2021年5月30日日曜日

『白眼鬼』永瀬三吾

NEW !

同光社出版
1958年9月発売



★★★    永瀬三吾も復刊の流れから取りこぼされて




横溝正史と同い年の明治35年生まれでありながら、探偵文壇へ登場したのは敗戦後の昭和22年とデビューは遅かった。戦前は中国大陸で『京津新聞』の社長を勤め、昭和27年から五年間は『宝石』の編集長も引き受ける。これまで著書の数が少なすぎて作風がよく認識されないまま、現在に至っている不運な作家だ。

 

 

「白眼鬼」は執筆時の意図はわからないけれど、結果として本格を狙ったような長篇になった。河南市蔵は終戦後事業が当たって社長にまで登り詰めた成り上がりだが、
昔は故・藤城東一郎が経営していた工場の一職工にすぎない男だった。
事故で主を失くした藤城家に往年の資産は無く、
一家が生活する邸も河南の好意で立ち退かずにすんでいる。
藤城家の人員は(使用人を除くと)東一郎の先妻が産んだ昭太郎(低能児)・春子・夏子・秋子、そして東一郎の後妻で麻薬中毒のかおる子がいる。

 

 

冬の夜、藤城邸に寄ろうとした河南は、門前で車から降りた途端に後頭部を殴打され足も負傷、運転手は現場で加害者の姿を見つけられなかった。河南はそのまま藤城家の世話になるのだが、その後も邸の中で次々と殺人事件が起きる。藤城家の遠縁で財産管理を行う老人/浮世離れした藤城家の中国人・門番/かおる子の実弟/春子の縁談相手である野球選手などが関係して、謎が錯綜するも警察は翻弄されるばかり。この長篇の弱さの原因のひとつは、明確に探偵役と呼べる存在がいない点かもしれない。

 

 

「犯人は誰なのか?」「それぞれの事件は如何にして実行されたのか?」
とにもかくにも、その謎は最後まで引っ張られるけれど、『日本推理小説辞典』で中島河太郎は「犯行方法に工夫をこらしているが、犯行の心情を説き尽くせなかった憾みがある」という風に批評している。

その批評どおりに、最終章で真相が暴露されるまでの犯人の心理・発言の描き方、あるいは殺人トリックのアイディアが物語へ丁寧に消化できていないなァという不満は厳然として残るので、〝埋もれていた本格〟といった評価の声が上がってこなかったのも得心がいく。そのぶん「ミステリ珍本全集」みたいな企画にはピッタリ嵌まる内容ではあるが。

 

 

永瀬三吾はそれなりの量の小説を書いているのに、生前出た著書といったら本書と『売国奴』、そして私は持ってないけど絵文庫とクレジットされた『拳銃の街』、時代物の『鉄火娘参上』、これぐらいしかなく、没後に出たものでは最近捕物出版が出した『三味線鯉登』だけ。論創ミステリ叢書でも完全にスルーされてきた。今回の『白眼鬼』の記事を読んだ人には、あまり私が褒めているように思えないだろうけれども、長い間、短篇が時々アンソロジーに採られるだけの人だったから、多少なりとも状況が改善される事を強く求む。



 

 

(銀) 『三味線鯉登』に次いで、捕物出版=大陸書館は遠からぬうちに新刊本で『売国奴』を出すと云っている。収録予定作品は大陸小説集として「売国奴」「長城に殺される」「発狂者」「人間丸太部隊」「あざらし親子」、そして京城新聞時代の逸話だそう。

 

 

コロナが世界中に蔓延して二年目。日本探偵小説の新刊リリースは同人出版も含めてすっかり停滞。海外ものは原書さえ買っちゃえば、あとは訳者が翻訳するだけだからなのかもしれないが、海外ミステリ新刊は普通に出続けている。日本探偵小説の新刊が出なくなったのは図書館がクローズされてしまい文献のコピーをとれなくなっているからだと思っていた。だが捕物出版=大陸書館はそれに挫ける事もなく新刊を予定どおり発売できている。この違いってプリント・オン・デマンドゆえ、かかる手間が単に少ないからだろうか? それだけが理由とは考えられない。

 

 

論創ミステリ叢書を見ると新刊のリリースは2020年に三冊、今年は6月になろうとしているのに一冊出ただけで、前から予告されていた巻は全てストップしている。編集作業以外の工程まで滞っているのかと思いきや、論創ミステリ叢書ではない他の新刊本ならば、論創社はジャンジャカ発売しているではないか。

近頃の論創社 twitterはノンフィクション担当者(【論ノ】と名乗っている)の発言がアホ丸出しで、元は皓星社に居た人間らしい。以前の皓星社は、無能な野党政治家とそっくりの発信ばかりしている印象が強かったけれども、諸悪の根源がいなくなったと思ったら、今度は論創社に転職して以前と同じ戯言を呟いていたとはな。こんな人間を採用して、論創ミステリ叢書そっちのけにしてまで門田隆将をこき下ろすしょーもない本に力入れてるようじゃ、この会社もいよいよ末期症状か。