2021年12月14日火曜日

『白百合の君』西條八十

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東光出版社
1949年5月発売



★★★★   少女探偵小説と呼べるかどうか




若い世代にはピンとこないかもしれないけれども、二十年前だとジュブナイル探偵小説への関心はよほど稀少な古書でもない限り、そこまで鵜の目鷹の目でもなかったし、日本人作家によるジュブナイル探偵小説の古書価が乱暴に高騰してしまった今と違って、平成の前半あたりまでは、実に長閑な扱いだった記憶がある。

 

 

西條八十。流行歌から童謡・軍歌まで、作詞家として名高き才人。彼には少女を対象とした児童小説が多数存在する。90年代の終わりぐらいだったろうか、ネット上で日本のジュブナイル探偵小説に注目し、知られざる作品を掘り起こす書誌的活動が見られるようになった。それがきっかけで、西條八十のジュブナイル探偵小説も徐々に一部の人々の蒐集(いや転売か)対象となってゆき、『人食いバラ』など復刊にまで漕ぎ付けられた作品も出てきた。

 

 

大人向け子供向け問わず、探偵作家とは称されていない作家の書いた作品の中にも、ミステリ色を内包し探偵小説として読めるものがあったりする。しかし、そういったものは得てして探偵役が出てこなかったり、ややもすると警察の捜査さえ描かれないストーリーだったりで、探偵趣味ってどういう事かをよく理解している人ならともかくも、そうでない読者は「これって〈探偵小説〉とも書いてないし、どこにミステリ色があるの?」と疑問を持ったりするだろう。どのような内容であれば探偵小説と見做してもいいのか、その境界線は人の感性にもよるし曖昧でわかりにくいから、私の拙い文章をもって説明したところで尚更心許無い。


 

 

書影をご覧頂きたいが、本日のネタである西條八十『白百合の君』は〝長篇純情少女小説〟と題され、カバー絵の表紙しかりパッと見た目には探偵小説の雰囲気など一切感じられない。だが、目次を見ると〝脱獄囚〟〝怪盗〟〝隠れ家〟といった、それらしき単語が混じっている。
では大雑把に本作のあらすじを紹介していこう。

 

 

♡ 美少女・瀧百合子は伯母の政子とたった二人、日光でつつましく暮している。その町には遠浦公威伯爵の別荘があり、一人息子・綾彦は遠浦家の跡継ぎなのだが、戦争に負けて世の中が変わった今でも彼らは在りし日の栄光を引き摺っており、執事の足立が忠告してもなかなか浪費を止められない。

 

 

♡ 百合子のもとに東京の弁護士・古橋哲郎から突然手紙が来て、アメリカに渡ったまま向こうで亡くなった百合子の父が残した八億にもなる巨額の遺産が相続されるという。田舎の学校教師でしかなかった百合子は戸惑いながらも一躍裕福な身となって東京に住まいを構える事に。
だが伯母の政子は喜ぶどころかずっと暗い顔をしていた。

 

 

♡ 遠浦綾彦青年は日光で怪しい賊に襲われた折、危ないところを百合子に救ってもらい、その日以来彼女の事をずっと忘れられずにいたのだが、運命の再会を果たし、身分の差を乗り越えて百合子にプロポーズする。左前になっている遠浦家の財政を百合子の莫大な財産が救ってくれる裏事情もあって、遠浦の人々もこの結婚を歓迎していたのだが、運命はそう簡単に百合子に微笑んではくれなかった・・・。

 

 

これだけの概況だと少女小説のおセンチな特徴だけで肝心な部分を伝えきれてはいないが、百合子の運命を狂わせる悪の存在の伏線は序盤から張ってあり、要するに物語は悪の存在によって引き起こされる〝アイデンティティーの崩壊〟を描いているのであります。少女小説には少女小説の定型があるし、日本人女性が好むその手のメロドラマ感を私は持て余したりもするのだけど、終章での意外なる秘密が発覚する演出とか、広く受け止められる心さえあれば、本作も〝探偵趣味を持つ少女小説〟として見做す事ができるんじゃないでしょうか?

少なくとも、盛林堂書房がこの数年同人出版で再発してきた「あらしの白鳩」シリーズのドタバタ・アクション(あれこそ探偵小説扱いしていいのかね?)よりは、ずっとまともだし。
(★の数は四つだけど、本作に対する評価は実質★3.5)

 

 

 

(銀) 私が情弱なだけかもしらんけどさ、西條八十のジュブナイル探偵小説って一時期、他の人(弟子?)が代作してるって噂が流れてなかったっけ。この件に関して、いつの間にか誰も問わなくなったよね。結局真実は?

 

 

00年代に国書刊行会版『西條八十全集』を制作した人達は八十のジュブナイル探偵小説のことを無視したようだけど、そこから発生したデマだったのかな?あるいは今もその真相は解明されず放置されてるだけ?自分で読んだ感じでは、彼の他のジュブナイル探偵小説よりも、詩人・西條八十らしい言葉遣いが『白百合の君』の文章には見られた気がするし、ハッキリした根拠は無いが、この作に限っていえば第三者が書いているとは考えにくかった。