千人ぶんの藁人形を作る奇策をもって敵に立ち向かう。師走の冷たい川の中に潜るため、〝人魚の膏油〟なるアイテムが(脱獄ミステリなどに散見される手法の先駆けとして)使われるのだが、探偵小説の誕生よりもずっと昔の江戸時代から、馬琴はこんな知識を既に自家薬籠中の物としていたのだから本当に感心する。戦前日本の探偵作家たちが「南総里見八犬伝」を夢中になって読んでいた理由がよくわかるというもの。

 

 

行徳へ出陣せし管領軍を率いるのは、まだ少年に過ぎない扇谷家の嫡子・五郎朝良、犬阪毛野に討たれた馬加大記の主君だった石浜城主・千葉介自胤、額蔵時代の荘介を罪人扱いにした大塚城主・大石憲重。第四巻で箙大刀自の命令により死刑にされる筈だった荘介/小文吾の命を救った稲戸津衛由充は今回の大戦では越後にいる女帝が派遣させた軍勢の将として、此の地で里見軍と対峙。恩人である稲戸由充に対し、荘介と小文吾はどう戦うのか?意外とココが本巻における一番のハイライトかも。

 

 

 

 【下総国府台戦】

若い大将の里見義通を盛り立てる防禦師として犬塚信乃/犬飼現八。対する管領軍の大将は山内顕定、信乃現八両名とは因縁浅からぬ足利成氏/横堀在村らがいる。山内顕定は銃手と弓手を六人二列、計十二人の武者を一台の荷車に乗せて馬で引かせる〝駢馬三連車〟という名の戦車で攻撃。まともに戦っては勝機が無い信乃たちは六十五頭の野猪に蕉火を付け、敵の戦車を炎上させる。

 

 

しかし長尾景春の手勢も加わって里見軍は苦戦。その時、政木大全孝嗣/石亀屋次団太らの援軍さらに京から戻ってきた犬江親兵衛一行も合流。(第二巻において)滸我で苦い目にあわされた信乃と現八は足利成氏/横堀在村をどのように処するのか? せっかく犬士たちに再び活躍する場が与えられ、話が盛り上がっているというのに、又しても親兵衛の描き方には鼻白んでしまう。第六巻での再登場以来、親兵衛には伏姫神女から授かった神薬が持たされ今迄にも使用されてはいたが、御都合主義にて薬が底を突くこともなく、ここでは傷ついた里見軍の味方ばかりか敵兵までもその薬で助け、挙句の果てには死者さえ蘇生させてしまうのだ。何それ?

 

 

そりゃねえ、里見義実/義成は「この戦はあくまで自衛目的だから無益な殺生はするな」とお達ししてるし、親兵衛はもとより博愛仁恕キャラに設定されてるさ。とはいえ、これは少々やり過ぎじゃないか?その上、底無しの穴に愛馬ごと落ち込んでも、過剰な霊験のおかげでデリケートな馬さえ何の負傷もせず穴から脱出しちゃうんじゃ、下総行徳戦の〝人魚の膏油〟を使った霊験に頼らない人間の知恵とは対照的でつまらん。他の七犬士と比べると伏姫(というか作者馬琴)による過保護も度が過ぎて、それが犬江親兵衛の人気を獲得できない大きな要因なんだよね。

 

 

 

 【三浦~洲崎沖 海上戦】

ここには里見軍の総大将・里見義成がいて、その脇を固める犬阪毛野/犬山道節。対して洲崎へ攻めんとする管領軍は総大将・扇谷定正と、その長男・朝寧ら。間諜として潜入していた犬村大角/音音の活躍などがあって管領軍は撃破され、海上から追われた定正は陸に上がり、残り数百名になってしまった手勢と共に逃亡。そこへ追ってきたのは誰あろう、三度目の正直で仇敵の首を取らんと吠える犬山道節。だが白井城下~荒芽山と常に道節の前に立ち塞がってきた、あの巨田薪六郎助友が突如出現。道節、今度こそ定正を討ち取る事ができるか?第九巻ここまで。次はいよいよ最終巻。

 

 

 

(銀) 本巻の肝は何といっても、それぞれの犬士と彼らを苦しめてきた大物が再び相まみえるシーンじゃないかな。上記で述べたように親兵衛の設定でシラける箇所がある事、それと合戦が始まって人の出入りが激しくなるので、顔なじみじゃない小物脇役キャラが増えちゃって、まどろっこしい事。この二つが無ければ満点にしたのだが・・・。

 

 

 

ところで話は全然変わるけれども、「南総里見八犬伝」研究書によく引用される書物に『犬夷評判記』というものがある。曲亭馬琴が「南総里見八犬伝」を執筆していた頃、伊勢松坂に殿村篠斎という馬琴の大ファンな人がいて、彼が「南総里見八犬伝」の感想というか批評を述べ、それに対し作者馬琴が返答するという、作品の舞台裏を知ることができる貴重な資料なのだ。

でもこれ、他の馬琴作品「朝夷巡島記」についても触れており「南総里見八犬伝」だけが議論の対象ではないのと、「南総里見八犬伝」を語るとはいっても序盤(岩波版でいう第一巻)しか言及されていないのがネックでね。

 

 

 

「南総里見八犬伝」は三十年近くかかって完成した歴史があるから、そのすべてを問答するのは無理だったろうけど、せめて親兵衛篇が始まる直前(岩波版でいう第五巻)あたりまでフォローされていればなあ・・・。この『犬夷評判記』だが、単独で再発されるのはおろか『南総里見八犬伝』のボーナス・トラックとして収録された過去もない。量的にはそれほど多いものでもないし、岩波文庫あたりが読み易いテキストにして発売してくれればいいのに。





2022年5月4日水曜日

『辻村寿三郎作品集 新八犬伝』

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復刊ドットコム 高木素生(写真)
2017年1月発売




★★★   『新八犬伝』と『真田十勇士』では
               人形の表情に大きな違いがある




NHK連続人形劇「新八犬伝」のために辻村寿三郎が制作した人形の数々を被写体にした写真集。次作「真田十勇士」も同様の写真集がリリースされている。これまで何度も嘆いてきたとおり、映像をNHKが殆ど保存しておらず、リアルタイムで観ていない人が番組の魅力を感じ取ることは非常に困難。かろうじてDVD/ノベライズ本と並び当時の熱気を多少なりともシェアできる公式アイテム、それがこの写真集と言えよう。

 

 

 

オリジナル旧版はNHK系列の出版社である日本放送出版協会からリリースされていた。その頃、辻村はジュサブローと表記していたので旧版のクレジットは辻村ジュサブローだったが、今世紀に入り本名の寿三郎表記に変えたため、新版のクレジットは全て辻村寿三郎になっている。帯のデザインもすっかり変わっているし、『辻村寿三郎作品集 真田十勇士』のほうには新しく坂東玉三郎のエッセイをプラス。当時の定価は3,000円、新版は5,060円。復刊ドットコムから再発される場合、高めの価格設定がネックになるのは言うまでもない。

 

 

 

内容は人形の〝かしら〟(=頭部)をメインとし、カラーとモノクロそれぞれのページで接写。

 

✿ 人形の肌に使用されている〝縮緬(ちりめん)〟素材の質感がクリアに。

  細部というのはやっぱり接写してみて、よくわかるものだ。

 

✿ 「新八犬伝」と「真田十勇士」では、人形の顔の作り方がだいぶ異なっている。

  例えば眼(まなこ)。

  「新八犬伝」の人形はだいたいどれもカッと見開いた目をしているが。

  「真田十勇士」の人形の目は、細く切れ長なのが特徴。

  中には戸沢白雲斎/徳川家康/柳生但馬守のように、

  まるで目を閉じているかの如き表情に作られているものもある。

  口元の装いの違いにも注目。

 

 

 

他にも、この写真集を開くと、DVDやノベライズ本で見ることのできないキャラクターがどんな顔の人形に作られていたのか解って楽しい。犬塚信乃琉球篇に登場する毛国禎、物語終盤で管領軍と里見軍どちらに付くのか視聴者をジラした北条早雲、犬崎新をフィーチャーした丹後國篇に登場する橋立小女郎あたりが見られるのはいいね。北条早雲の顔も相当コワイけど、蟇六や馬加大記クラスになるとデフォルメしすぎて、もはや人間の顔をしていないのはどうなのよ。

その反面、雑兵・腰元など無名のキャラにページを割いてしまって、扇谷定正/巨田薪六郎助友/海賊・漏右衛門/朦雲といった名悪役しかり、犬村角太郎の許嫁・雛衣や、何より運玉ノ義留が載っていないのは寂しいですな。




映像が残されなかったぶん、本書が劇中での各場面をフルカラーで撮影したものだったら★10個ぐらいの勢いで大絶賛していただろう。番組を撮っている最中に度々スチール撮影するのはなかなか難しいとは思うけれど、映像はおろか劇中写真さえしっかり残っていないのだから、それが惜しまれてならない。

あと、この本の当時の編集者だけど、番組のことを十分理解していなかったのでは?左母二郎が左母次郎になっていたり、各自の名前がちゃんとフルネームで表記されていないとか(例えば、安西景連だったら景連としか書かれていない)、その辺にも不満は残る。

 

 

 

巻末のエッセイに目をやると、「新八犬伝」の脚本を担当した石山透がこんな発言をしている。


〝「南総里見八犬伝」はご存知のように大長編で、特に序盤の伏姫と犬の八房が死ぬまでのおもしろさは、獣姦という怪奇性もあって抜群です。しかしそのあとは、話がすすむにつれてそれほどでもなくなるという奇妙な作品ですから、テレビ向きの脚本に作り変えるにもそれなりの苦心がありました。〟


そりゃあ成長した犬江親兵衛のエピソードがしばらく続く「南総里見八犬伝」の後半部分に人気がないのは否定のしようがない事実だけれども〝(伏姫八房譚のあと)話がすすむにつれてそれほどでもなくなる〟とは言い過ぎじゃないの? それに獣姦って・・・。

 

 

 

八犬士は伏姫と八房の間に生まれた子供だってことで、世の中には「八犬士とは人間と犬が性交して誕生した子供」だと勘違いしている人が多い。言っとくけど、伏姫が八房に体を許した描写は一度として原作には無い。あくまで人と畜生の精神的結婚のもとに八犬士はこの世に生まれたのであって彼らにはそれぞれ現世における生みの親が存在しているのだから、決して伏姫は八房に犯されて八人の子供を産んだ訳ではない。「南総里見八犬伝」の中で獣姦といえるのは、ニセ赤岩一角と窓井の間に生まれた牙二郎ぐらいでしょ?(側が畜生の場合も含むのであれば蟇田素藤と妙椿も該当する)あれだけ曲亭馬琴の作品を通読し、「新八犬伝」の中に取り込んでいた石山透にして、伏姫と八房を獣姦の夫婦だと誤解していたのならば、私はとても残念。

 

 

 

(銀) 本日の記事を読んで下さった方のうち、この辻村寿三郎作品集『新八犬伝』『真田十勇士』を買おうか買うまいかと迷いながらまだ入手できていなかった方へ、ささやかな朗報。只今楽天ブックスは定価のほぼ半額でセールを開催中。ご所望ならば至急楽天ブックスへGO。ただしセール期間は615日までとはいえ、販売部数はホンの少ししか残っていない。本当に好きな人が買えるよう、幸運を祈る。




「新八犬伝」の総集編となる回にて伏姫八房譚が毎回リピートされていた理由が、本書における石山透のエッセイを読むと腑に落ちる気がする。彼にとってはあの序盤部分こそが八犬伝の全てだったんだな。そう考えると処刑された玉梓を怨霊にして、犬士達が苦しめられる場面には必ず登場させるようにした意図も見えてくるし。

 

 

 

「新八犬伝」ノベライズ本にも相当省かれている箇所があることは前にも触れた。これ以上映像の発掘が望めないのであれば、せめて全464話の脚本ぐらい誰か残してくれてはいないかな~。ノベライズ本は石山透が脚本にした全ストーリーのうち、単行本三冊に収まるように重金重之が構成したものであって完全とはいえない。もし全464話ぶんの脚本がすべて残っているのなら、それをコンプリートな形で再構成すれば、より濃厚な「新八犬伝」本が出来ると思う。その実現に向けてやる気のある出版社はいないか?全ての脚本を大事に残してくれている関係者はおられないだろうか?



 


2022年4月30日土曜日

『黒い妖精』園田てる子

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東京信友社
1960年6月発売



★★★★   探偵小説ではないのに、つい読んでしまう




園田てる子については2022年1月31日の記事(『夜の肌』)にて簡単に説明した。今回取り上げる「黒い妖精」という作品も探偵小説と呼べる内容ではない。ふつう単行本は付属している帯に「売り文句」が躍っているものだが、この本はカバー上にそれが印刷してある。参考までに紹介しておこう。

〝 恐るべき情事の繰返しが女の魔性をとらえ、限りなき情欲の世界をさまようという問題の長篇! 〟

わかるようでイマイチ意味がよくわからん売り文句。新垣結衣が出ている例のビールのCM「日本のみなさん、おつかれ生です」ほどダサくはないけども。(あのコピーを作ったコピーライターと、それにOKを出した担当者の言葉のセンスを疑うね)
 


                   

 


東興物産・人事課のタイピスト笠原由美は、同社の販売課長・白根悟郎と秘かに関係を持って一年になる。悟郎は由美と結婚したいのだが社長の泉山亮介は同郷の先輩でもあり、東大に入学する資金の面倒をみてもらっていたり何かと恩義がある存在。その泉山社長は娘の絢子が離婚して実家に戻ってきていることもあって、ぜひ悟郎に絢子をもらってほしいと考えていた。

そんな折、農林省団体の汚職が露顕して東興物産も贈賄容疑で睨まれる仕儀となり、悟郎は社長から「頼むから一切を背負って身を隠してほしい」と懇願される。それを受け入れた悟郎は由美を連れて会社を去り、駆落ち同然の世をしのぶ身に。(この後の悟郎と由美は夫婦扱いだが入籍したような記述は無い)

 

 

 

働き口の無い悟郎の代わりに一流割烹のお帳場として働く由美は、大洋重工業で設計技師をしている堀田通也という男と出会う。失業してどんどん内向きになってゆく悟郎とは対照的に、快活な堀田に次第に魅かれてゆく由美。結局彼女は夫・悟郎の(東京から離れた)勤め先を堀田に紹介してもらうのだが、過去に東興物産時代の慰安旅行で、ふとしたきっかけから悟郎に唇を奪われてしまったのと同様、体調を崩した堀田を病院に連れていった拍子に、またしても由美は堀田に恋心を抱いてしまう。

 

 

 

なんていつもの調子で真面目に書いててもしょうがないから、この後の流れをざっくり記すと、要するに由美は堀田の押しに負けてしまってズブズブの不倫状態へ。ただ、いくら体を委ねても悟郎と別れて自分と一緒になってくれない由美との間に堀田は溝を感じるようになる。そんな女の魔性が「黒い妖精」というタイトルに繋がっているのかもしれない。また泉山絢子周辺もテノール歌手だの社長秘書だの、もつれた関係が殺人事件へと発展。結局のところ、誰ひとりとして幸せになんかならないオチがついて The End

 

                   

 


〖園田てる子=エロ女流作家〗とは言っても、露骨な性描写が繰り広げられている訳ではない。彼女の描く ❛ 性 って戦後すぐのアプレな無軌道ぶりとも違う気がするし、バブル期に見られた日本人の(クリスマスの夜には男と女がシティ・ホテルに泊まって・・・・みたいな)フリー・セックス感よりずっと旧くてヘビーな世界とでもいうか。ドライな見方をすれば、主人公の由美は普段はだらしなくないのに、ひとつキッカケがあると男に許してしまうスキがある。そういうのを不快に感じる人には、本作のような小説は向いていない。

 

 

 

物語の中で「探偵小説の登場人物みたい・・・」なんてセリフが出てくるのだから、園田てる子の頭の中に探偵小説がまるっきり存在していない訳ではないようだ。でも彼女は純粋なミステリをなかなか書こうとせず、女と男の情欲にこだわった。重ねていうけどミステリ的な見どころがある訳ではない。それでも(私にとっては)なぜか読ませてしまうsomethingが、この作家にはある。

 

 

 

(銀) 後半、堀田と由美が旅先でしっぽりしているところに謎の尾行者が現れて不穏なムードになる。この部分を活かしてサスペンスを強調していれば、少しはスリラーっぽい展開になりうる余地もあった。園田てる子の非ミステリ作品にも犯罪は一応起こるんだけど、そこで主人公が警察や探偵に追われて・・・みたいなプロットにはならないのが特徴だろうか。





2022年4月29日金曜日

『南総里見八犬伝㊇』曲亭馬琴

NEW !

岩波文庫 小池藤五郎(校訂)
1990年7月発売



★★★★    虎!虎!虎!



◕ 「南総里見八犬伝」を読んでいると、何度か表出される ❛あるパターン❜ に気付く。
一つは長期に亘る犬士の幽閉。
第三巻で犬田小文吾が馬加大記によって。
そして本巻では犬江親兵衛が京都管領・細河政元によって。
何かあやまちをしでかした訳でもないし、表面上は歓待されているように見えながら、この二人は屋敷から出られぬ状況に陥る。

また事情が少し異なるとはいえ、第二巻で登場した時の犬飼現八も滸我の足利成氏に仕えてはいたが、獄舎番の非道な勤めを批判したがために、犬塚信乃を芳流閣屋上で捕える命令が出されるまで執権・横堀在村の暴政で牢獄に入れられていた。偶然にも現八と小文吾は乳兄弟で、親兵衛は小文吾の妹の子供。この共通項には何か意味があるのだろうか?

 

 

 

二つめに「南総里見八犬伝」に登場する後妻は、なぜか悪人が設定されがちなこと。
甲斐國石禾の村長・四六城木工作の後妻である夏引は、武田家の家臣・泡雪奈四郎と密通しており、木工作を殺してその罪を犬塚信乃のせいにしようと企んだ。続いて船虫。最初は盗賊・並四郎の妻として登場、その後ニセ赤岩一角 → 山賊・酒顛二 → 媼内と次々に男を変え、行く先々で悪事を働いたのはご承知のとおり。更に、石亀屋次団太の後妻・嗚呼善もまた然り。四六城木工作と石亀屋次団太は善人ながら、如何せん年齢が離れているからとはいえ、若い後妻を他の男に寝取られてしまうのはどうして?

この二点についてシャーロキアンがコナン・ドイルの深層心理を研究するように、曲亭馬琴の胸の内を考えてみるのも実に興味深いと思う。

 

 

 

◕ 朝廷から八犬士の〝金碗〟継承が認可されたにもかかわらず、犬江親兵衛だけは細河政元の屋敷に留め置かれてしまう。この管領政元には少々男色の気があり、若く武力知力ともに秀でた親兵衛を自分の家来かつ稚児として手元に置きたがったのもあるが、もうひとつ理由があった。前巻で登場した悪僧・徳用はなんと細河家の執事・香西復六の子で、細河政元とは乳兄弟。例の丶大法師による大法会を襲撃した罪で結城を追われ、こっそり京に戻ってきていたこの男は八犬士に恨み骨髄、政元に進言し親兵衛に復讐する腹積もりだったのだ。

 

 

 

よって親兵衛は「武芸の手並みを披露せよ」という事になり、京で名うての達人と戦わされる。それはさておき、蜑崎十一郎照文は里見義実/義成に報告するため先に安房へ帰ったけれども、姨雪代四郎ら数人の里見家家来は(管領に手出しできないとはいえ)都に残って街中に潜伏し、親兵衛救出の機会を窺っていた。このくだりで里見家家来の一人・直塚紀二六が(密室ではないけれど)屋敷から一歩も出ることができない親兵衛と、あるトリックを使って秘かに通信を交わす。あまり好きではない京都篇ではあるが、この部分はなかなか面白い。

 

 

 

◕ 歴史に名高い巨勢金岡による一枚の虎の絵。その虎は〝眼(まなこ)〟が描かれていない。「その虎には決して眼を描き入れるべからず」と伝承されていたのに、巽風という絵師が政元の指示で眼を描き入れてしまったため、絵の中から虎が抜け出し(!)都はパニックに。

「虎を退治し都を守るその褒美として、ぜひ自分を安房へ帰れるようにしてほしい」と細河政元に交渉する親兵衛。政元の養女・雪吹姫を攫って逐電しようとしていた徳用を襲った虎は山中を彷徨っているらしい。親兵衛いかにして虎を倒し、しつこい政元から逃れられるか。徳用というのは実にチンケな悪役だし、キャラの善悪がハッキリしている「南総里見八犬伝」において、管領・細河政元という人はなんともグレー・ゾーンにあるビミョーな存在。その辺も京都篇のウケが悪い要因なのかも。

 

 

 

◕ 同じ頃、八犬士及び里見家に対する扇谷定正の敵意は日増しに強くなっており、同じ管領である山内顕定をはじめ、過去にいがみ合ってきた関八州の武家までも巻き込んで、里見家を滅ぼす大戦の準備を着々と進めていた。一方、穂北では闘病中だった氷垣残三夏行が亡くなり、その跡目を落鮎余之七有種が継いでいたのだが、彼らが犬士達と深く繋がっている内情を定正が放っていた間諜者に知られてしまう。いよいよ物語は大詰めクライマックスへ。第八巻はここまで。

 

 

 

 

(銀) 前回の記事にて「京都篇は別になくてもよかったのでは・・・」と書いた。江戸時代のリアルタイムな読者も同様に思っていたようで、そんな声が作者にも届いていたのか馬琴は本巻の文中にて「京都篇は当初から想定していたエピソード」と強く反論。こんな風に現在進行形の作者の発言が時々差し込まれているのが「南総里見八犬伝」のユニークなところ。とはいっても物語前半の頃は、こういうのは無かったんだけど。

 

 

天保11年。とうとう馬琴は両目とも失明してしまい、本来ならばもう小説なんて書ける場合ではないのに、亡くなった息子の嫁・お路に文字を教えて口述筆記をさせるという苦難の道を選ぶ。しかもそのお路に対して、馬琴の妻のお百が嫉妬心を起こすのだから、滝沢家の修羅場は想像に難くない。目がよく見えないストレスは、そうなった者にしかわかりえない。馬琴の絶望感とイライラは如何ばかりだったろう。しかしそれでも彼は「南総里見八犬伝」の完成しか考えていなかった。




世間的に親兵衛のエピソードは人気が無いかもしれないが、少なくとも視力喪失による文章のパワー・ダウンといったものは微塵も感じられない。「他人の作る本にて、言葉狩りやテキストのミスがあるのは絶対許さないが、自分は老眼だから自分の作る本のテキストに間違いが生じるのはやむをえないこと」などと自己弁護ばかりしているどこぞの輩とは月とスッポン。もっともそんな愚人と比較すること自体、馬琴のような偉人に対して失礼なのだが。





2022年4月24日日曜日

『南総里見八犬伝㊆』曲亭馬琴

NEW !

岩波文庫 小池藤五郎(校訂)
1990年7月発売



★★★★    〝金碗〟継承




 河鯉孝嗣を死罪から救った老婆は、その昔孝嗣の父・河鯉守如に命を救われた恩義を感じ、乳母・政木という人間の姿に変身して幼い孝嗣を育てた過去を持つ心優しき古狐だった。鶴の恩返しならぬ狐の恩返しを果たした彼女は、犬江親兵衛にも妙椿の正体を教える。第一巻で八房が誕生した時、親のいない生まれたての八房に乳を与えていたのは野生の狸で、実は八房だけでなく、その狸にも玉梓の怨念が宿っており、妙椿は里見家に禍をなすため、狸が八百比丘尼の姿に化けていたのだ。


狐が人に化けて幼児に乳を与え、怨霊に取り憑かれた狸が幼犬に乳を与える。
恩愛と余怨の畜生親兵衛篇が始まって、物語が原点回帰しているところがあるとはいえ、
何という摩訶不思議な話か。巡る因果は糸車。
一方、里見義成も妙椿の企みを知り、暇を出していた親兵衛を急ぎ呼び戻す。
親兵衛は政木大全と改名した河鯉孝嗣、そして関東へ出てきていた石亀屋次団太を連れて、蟇田素藤が占拠している館山城になぐりこむ。妙椿には前巻で伏姫神女に胸を蹴られたダメージがあったのか、「仁」の玉の霊験の前には為すすべもなかった。

 

 

 

◕ かねてからの大望どおり丶大法師は結城合戦戦没者を弔う大法会を行っていた。
そこへ地元・逸匹寺の徳用という拗れ者(ねじけもの)の破戒坊主がこの大法会を妬み、同調する者を結集して襲撃してくる。不測の事態に信乃/荘介/現八/道節/小文吾/毛野/大角は盾となって立ち向かうが、犬士達が先に逃がそうとしていた丶大法師一行を足止めする徳用。そこへ親兵衛/孝嗣/次団太がようやく結城に到着、悪僧どもは制圧され、ついに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌、八つの霊玉がうち揃い、犬士達は全員里見家に仕える事に相成るのである。

 

 

 

◕ 里見義実は「里見家の発展は丶大(=金碗大輔孝徳)の父・金碗八郎孝吉の功あってこそ」という気持があり、八犬士全員に〝金碗〟の名を与えたいと考える。そのためには都の朝廷の許しを得ねばならず、犬江親兵衛と蜑崎十一郎照文が大役を担う使者となって、朝廷へ献上する金品を積んだ船に乗って房総を出発するのだが、このあたりで親兵衛に関するエピソードにつき、少々申したき事あり。


 

 

実際、世間の人々には認知度の低い「南総里見八犬伝」後半部分ではあるけれど、
蟇田素藤~妙椿篇及び、この後の京都篇は、かなり改変されてはいるものの『新八犬伝』でも取り入れられていたから、全然馴染めなくはない筈だ。私自身は、わずか九歳の少年とはいえ一人前の侍になった犬江親兵衛のエピソードは素藤~妙椿篇だけで十分足りていると思ったし、そのあと丶大法師が結城大法会を済ませて八犬士が集結したなら、そのまま里見家対扇谷定正軍の最終決戦に突入してよかったような気もする。ところが馬琴からすると、八犬士に〝金碗〟の名を与える流れはどうしても必要不可欠だったようで。

 

 

 

本巻の中で馬琴が「ここに来て平和なシーンが続いており読者は退屈かもしれないが、これもこの後の伏線となる欠かせないパートなのだ」みたいな注意喚起を何度か書いている。犬士達が不幸な目にあったり苦しめられたりするエピソードのほうがウケることは馬琴も重々わかっていただろう。しかしそれでもなおかつ、このあと親兵衛京都篇が始まる。正直言って素藤~妙椿篇はあってもいいけれど、結城での徳用襲撃のくだりは必要だったか?京都へ〝金碗〟名の許可をもらいに行くくだりも最低限の分量で済ませてよかったのに。と、やや後ろ向きな発言を残しつつ第七巻はここまで。

 

 

 

(銀) 京都へ向かう途中、三河に寄港した里見家一行の船は海賊・海竜王修羅五郎に襲われ、山育ちゆえ海上戦に慣れていなかった親兵衛を救うのが、今回の同行を許されていなかったのに勝手に船にこっそり乗り込んでついてきた親兵衛育ての親のひとり・姨雪代四郎(=与四郎)。彼は第二巻という早い段階から神宮川の船頭・矠平として登場していたキャラで、荒芽山以来その行方がわからなかったが、第六巻で成長した親兵衛と共に再登場。老人なのに八面六臂の活躍をし、親兵衛のことを「和子(わこ)、和子(わこ)」と呼んで孫のように可愛がっているのは、姨雪代四郎に馬琴の気持がかなり入り込んでいたからかもしれない。





2022年4月20日水曜日

『映画論叢59』

NEW !

国書刊行会
2022年3月発売



★★★★    森卓也が小林信彦を・・・




本号に鈴木義昭が寄稿している「布村建追悼」は『映画秘宝』があのような末路を迎えなければ本来あちらに載っていたのではないか。鈴木は『映画秘宝』の常連ライターだったし。

この『映画論叢』は今は亡き『彷書月刊』に似たサイズで、最近の映画は扱わない方針を打ち出している訳でもなかろうが、バックナンバー一覧を見ても、日本の元号でいう昭和以前の国内外映画に思い切り特化した誌面作りがなされている。強いて言えば、国書刊行会の取引規模自体が洋泉社とは異なるため、入荷する書店が限られているのが難点か。『映画秘宝』のようなカラーページは無く、中身の佇まいも『彷書月刊』っぽい。





今まで『映画論叢』を読みたかったけど買うのをずっと我慢していたのは、湯浅篤志による探偵小説関連映画についての記事が一冊の単行本になった時にまとめて読みたかったから。
(もっとも、氏が「そのうち単行本を出します」なんて発言しているのを確認した訳でもなく、本当に単行本化されるのか定かではない)
本号ではアルセーヌ・ルパン・シリーズの翻訳者として知られる保篠龍緒に関連した戦前の映画三本について触れており、その対象作品はこちら(☟)

 

 

♣ 『茶色の女』(昭和2年公開)

原作:モーリス・ルブラン   脚色:星野辰男(保篠龍緒の本名)

監督:三枝源次郎       出演:南光明ほか

 

♣ 『紅手袋』(昭和3年公開)

原作:保篠龍緒         脚色:大島十九郎

監督:川浪良太         出演:玉木悦子(=環歌子)ほか

 

♣ 『妖怪無電』(昭和4年公開)

原作:保篠龍緒         脚色:木村恵吾

監督:木村次郎         出演:美濃部進(=岡譲司)ほか

 

 

どの映画もフィルムは現存してなさそうで鑑賞できないのが残念とはいえ、当時の活字メディアを丹念に調べ、情報を拾い集めてくれているのは有難い。湯浅の専門は探偵小説だから他の記事と並べたら氏の書くものだけ浮いてしまわないかな・・・と懸念していたが何の遜色もなく本誌のカラーに溶け込んでいる。どんなに時間がかかっても構わないから、一連の記事は是非一冊の書籍にまとめてほしい。


 

 

 

それほど湯浅篤志の記事を読むのを我慢していたくせに、何故今回『映画論叢』を買ったのかというと、アニメーション/映画をはじめとしたエンターテイメント研究で知られる森卓也の寄稿「或る作家の横顔 尾張の幇間」が掲載されているから。この記事、盟友だとばかり思っていた小林信彦に対し、どうにも不穏な発言に満ちていて、正直戸惑わざるをえない内容なのである。おおまかに整理すると要旨はこんな感じ。

 

 

何かの対象を評する時、自分(小林)の考えだけでは不安だから森に感想を聞き「森卓也もそういっていた」という連帯感の安心を得る為に、しょっちゅう小林から(時には乱暴な形で)意見を求められてきた過去に対する不快感

 

それ以外にも、森が苦々しく感じてきた小林の言動の数々

 

小林を否定的に見ているらしい人々(淀川長治/石上三登志/佐藤重臣/明石家さんま/古今亭八朝/永六輔/山藤章二)の例

 

 

 

私は森卓也の著作を殆ど読んだことがなく、その存在は小林信彦著書の中で確認してきただけ。一方、小林の著書はほぼ全て読んできた。だからハッキリ言えるのだけど、老舗和菓子屋の長男として生まれた小林はハンパなく気位が高い。俗な言い方をすると大抵の場合において〝上から目線〟。だって臆面もなく「芸の筋がよいタレントを、うまくエスカレーターに乗せる ― それがぼくの趣味であった。」(要するに、タレントが成功できるように自分が導いてやる、という意味)と言っちゃう人だ。世の中、植木等や谷啓のような寛大なオトナばかりじゃないのだし、こういう小林に反感を持った者はきっといただろう。

でも我々読者がそんな小林の困った欠点も知った上で彼の本を読んできたように、森卓也もそういう小林の部分を承知の上で付き合ってきたとばかり思っていたけど、どうも今回の文章を読む限り最近何か突発的なきっかけで怒りが爆発したんじゃなく、以前からずっと抑えに抑えてきたものが噴出してしまった、そんな気配がする。   

 

 

 

森の文章を読んで私の頭をよぎったのは、『ヒッチコックマガジン』の時代に変に芸能界に染まってしまった小林は、(稲葉明雄が心配したとおり)不幸だったかもしれないということ。そのおかげで読者はずいぶん楽しませてもらったけれど、芸能界の人ってすべからく腹の中で「自分は一般庶民よりはるかに偉い」と思ってるからねえ。小林も華やかなTV業界の一員になってしまって、知らず知らずのうちに元々持っていた高慢さがいつしかあまり好ましくない形で増長し、こんな事態を招いてしまったか。

 

 

 

例えばビートルズ論争。
あれも小林に『ミート・ザ・ビートルズ』の誤りを伝えたのが仮に井原高忠のような、明らかに小林が自分より格上だと思っている人から云われたのであれば、小林も大人しく聞き入れていたと思う。それがたまたま松村雄策という小林より知名度の低い人物だったがために、自分よりも格下の存在だと蔑んだ結果、「半狂人」なんて発言をしてしまった。松村の指摘を受け入れるにしろ受け入れないにしろ、もっとマシな対応の仕方があったはず。この言い方は明らかに小林のほうが悪い。

格下に見ている人間に対して居丈高な態度を取る癖は、若い頃のみならず脳梗塞で倒れるまでは『文春』連載でも少なからず見受けられた。中野翠を下に見ているのはわかっていたが、まさか森卓也にもそこまで・・・。

 

 

 

小林が昭和7年生まれで森が昭和8年生まれ。二人ともぼ同学年といえるし、卒寿を迎える直前にある。年齢的にこんな事でいちいちキレていては、世間体以前の問題で健康によくない。なんでまた森卓也が急にこんな文章を世に発表したのかさっぱりわからないけれども、九十歳の罵り合いなど見たくはない。小林はこんな森の発言なんて知らなくていいし、森にしても言いたい事は山ほどあるだろうが、できれば刀を鞘に収めてくれるのを願う。

 

 

 

 

(銀) 森卓也の文章を普段読んでいないから、彼の筆致というものが詳しくわからない。ただいくら怒気が混じっているとはいえ、話の論旨があっちこっちフラフラしているように感じる。それが単に高齢のせいなら、まだいい。本来の森ならもっと整然とした文章を書きそうなのに、ここではそう見えないのが少々気にかかる。twitter中毒の果て、アタマがプッツン状態になってバチが当たればいい老害野郎は世間にいくらでもいるが、森と小林にはそうなってもらいたくない。



ちなみに「レッツゴー三匹」の表記でも別にいいんじゃないの?と思ってたら、ネットでググると「レツゴー三匹」とばかり出てくる。この件はやっぱし森が正しいのか・・・。