2021年6月10日木曜日

翻訳者・江戸川乱歩の謎(一)

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■ 名義貸しではなく、乱歩自身で翻訳した作品とは?





いっそ海外ミステリ翻訳者として活動するプランを、大乱歩は一度も考えなかったのだろうか?四年のブランクを経た戦後の新作は少年もの「青銅の魔人」の連載が開始される昭和241月、大人ものになると翌昭和253月の「断崖」まで待たなければならない。天皇の玉音放送以降、「新作が書けない・・・」と乱歩が思い始めるのはいつ頃なのか知る由もないが、この時期こそ翻訳に手を染めてみるには絶好の機会だった筈。


                   

 

江戸川乱歩の翻訳といっても名義を貸しているだけで実際書いたのはどれも第三者、そんな常識が刷り込まれていたものだから長い間〝乱歩自身の翻訳〟については気に留めなくて当り前、という感じだったし、正直言って真剣に考える事もなかった。図々しくも江戸川乱歩について大概の事は知っているつもりでいたが、よくよく自問してみたら〝乱歩自身の翻訳〟について曖昧にしか理解していない自分に気が付いた。バッタもんの訳ばかりの中で乱歩が自分の手で翻訳したと信じられるものはいくつあるのか?注意して乱歩著書を再読すると、例外と言えそうな作品が三つ存在している。



   「黒い家」エラリー・クイーン     昭和2167月  『旬刊ニュース』

   「赤き死の仮面」EAポオ                   昭和2411月   『宝石』

   「魔の森の家」カーター・ディクスン  昭和317月     『EQMM



このうち、乱歩生前の著書に収められたのは ① のみ。
『海外探偵小説作家と作品』における【クイーン】の項を読むと、
『旬刊ニュース』の編集者が「一つ抄訳をしてもらいたい」と言ってきたので、
「私自身原作の半分ぐらいに抄訳し(中略)四回に亘って連載した。」と書いてある。
(ここで「私自身」と乱歩が述べている事を、次回の記事まで覚えていてほしい)

① は春陽堂版江戸川乱歩全集第15巻『化人幻戯』(昭和30年刊)に、
初出時の「黒い家」から原作どおりのタイトル訳へと改めた「神の燈火」として収録。
春陽堂版全集の巻末解説は中島河太郎が担当していて、
この巻の中で乱歩による ① に対してのコメントは無し。その後、春陽堂版全集のテキストを再利用したと思しき昭和30年代の春陽文庫/江戸川乱歩文庫16『三角館の恐怖』にも ①(「神の燈火」)は収録されていた。

 

 

昭和40年に乱歩が亡くなって、そののち出された二度の講談社版全集しかり、
乱歩著書において暫くの間これらの翻訳ものは陽の目を見る機会が巡ってこず、
次に読者の前に姿を現すのは、江戸川乱歩推理文庫第47巻『海外探偵小説作家と作品3』(平成元年刊)。この巻にボーナス・トラック的な扱いで ①と③ が収められる。

ここで江戸川乱歩推理文庫第65巻『乱歩年譜著作目録集成』でもいいし、
光文社文庫版江戸川乱歩全集第29巻『探偵小説四十年(下)』でもいいのだが、
その二冊に載っている「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」を見て頂きたい。
 ①と③ は各発表年度冒頭の【小説】欄にしっかり記されているのに、どういう訳か ② だけは(江戸川乱歩推理文庫に収録されなかったばかりか)この目録からも漏れていた。
こういうデータに細かい乱歩が記載漏れをするなんてありえるかな?

また江戸川乱歩推理文庫を編纂する際に、中島河太郎は ② の扱いをどう考えていたのだろう?江戸川乱歩推理文庫で初期に配本された巻のカバー袖に記載されているその後の収録予定を見ると、第46巻は当初『黄金虫』(原作ポー)収録と告知されていたので、そこに ② も予定されていた可能性はある。結局のところ収録内容が変更され、「黄金虫」なりポーの巻自体が収録予定から外された時に ② も道連れになって消去されてしまったか。


                    

 

話は前後するけれど、生前最後の桃源社版全集には「翻訳は載せない」と明言してあるから仕方ないとして、江戸川乱歩推理文庫からまた少し年月が過ぎ、平成15年に配本が開始された光文社文庫版江戸川乱歩全集の時には、前回の江戸川乱歩推理文庫の終盤の巻に入っていた随筆の類いで、こちらに入らなかったものがいくつかあったのは至極残念だった。その漏れた随筆の巻き添えを食って、という訳でもなかろうが、光文社文庫版全集で翻訳ものは一切スルーされている。想像するに監修者の山前譲と新保博久は編集部の意向もあって、桃源社版全集と同じく自作に限定する方針を選んだのかもしれない。

 

 

21世紀まであと数ヶ月、ノストラダムスの大予言が外れたと安堵したら、今度は2000年問題を人々が不安視していたその頃、乱歩研究の救世主として中相作が『名張人外境』を開設、その後の氏の活躍ぶりは今更述べ立てる必要もあるまい。その中相作が ② をまごう事なき乱歩自身による翻訳だとする言説を披露したのが平成10年刊の『江戸川乱歩執筆年譜』。氏はこの本の21~22ページにて、乱歩名義「赤き死の仮面」を九行サンプルとして提示し「例外的に乱歩自身の訳だと考えて差し支えないと思われる」と記した。

この時はまだ光文社文庫版全集が発進する五年前だったから、あの全集に入れようと思えば十分可能だったのにそれはなされず、乱歩訳「赤き死の仮面」が初めて単行本に収録されるのは、藍峯舎の豪華本第一弾として世に放たれた『赤き死の假面』(平成24年)。初出から実に63年もかかったのだ。読んでみると原文がもともと修飾的美文調であるせいか、①~③の中では最も乱歩の体臭が伝わり易いテキストになっていて、これを「本当に乱歩が訳したの?」と疑う余地は無いように感じる。これが今迄なぜ乱歩全集に一度も収録されなかったのか、むしろそっちのほうに首を傾げてしまう。


                     

 

藍峯舎『赤き死の假面』は限定発売ゆえあっという間に売り切れてしまったけれど、乱歩の訳文なら『怪談入門 乱歩怪異小品集』に収められているし、解説部分だけなら中相作『乱歩謎解きクロニクル』で読む事が可能。①と③は現行本に入っていないため、古書で江戸川乱歩推理文庫第47巻『海外探偵小説作家と作品3』や春陽堂版江戸川乱歩全集第15巻『化人幻戯』、あるいは初出誌を探す必要がある。そんなこんなで今日は①~③の収録書籍を再確認してみたが、私の頭の中に渦巻く乱歩翻訳に対する疑問は依然として消え去ってくれないのだった。


 

 

(二)へつづく。




2021年6月7日月曜日

『狩久全集/第四巻/墜ちる』狩久

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皆進社
2013年2月発売



★★★★★    The Crime Of Sex




前回(202159日の記事を見よ)取り上げた第二巻での陶酔感の強い性愛作品に比べると、この巻でもセックス・マターはキープされつつ導入部分のとっかかりに利用される事が多くなりダークな犯罪心理のほうが頭を擡げてきた。そして読めば誰でもわかるから手取り足取り説明はしないけれど、江戸川乱歩作品のDNAがあちこちに散らばっている。なにげに乱歩チルドレンであるのが丸出し状態。

 

                     


作品を眺める前に、本巻は狩久と近しい関係にあった立石敏雄のインタビューを収録していて、その中にすごく感銘を受ける箇所があったので、そこから触れていきたい。

 

 

なんでも立石は当初「狩久作品における女性の喋り方は(発表された昭和30年代の頃の)現実と乖離してるのでは?」と気になっていたらしい。

しかし〝大正から昭和八年頃までの東京には、きわめて文化的に高度な中産階級/西欧化したおしゃれな都市生活が確かにあって、狩久は中学生くらいの年齢だったにせよ、その良き時代が頭に焼き付いたまま独特の世界観が頭の中に出来上がっている〟という真相に辿り着き、それゆえ狩久作品の女性達は皆ああいう喋り方をしているのだ、と後になって気が付いたという。戦後の日本には「昭和八年に帰ろう」という運動があったそうだが、さもありなん。戦後の女性でありながら、狩久の描く女性達ってアプレやパンパンとは全然佇まいが違っているもんな。

本全集を読んでいて、登場してくる女性キャラを「戦前っぽいな」と感じた事は私は一度も無かったけれど、良い話だね、これは。

 


                    



「女の身体を探せ」「蜘蛛」

前者は貝弓子(訳)クレジットで海外作品翻訳のふりをしたハードボイルド・タッチの創作。
外人女性よりやっぱり日本女性を扱ったほうが潤いがあっていい。
後者も貝弓子名義の掌編で珍しく穏やかな結末。

「すとりっぷ・すとおりい」

いつもの濃厚なエロス・・・と思わせといて〝らしくない〟オチには苦笑。



 

「女は金で飼え!」

一職工から財産を築き、美しい妻も得た男は事故で不具の身に。彼よりも彼の財産を愛している妻に対して、男はある異常な行動に出る。狩久が手応えを感じていた作品だが、編集部によって変更させられたこのタイトルはセンスが悪く内容にもフィットしていない。

 

「暗い寝台」

第二巻にも、というか狩久によく見られる、夜やってくる賊に女が襲われるパターン。

 

「鸚鵡は見ていた」

カッチリした本格ではないけれど、なかなかトリッキーに出来上がっている。
探偵役が謎を暴き立てるような締め括り方を選択しないのがこの作家の特徴とも言える。

 

「墜ちる」「ぬうど・ふぃるむ物語」「墜ちた薔薇」

テレビなど映像業界でも活躍していた狩久。この辺はそっち方面の要素を活かした作品。
川野京輔のように、自作を業界もの一色にしてしまわなくて正解だった。
全部が全部テレビ業界ミステリだと、さすがに読む側も飽きてしまいそうで。


 

 

「暗い部屋の中で」

官能よりもリドル・ストーリーな演出に重きを置く。

「たんぽぽ物語」

探偵小説マニアの学生たちの一人として瀬折研吉登場。風呂出亜久子がいないとつまらない。
ユーモア・ミステリ扱いされているけれどユルユルになり過ぎていない点はまだよろしい。
でも〝おめかし・ジョオ〟というネーミングは無いわ。

「石」

第二巻に入っていた作品の改稿版。
胸を病み、性的なものを嫌悪している夏子は赤の他人の逢引通信方法を知ってしまう。

「覗かれた犯罪」

江戸川乱歩の某作品に隣接している背中合わせの二軒の家なのにそれぞれ全く町名が異なることで実際よりも遠く感じさせる、というトリックがある。この物語にもその趣向がある訳だけど、この手の錯覚はすべてにおいて情報量が少ない時代だったから成立したのだろうか?
GPS や google Map の今ではどうにも成立させにくい詭計。

「雪の夜の訪問者」

〝秀ちゃん吉ちゃん〟ネタをさんざん振っといてタチの悪い結末。まったく、もう。

 



「天の鞭」「過去からの手紙」「水着の幽霊」「女妖の館」
「流木の女」「別れるのはいや」

避暑地の海岸で出会った女と抜き差しならぬことになる作品群。
似たような滑り出しで始めながら、どれもそんなにマンネリを感じさせないのが偉い。

 

「邪魔者は殺せ」

これはあれですよ、姑息なアリバイ作りよりも「私は単に、女という言葉によって象徴される性の充足のみを求めていたのだ。その女が多美子である必要は全くない・・・」という主人公男性の言い分がポイントで。「こんな男は身勝手もいいとこで許せん!」と青筋立てて怒るようでは狩久の世界は楽しめないよ。



ここまで小説を書いたあと映像業界での仕事が中心となってゆき、
作家・狩久は長い長い休眠に入ってしまうのだった。



(銀) 本巻はどれもが性愛のアバンチュールに浸るようなプロットではないけれど、本来なら狩久の小説は探偵小説読者だけに限らず大人の女性がベッドに入って眠りに就くまでのひとときに毎晩少しづつコッソリ楽しむような、そんな読まれ方がされるのを私は望んでいる。



しかし現実にはこの全集は超高額商品だったので、非常に限られた層にしか行き渡っていない。モノ(本とか)をしこたま買って自慢する事でしか自分のアイデンティティを保っていられず、実際に女性と付き合う機会は皆無で「ポケモンや小学生と結婚したい」などと呟き、この全集の古書価格の高騰ばかり気にしているキモい中高年オヤジに買い占められているのは(検索するとヒットするのはいつも同じ人物)狩久にとってもきっと望まざる不快な状況に相違ない。




2021年6月4日金曜日

無駄話

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このblogを公開し始めたのは昨年615日のことだった。少し余裕を持たせて何回分かの記事を書き溜めておけるよう、その十日ぐらい前から仕込みを開始したっけ。あれからまだたった一年しか経ってないとは・・・・。blog○周年とか、anniversaryをアピールする気持ちなんて特に無いけれども、ここ最近記事を書きたくなるような新刊本が全く出ないものだから、このような楽屋噺、いや無駄話でもってお茶を濁そうという魂胆である。

戦後のジュヴナイル作品である橋爪健『熱砂の美少年』を今回の記事にしようかなとも考えたのだが、特に言いたいことも無くて止めてしまった。強いて一言述べておくならこの本、ヤフオクでの入札がキチガヒじみてヒートアップし、高畠華宵が挿絵を描いているからなのか二万近くにも達する暴価で最近落札されていた訳。そこまで熱くなって買う程の内容でもないので、ご注意あれ。


                   



『バードス島綺譚』に使用しているのはGoogleが提供しているBloggerというブログサービス。blogで小銭稼ぎをしようとは考えてなかったし、利用がタダなのは必須条件であり、なおかつ世間のブログを見ていて広告というものがいつも邪魔臭かったから、あれを一切表示せずにすむのが気に入って利用するに至った。このBlogger、本来はアルファベット表記をベースに設計されているのか、日本語だと変な現象が起こるのが玉に瑕。それ以外は実に快適なのだけれど。



ブログには普通、同じテーマの記事だけを選び出して見られるよう、各記事に目印代わりに付ける〝タグ〟という機能がある。Bloggerではそれが〝ラベル〟という呼び名になっているのだけど、私の記事に付けているタグ、じゃなくてラベルは、アルファベットでなく日本語で表記しているからなのか、画面右横のラベル一覧を見ると、システムが漢字を実に曖昧なローマ字読みで自動認識し、順列を成しているらしい。例えばカタカナ表記の海外作家の下に漢字表記の日本人作家の名がズラッと並んでいる。

202164日現在だと、漢字表記の日本人作家で一番上にきている鮎川哲也→井上良夫までは〈あ行〉の【あ】【い】で読み取っているのだろうが、その次に永と延を【え】と認識してしまったのか、本来なら〈な行〉でもっと下の位置にあるべき永瀬三吾(ながせ・さんご)→ 延原謙(のぶはら・けん)が続く。そんな奇妙なラベルの順列を私はさして気にしないけれど、第三者が見たら不自然に感じたりしないだろうか。



変な現象はもうひとつあって、blog画面の右上「このブログを検索」という枠の中になにかワードを入れて検索してみると、当然、投稿の新しい順に記事が上から下へ並んで出てくるものだと思っていたら、なぜかアトランダムに表示されるので、この点は私も気になる。ラベルの表示順列といい、検索した記事の表示順列といい、どこかをいじれば改善されるのかもしれないけど、めんどくさいからそのままにしている。

記事を書く際にも(実際Bloggerの管理画面をお見せしないことには、説明してもなかなか伝わりにくいのだが)、文章の途中で一箇所でも下手ないじり方をすると、急にそのセンテンスすべての字体までもが変わってしまったり、鬱陶しい事態になる。すぐに慣れたから問題ないとはいえ、他のブログサービスでも似たようなことが起きる作りになっているのか、どうなんだろう?


                   



世の中のブログはとても便利にデザインされている。
それに比べて、当blogのなんと不親切なことよ。

関連する他の記事へ飛ばすリンクは全然張らないわ、コメント欄は完全閉鎖しているわ、最低限の画像をupするだけで動画を埋め込むことなどひとつもしないわで、我ながら呆れる。ただ私もblogだけにそう時間を割いていられるほどヒマでもない。文章の内容や見せ方を考えているうちに、いつの間にか時間を費やしていて、これ以上手を加えていたら何もできなくなってしまう。まあ結局は自分の為のblogであって、「いつも閲覧してます」と声を掛けて下さった奇特な方は今までおひとりだけだし(なんで私が銀髪伯爵だとわかったのかしらん)、これからも多分この雰囲気を変える努力はしないだろう(アア、ナント怠惰デアル事カ)。

内容のある知的なHPを何年も維持させ発信し続けている人は立派だなあ、と感心するばかりだ。『名張人外境』とか『本棚の中の骸骨 藤原編集室通信』とか。



中国がcovid-19を世界中にばら撒いた直後、たまたまblogをスタートさせてしまい、ここまで新刊本が出ない状況になるとは予想だにしてなかった。過去に読んだ本も記事にしてはいるけど、新刊なら読み終わったばかりですぐ感想を書きやすい一方、読了して時間が経っている本をわざわざライブラリーから探し出し、再読こそしないまでも、パラパラ頁をめくって記憶を引っ張り出すのは、それはそれで手間がかかる。

そういう不便さを考えたら「本のblogじゃなくて音楽のblogにしといたほうが楽だったな」と思う時もなくはないが、それでもまだ活字の世界のほうが未知の作品に出会える埋蔵量がほんの少し多く残されているような気がして、音楽のblogだと作りたい欲求はどうも湧いてこない。ミステリ業界も音楽業界もお先真っ暗なのはどちらもたいして大差ないが、このblogで扱うテーマを探偵小説にしたのはそんな理由から来ている。




(銀) 本当なら今月から、あるちょっとした連載企画を始めるつもりだった。
しかし、それに不可欠な資料の複写コピーを入手することが理不尽な理由で全くできぬまま企画が袋小路に入っており、私は怒っている。そのネタでblog数回ぶんもの記事が書けそうな程なんだが、思うところあって今はまだ自重している状態。時が来たら、この話の実情をあらいざらい披露してやるつもり。



それと、本文とは全く関係の無い話題をひとつ。以前、記事の中で言及したCD-ROM版『シャーロック・ホームズ全集』(新潮文庫)だが、windows XPの頃に問題なく再生できていたので、いつでも使えるものだとばかりたかをくくっていたら、今日PCに入れてみると全く再生できないし、改めてアプリケーションをDL+インストールすることさえ不可能になっているのを知った。殆どいないとは思うけれども、CD-ROM書籍をお持ちの方がもしいたら参考まで。新潮社の人間曰く「95/98の時代に発売された商品ですから、昔のOSで見るしかないんです、すいません」だと。数年ぶりに再生しようとしたら、すっかりただの可燃物ゴミと化していたのである。



電子書籍なんて買いたくないのは、ちょっと時間が経つとおしなべてこんな詐欺同然な目にあうからなのだ。そういえばワーズギアなんていう、発売してたった二年で消滅した電子書籍端末もあったね。何万円も出してあれを買わされた被害者は世の中に何人いるのやら。





2021年6月1日火曜日

『1960年代日記』小林信彦

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ちくま文庫
1990年1月発売



★★★★★   個人的でありながら何とポップな日記




何も無いゼロから新しいものを生み出すのが〝小説〟だとするならば、
小林信彦という人は小説家にはあまり向いていない。
批評する対象がまずあって、それをしつこく突き詰め咀嚼し自分なりの〝ひとつの表現〟として編集する才のほうが彼は長けている。「喜劇人」本も『小林旭読本』もそうだし『文春』コラムで長く続けている映画評論にしたって同じ、彼のハラワタから形を成して出てきたものだ。

小林の書く小説は一通り読んできたけれど、自分自身の投影(怨念のこもった内容が実に多し)あるいは既に存在しているテーマや偶像のパロディ、このふたつの要素に集約される気がする。あれだけミステリにもSFにも詳しいのに、その方面でオリジナリティあふれる飛び抜けた成功作は無い。小林の場合は小説以外の仕事がどうやっても小説仕事に勝ってしまう。

 

 

先日『「新青年」趣味』の記事で「探偵作家の日記って、どうしてこんなに面白いんだろう」と洩らしたが、この言い方は正しくなかった。ブライアン・イーノ『A Year』等の例を挙げるまでもなく、興味を抱いている人の日記だったら探偵作家じゃなくてもそりゃ飛びつくでしょ。最初から商売目的で書かれていない無責任さが好ましいし、余計な修飾が無いぶん日記本は何度でも読み返せる。まして小林信彦は活字の世界のみならず、番組の中で北島三郎と一緒に歌を唄ってしまうほど黎明期のテレビ業界とも係わりが深かった多面体な人。『横溝正史読本』だけでなく重要な一冊である日記本の魅力に世間がちっとも気付いてくれないから、今回はこの本にズームイン。

 

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小林は幼少期から欠かさず日記を書いていて、出版社から「60年代を背景にした小説を」という要望が来て、こういう形へと落ち着いたそうだ。「これは正確には日記(抄)である」と断っているのは、本書の原文である60年代に書いた個人的な日記の中から〈時代の表出〉にマッチし、なおかつ特に小林がこだわりたかった部分だけを選りすぐっているため。世に知れるとヤバそうな箇所を全て抜いていったとしても、19591970年分の日記をもれなく収録してたら、とても単行本一冊じゃ足りそうにないもんね。

 

 

小林信彦個人史的で見ると『ヒッチコック・マガジン』の立ち上げに始まり、井原高忠との付き合いを中心としたテレビ・ラジオでのマルチタレント業、そして宝石社の退職、作家を目指すもすぐに結果は出ず、小さな雑文業で食い繋いでゆくうち『喜劇の王様たち』出版の話が来る、といった2637歳の時代。この10年の重大ニュースとして本書にて言及されている中では、最後のほうに出て来る〝三島由紀夫自決〟もショッキングだが、なんといっても注目は〝東京オリンピック〟であろう。あの頃から小林は日本でのオリンピック開催を嫌っており、どうやら今回の令和 Tokyoオリンピックは彼にとって前回以上の憂鬱な日々になりそう。同じくオリンピックの日本開催否定派を貫いてきた久米宏は今何を考えているのか。

 

                     🖋


好きな人間と嫌いな人間に対する意識の差が実に極端、という傾向もある。
「こんな嫌いな奴の事なんて日記に書く必要ないのに」と私なら思ってしまうようなことでも、彼は書かずにはいられないのだろう。とはいえ『ヒッチコック・マガジン』編集長を降ろされる前後の経緯は『夢の砦』に書いたせいか、ここでは省略された。芸能界と小説執筆の舞台裏に関する分量は申し分ないとして、江戸川乱歩及びその周辺についての生々しい情報がもう少し知りたい。日記の原文には書いてあって、本書にする時カットしたのかもしれないが。それとのちに彼が地味ながら食道楽になるのは、この時代にテレビ関係者と会食する機会が増え、シャレた食い物の味を覚えたからに違いない、と私は見ている。

 

 

若くて血の気が多かった頃の信彦氏の一挙手一投足は自然と、もう戦後ではない日本の首都東京で起きていた60'sカルチャーの貴重なレポになっていて、失礼を承知で言わせてもらうならば、もし小林信彦が天命を全うしたなら通常の作家のような ❛小説をメインとした全集❜ ではなしに ❛日記全集❜ で追悼して頂きたい。だって小説もエッセイも評論ものも数が多すぎて、今時そんなボーダイな巻数になる全集なんてどこの出版社も出そうとしないだろ。

でも日記の全集ならば・・・本書のように各10年分を一冊にeditしてみるとか。最大の理解者である賢夫人の奥様に本当は編纂をお願いしたいところだが年齢的に難しそうだし、編集者の仕事をしている娘さんならどうか? 小林本人がまだ健在なのに調子に乗って没後の話をするのもアレだけど、『小林信彦日記全集』が刊行されたらきっと過去に前例のない時代観察資料になる。


 

 

 (銀) 余談をいくつか。本書の初刊である白夜書房版単行本は『小林信彦60年代日記』という書名で発売された。残念ながら、そちらは持っていない。日テレが『ズームイン!! !』を始めるきっかけを作ったのも井原高忠。昔から私は夜型ゆえ朝テレビを見る習慣がなくて、あの番組をじっくり見た事が一度もない。それと本書を読んでビックリするのは、この時代の芸人には字を読めない人がいたということ(視力が弱いという意味ではない)。彼らのステイタスがあまりに低かったのは、こうした貧しい出自と無関係ではあるまい。

 

 

横溝正史の生前に刊行された幾つかの著書に収録されていた日記(抄)が、文庫化の折、すべて削除されてしまい、現在に至っていることは前にも述べたかもしれない。プライベートな記述があって、それを家族が嫌がるのであれば、そういう箇所はdeleteしてかまわないからせめて創作に関して語っている部分だけでも拝読させてほしい、というか一切合切闇に葬るのだけはヤメテクレ。正史の娘が結婚する前にお見合いがポシャっていたとか、少なくともそんな話は私の興味の対象ではないのだから。




2021年5月30日日曜日

『白眼鬼』永瀬三吾

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同光社出版
1958年9月発売



★★★    永瀬三吾も復刊の流れから取りこぼされて




横溝正史と同い年の明治35年生まれでありながら、探偵文壇へ登場したのは敗戦後の昭和22年とデビューは遅かった。戦前は中国大陸で『京津新聞』の社長を勤め、昭和27年から五年間は『宝石』の編集長も引き受ける。これまで著書の数が少なすぎて作風がよく認識されないまま、現在に至っている不運な作家だ。

 

 

「白眼鬼」は執筆時の意図はわからないけれど、結果として本格を狙ったような長篇になった。河南市蔵は終戦後事業が当たって社長にまで登り詰めた成り上がりだが、
昔は故・藤城東一郎が経営していた工場の一職工にすぎない男だった。
事故で主を失くした藤城家に往年の資産は無く、
一家が生活する邸も河南の好意で立ち退かずにすんでいる。
藤城家の人員は(使用人を除くと)東一郎の先妻が産んだ昭太郎(低能児)・春子・夏子・秋子、そして東一郎の後妻で麻薬中毒のかおる子がいる。

 

 

冬の夜、藤城邸に寄ろうとした河南は、門前で車から降りた途端に後頭部を殴打され足も負傷、運転手は現場で加害者の姿を見つけられなかった。河南はそのまま藤城家の世話になるのだが、その後も邸の中で次々と殺人事件が起きる。藤城家の遠縁で財産管理を行う老人/浮世離れした藤城家の中国人・門番/かおる子の実弟/春子の縁談相手である野球選手などが関係して、謎が錯綜するも警察は翻弄されるばかり。この長篇の弱さの原因のひとつは、明確に探偵役と呼べる存在がいない点かもしれない。

 

 

「犯人は誰なのか?」「それぞれの事件は如何にして実行されたのか?」
とにもかくにも、その謎は最後まで引っ張られるけれど、『日本推理小説辞典』で中島河太郎は「犯行方法に工夫をこらしているが、犯行の心情を説き尽くせなかった憾みがある」という風に批評している。

その批評どおりに、最終章で真相が暴露されるまでの犯人の心理・発言の描き方、あるいは殺人トリックのアイディアが物語へ丁寧に消化できていないなァという不満は厳然として残るので、〝埋もれていた本格〟といった評価の声が上がってこなかったのも得心がいく。そのぶん「ミステリ珍本全集」みたいな企画にはピッタリ嵌まる内容ではあるが。

 

 

永瀬三吾はそれなりの量の小説を書いているのに、生前出た著書といったら本書と『売国奴』、そして私は持ってないけど絵文庫とクレジットされた『拳銃の街』、時代物の『鉄火娘参上』、これぐらいしかなく、没後に出たものでは最近捕物出版が出した『三味線鯉登』だけ。論創ミステリ叢書でも完全にスルーされてきた。今回の『白眼鬼』の記事を読んだ人には、あまり私が褒めているように思えないだろうけれども、長い間、短篇が時々アンソロジーに採られるだけの人だったから、多少なりとも状況が改善される事を強く求む。



 

 

(銀) 『三味線鯉登』に次いで、捕物出版=大陸書館は遠からぬうちに新刊本で『売国奴』を出すと云っている。収録予定作品は大陸小説集として「売国奴」「長城に殺される」「発狂者」「人間丸太部隊」「あざらし親子」、そして京城新聞時代の逸話だそう。

 

 

コロナが世界中に蔓延して二年目。日本探偵小説の新刊リリースは同人出版も含めてすっかり停滞。海外ものは原書さえ買っちゃえば、あとは訳者が翻訳するだけだからなのかもしれないが、海外ミステリ新刊は普通に出続けている。日本探偵小説の新刊が出なくなったのは図書館がクローズされてしまい文献のコピーをとれなくなっているからだと思っていた。だが捕物出版=大陸書館はそれに挫ける事もなく新刊を予定どおり発売できている。この違いってプリント・オン・デマンドゆえ、かかる手間が単に少ないからだろうか? それだけが理由とは考えられない。

 

 

論創ミステリ叢書を見ると新刊のリリースは2020年に三冊、今年は6月になろうとしているのに一冊出ただけで、前から予告されていた巻は全てストップしている。編集作業以外の工程まで滞っているのかと思いきや、論創ミステリ叢書ではない他の新刊本ならば、論創社はジャンジャカ発売しているではないか。

近頃の論創社 twitterはノンフィクション担当者(【論ノ】と名乗っている)の発言がアホ丸出しで、元は皓星社に居た人間らしい。以前の皓星社は、無能な野党政治家とそっくりの発信ばかりしている印象が強かったけれども、諸悪の根源がいなくなったと思ったら、今度は論創社に転職して以前と同じ戯言を呟いていたとはな。こんな人間を採用して、論創ミステリ叢書そっちのけにしてまで門田隆将をこき下ろすしょーもない本に力入れてるようじゃ、この会社もいよいよ末期症状か。




2021年5月26日水曜日

『「新青年」趣味ⅩⅪ/特集木々高太郎』『新青年』研究会

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『新青年』趣味 編集委員会
2021年5月発売



★★★★    特集すれども新刊は無く




▼ 意外にも『「新青年」趣味』でさえ、木々高太郎を大きく扱った号はこれまで無かったし、そもそも探偵作家としての木々をメインに取り上げた文献自体が殆ど存在しなかったから、待望の一冊ではある。しかし本誌冒頭からいきなり樽本真応によるふたつの論述にて、
「林久策について ― 一九二二年の文筆活動」
「木々高太郎〈探偵小説芸術論〉の生成  林髞・甲賀三郎・横光利一との係わりから」
つまり象徴主義の詩だとかドイツ表現主義詩とか生理学認識論といった探偵小説フリークが興味を持ちそうにない、というよりむしろ煙たがりそうなテーマに踏み込んだ内容が展開されているので、昔からある木々への偏見を果してここで取り除くことができるのかどうか、私は少々気になった。

 

 

詩は木々のファクターの一部ではあるけれど『「新青年」趣味』を読むような人は、木々のシリーズ・キャラクター達(大心池先生/志賀博士/小山田博士)を深く掘り下げたり、小酒井不木とは全く異なる次世代医学ミステリの解析だったり、そういったものを望んでいたのではないだろうか。この作家に関心が無いと言う(346頁)芦辺拓なんかどうでもいいが、ただでさえ木々は戦前探偵作家の中でも人気が無いのだから、シンプルに彼の探偵小説のリーダビリティだけをクローズアップすべきだったと思う。


 

 

▼ 作品リストが出来上がったのは有難いけれども、探偵小説以外の執筆量があまりに多くて、その分必要な情報が拾いにくいし、フォーマット的にも大下宇陀児・甲賀三郎の時の作品リストより見にくくなってしまった。私個人は作品リストも嬉しいけれど、木々の著書目録が是非とも欲しい。

シビアな事を言うなら、2000年以降に出た木々単独の新刊は『木々高太郎探偵小説選』と『三面鏡の恐怖』、たったこの二冊だけしかない。他の作家は同人出版でも本が出ているのに木々にはそれさえも無い。「詩なんて別に知らなくていい」と多くの人が思っているに違いないし、木々の探偵小説にだってエンターテイメント性はちゃんとあるんだから、本誌を読んだ人に「この人の探偵小説をもっと読みたい」と喚起させるような内容に徹底してもらいたかった。木々を特集するということは斯様に厄介なものなのか。


 

とはいえ、湯浅篤志「ハウスネームとしての〈森下雨村〉」をはじめ、ちくま文庫『「新青年」名作コレクション』制作舞台裏、「渡辺啓助追跡(7)」なんかは非常に楽しめた。啓助に限らず探偵作家の日記ってどうしてこんなに面白いんだろう?あと変なオタク画家に描かせたらアニメ風巨乳にされそうな本誌表紙画の木々作品「月蝕」ワンシーンの女の裸だが、西山彰の手になるビミョーな垂れ乳具合が小説の書かれた時代を正しく捉えており、目立たないけど良い仕事している。



 

 

(銀) もう創元推理文庫は日下三蔵がプレゼンした木々選集を出す気は全然無さそうだから、ここはひとつ横井司の力で、どこか他の版元から木々の新刊を出してくれたら嬉しい。あ、論創社みたいにちゃんと校正ができない出版社は NG ね。

 

 

この数年ずっと感じているのだけど、『新青年』研究会の顔ぶれに大学人が増えたせいか、論文のような文章には閉口する。学内で研究を発表する場ならそれでいいかもしれないけれど、『「新青年」趣味』だったり探偵小説の評論書に論文調のままの書き方をするのはちょっと違うと思う。

仮にそれが大学人であろうとなかろうと、読んでいて面白いなと思わせる人の文章は〝誰々が述べているように〟などと、他人の引用ばかりしているような書き方はしていないし、変に横文字を乱用したり堅苦しい文体でもない。村上裕徳ほどくだけた書き方をしなくてもいいけど、内容もさながら人に読ませる文章というものをよく考えて寄稿してもらいたいものだ。



かつては若かった会員の方々もずいぶん年輪を重ね、昔は会員だった有能な人達がいなくなってしまったから、『新青年』研究会も若い世代の人材を見つけたほうがいいに決まっている。でも最近会員になる人が大学人ばかりに思えるのは私の気のせいだろうか。大学人以外だと会員に誘われないのかな?その一方で、なぜ芦辺拓や黒田明を会員にしたのか私にはさっぱりわからん。いたずらに数ばかり増やすより、質で選んで下さいな。



 


2021年5月22日土曜日

『孔雀の羽根』カーター・ディクスン/厚木淳(訳)

NEW !

創元推理文庫
1980年12月発売



★★★★  他の作家ならともかく、カーゆえに厳しめの評価



例えば今、雑居ビルの1Fの室内にひとりの元高校球児がいます。雑居ビルの目の前には小学校のプールの横幅より少し短い位の道路が通っています。そこでTVのリモコンを彼に投げてもらい、雑居ビルの道路の真向かいに立っているコンビニ(駐車スペースは無し)の入口ガラス上半分の範囲に限定して、命中させてもらう実験をやってもらいましょう。たった一度限りのチャンスで見事に命中できるとあなたは思いますか?それとも「野球のボールならともかく、リモコンじゃ無理だろ」と思いますか?謎の核心のうち真犯人などには触れておりませんが、『孔雀の羽根』のストーリーを御存知無い方は本日の記事は読まないほうが無難かもしれません。

二年前「ロンドンのある番地に十組のティー・カップが出現するから監視せよ」という意味不明な警告が警察に送られてきた。その手紙に書かれていた空家でダートリーという男性が被弾して死亡、ハンフリー・マスターズ警部はその事件を解決する事ができなかった。再び、同じような文言の手紙が警察に届く。指定されたその日、マスターズ警部は問題の家の周りに人員配置していたが、不審者の誰ひとり出入りの無い状況下、ダートリーと同じように室内でヴァンス・キーティング青年もまた被弾して命を落としたのであった。

 

 

自殺であるならば死者による二発目の銃弾発射はありえないような死に方なのに、なぜか二発目の弾痕が残っているところから不可能犯罪の疑惑が強まる。ただ一発目のからくりは納得できるとしても、二発目におけるカーの創意は如何なものだろう?〝保護色の目眩まし〟〝物の移動〟といったトリックは実に面白いけれど、実際にバレるかバレないかといったら、張り込み中の警察もしくは通行人の誰かにどうやっても〝保護色〟の点はバレるだろうし、一方〝物の移動〟にしたって「そりゃ無理だわ」・・・と私は本書を読みながら思ってしまった。

せめてドイルの「ソア橋」みたいに紐みたいな物がないとこのやり方では確実に遂行できそうにない。終盤に至って家具のトリックがよかっただけに、あと少しリアリティをどうにかしてほしかった。

 

 

それだけの齟齬ならまだ★5つにしてもよかったけれど、タイトルにもなっている〝孔雀の羽根〟の意味はあって無いようなものだし、なによりも十組のティー・カップ=秘密結社の暗躍の気配を振り撒いといて、これまた揺るぎない必然性が無いのが物足りない。

私はカー作品に対し常にオカルトとロマンスが必須だとは思っていないから、このふたつの要素が本作になくてもそんなに問題ではない。印象としては、H・Mの傍若無人さで笑わせる演出を控えめにしているぶん、苦戦するマスターズ警部のしんどさが物語全体の起伏を幾分か固いものにしている気がする。警部の部下であるポラード刑事にもっと活躍の場を与えてやってもよかったのではないか。

物語の起伏の固さというのは中盤の動きの無さから来ているのだけれども、その辺の問題は良い翻訳者の新訳でリニューアルされれば、もしかしたらすごく改善される可能性だってありうる。そんな再発を期待してこの旧訳版は満点ではなく★4つに留めたものの、実質的には評価の低い★5つのカー作品とほとんど差は無い。


 

 

(銀) 会話の中で『赤後家の殺人』事件に言及されているので、現実の執筆順に沿い、作中の時間軸の中でもこれはマントリング家事件後の話と見て間違いない。本作は1937年発表。翌年には『ユダの窓』が書かれるのだから、時期的に不調な訳では決してない。H・Mの謎解きにて〝32個〟にも及ぶ手掛かりを(伏線が張られていたのがどのページだったか)わざわざ並べて示しているのも、カーのテンションが高い証拠。

とはいえ毎回大傑作が生まれるとは限らず、翌1938年に文句なしのマスターピース『曲がった蝶番』があるかと思えば、あまり評価できぬ『死者はよみがえる』があったりもする。