▼ 「南海の太陽児」
▼ 「南海囚人塔」
▼ 「黒薔薇荘の秘密」(昭和24年) ▼ 「謎の五十銭銀貨」(昭和25年)
▼ 「南海の太陽児」
▼ 「南海囚人塔」
▼ 「黒薔薇荘の秘密」(昭和24年) ▼ 「謎の五十銭銀貨」(昭和25年)
本書を読みながら、うなずいた箇所 ⤵ 。
探偵小説がらみの話もしておこうか。戦時下に新聞連載され、長い間埋もれていたが近年書籍化された小栗虫太郎「亜細亜の旗」と横溝正史「雪割草」については、当Blog 2021年4月の記事にて詳しく特集した。この二作が一番最初に掲載された地方紙は今のところ『京都日日新聞』と見られており、「雪割草」が昭和15年6月11日~12月31日まで連載して完結。次いで「美しき暁」(=「亜細亜の旗」)が昭和16年1月1日よりスタートし、全245回分あるところを同年6月30日179回をもって打ち切られている。
上記にて述べた一県一紙新聞統合が完成した年月を一覧表にしたものが本書230頁~231頁に載っていて、京都府を見てみると昭和17年4月に『京都新聞』一紙化が完了している。どこの都道府県でも地方紙同士でどう統合するか、ああだこうだと揉めるのは当り前で、古野伊之助が統合交渉に出向いた県の逸話が載っているが、京都のぶんは無かった・・・残念。京都の場合だと、昭和10年以降では府内久しぶりの統合で、『京都日日新聞』と『京都日出新聞』がくっ付いて『京都新聞』になった訳だが、「美しき暁」(=「亜細亜の旗」)の連載を途中で打ち切らねばならないほど混乱していたのだろうか? それとも作者・虫太郎の都合?
それからまた、「雪割草」の書籍化底本に使用された地方紙は、現在同作の掲載が判明している新聞の中で最も連載開始が遅かった『新潟毎日新聞』。この新聞は昭和16年8月にそれまで敵対していた『新潟新聞』と合併して『新潟日日新聞』へ改称。翌17年11月には『新潟県中央新聞』『上越新聞』とも合併させられて、ようやく本書231頁に載っている『新潟日報』の形へと辿り着く。あ~、めんどくさ。
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(銀) 他に電通の悪口とかも書きたかったし、『名張人外境ブログ2.0』で江戸川乱歩からの書簡を受け取っていると紹介されていた城戸元亮のことも書きたかったのだが、ダラダラ長くなりそうなので、その辺はバッサリcutした。いつもの探偵小説関連本と勝手が違い、どういう切り口で本書について書くべきか、すぐにピシッと頭の中が整理できず、この記事は書き終えるまでに少々手古摺ってしまった。
❆ 盛林堂の宮野村子も巻数を重ね、さすがにクオリティが落ちていくのかなと思われたが、『無邪気な殺人鬼』『童女裸像』といったこれまでの三冊の中では一番良かったかもしれない。前二冊以上にバラエティ感に富み、探偵小説にうるさくないフツーの読者にも読み易くて、同人出版としては商品性高いんじゃないの?
❆ それでは今回も一作ずつチャッチャッと紹介していこう。まずは江戸川乱歩「心理試験」の前半部分をアダプトしたような「罠」。殺人をやり遂げた後の発覚部分はあっさり短め、宮野村子にしては感情移入を控え〝お仕事〟モードに入って書いたような一篇。
「黒眼鏡の貞女」は主人公の設定がユニークで、按摩さんのような〝めくら〟に近い視力しか目が見えない女の薄幸を書くのかと思ったら、彼女は執念深い仕返しを企んでいた。「罠」同様に雑誌発表時のページ数が限られていたからなのか、エンディングが慌ただしいのがちょっと。「怪奇探偵 運命の足音」は現代の商業出版なら腰が引けて収録を絶対見合わせるだろう。ポリコレ・クレーマーはこのタイトルに〝怪奇〟という単語が付いているだけで「けしからん!」とカッカするんだろうな。汚れなき愛情が描かれているのに。
主人公の〝あたし〟は姉・波奈子と共に喫茶店を経営しており、彼女達は弟代わりになりそうな可愛らしい少年給仕の章二を雇っている。ある日、仮面のように表情の無い顔をした奇妙な人物が店にやってきた。その男は「紫夫人」の怖ろしき使者だったのだ。これは〝人攫い〟というものがありがちだった昭和前半の香りが漂うスリラー。
妾の息子として生まれ育った伸夫少年。隣人の三千代は夫の不貞と冷たさに、鉛を飲むような毎日を送っている。そんな三千代は伸夫に自分の息苦しさを打ち明ける。「恐ろしき弱さ」というこの作品のタイトルはちょいと安直だったかも。
「幽霊の接吻」は幽霊話なのか、イタズラなのか、微妙なオチをつけたハート・ウォーミングな読み物。「二つの遺書」はシリーズ・キャラクターである広岡巡査はじめ警察の面々が温かさを見せるその分だけ交番に捨てられた幼児ミエ子の救われなさが余計に際立ってくる。いや探偵小説的な見所はそこじゃなくて轢死トリックなんだけどね。最後の「あやかしの花」にも兇器隠蔽トリックが使われているが、この兇器は警察が現場を捜査に来たら、いくらなんでも見落としはしないだろ?と、ピュアな私は突っ込んでしまうのだった。
『新青年』に対し以前のような頻度で積極的に書いてくれなくなった江戸川乱歩をなんとか引っ張り出すために編集部サイドは〝複数作家による連作リレー小説〟を企画。「一回目だけなら、まさかイヤとは言うまい」とほくそ笑む森下雨村は乱歩の逃げ道を塞ぎ、トップバッターとして書かせる奇襲戦法に出た。本書には大正15年の「五階の窓」と昭和5年の「江川蘭子」、この二中篇が収録されている。乱歩が亡くなってからは誰もが忖度無く感想を述べているように、内容に統一感が無いため、どうにも褒められぬ作品ではあるのだが、そこをできるだけマジメに考察してみようというのが新春一発目のテーマだ。
❈「江川蘭子」
江戸川乱歩 → 横溝正史 → 甲賀三郎 → 大下宇陀児 → 夢野久作 → 森下雨村
連作にまで自分の筆名を主人公の名に織り込む暴挙からして、乱歩の〝我が世の春〟たる強気な姿勢(それとも、単なる天然か?)が伝わってくる。「陰獣」の時に森下雨村は「乱歩君もたいした自信だねえ」と横溝正史に漏らしたそうだが、「江川蘭子」というタイトルを見て、果して雨村はどう思ったことやら。
甲賀三郎の回で発生する黄死病なんて唐突過ぎてストーリーのプラスにちっともなってないし、また夢野久作の回で、本来常に傍若無人であらねばならない蘭子がブルブル怯えて動揺するようではこの連作は死んだも同然。二番手の横溝正史が枝葉の少ない展開に整理した上で次にバトンタッチしていれば・・・。
以前の記事で、江川蘭子みたいに悪の因子を持たされた子供の成長を大下宇陀児が自作「魔人」で描いている例に注目してみた。でもよくよく考えてみたら、江戸川乱歩だって後年同じような素材を使って長篇を書いているではないか。「大暗室」だ。幼少期の大曾根龍次には、小さい頃の江川蘭子を凌ぐ冷酷さが備わっていた。そういえば魔術師奥村源造や怪人二十面相の遠藤平吉同様に、蘭子も曲馬団で軽業師としてのワザを磨いている。これじゃまるで、曲馬団は悪人養成学校だ。
「江川蘭子」と「大暗室」の間には「黒蜥蜴」という女賊ものがあり、初期の乱歩短篇「お勢登場」のヒロインお勢は黒蜥蜴=緑川夫人のプロトタイプだと云う人もいる。江川蘭子の場合は同じ名前のキャラが「人間豹」に引き継がれて出てくるが、人間の心が1ミリも無い悪魔の申し子として世に送り出されたのは大曾根龍次のほうだった(2020年6月27日当Blog記事を見よ)。その意味では「江川蘭子」で書き切れなかった復讐戦を、乱歩は「大暗室」にて無事やり遂げたとも言える。
❈「五階の窓」
江戸川乱歩 → 平林初之輔 → 森下雨村 → 甲賀三郎 → 国枝史郎 → 小酒井不木
本書では後半に収録されているが、『新青年』発表はこちらのほうが先。モダーンな帝都のビルディング街、迫りくる不況による企業の人員カットという当時の風潮を取り入れつつ、電気商会のビルからセクハラ社長の転落死が発見され、その謎を警察そして新聞記者 + 探偵小説家が追うストーリー。
「江川蘭子」と違って各回の仕上がりにデコボコ感は無く、その点はまだマシ。一応犯人探しと動機の推理がテーマになってはいるが、日本の探偵小説がまだ中~長篇ぐらいの長さの本格物に対応しきれてない。「江川蘭子」執筆メンバーの中でバランスを崩しそうなのは夢野久作だったし「五階の窓」だと乱歩嫌いの国枝史郎がそうなりそうなところだが、意外と流れに溶け込んでいる。国枝の次のラスト担当が大好きな(?)小酒井不木だったのも幸いした。本作のビル転落死ネタを、アリバイ工作を強化して後年自分用に使ったのは横溝正史。作品名は言わずともお分かりだろう。
「江川蘭子」も「五階の窓」も、竹中英太郎の挿絵で彩られたこの博文館版(口絵が八枚もあり『新青年』発表時の挿絵とは別物)で読むからその奇書ぶりが味わえるのであって、フツーの読者には勧めにくい。実際この二作は90年代に春陽堂より文庫化されているが、『江川蘭子』では〝黒ん坊〟〝氣違ひ〟〝あひの子〟といったワードが言葉狩りされるといった春陽堂安定のテキスト改悪作業があちこちに施されて、相も変わらずせっかくの再発が台無し。本日の記事の満点進呈は英太郎の仕事に対してであって、決して作品には非ず。
【ストーリー】
金持ちで手広い慈善家として知られるジェームス・ランドルフ翁。本編の主人公、素人探偵でもあり画家のフィリップ・トレントはある用事でランドルフ翁と接見したばかりだった。普段から召使いを殆ど置かず邸内には他に誰もいないという状況で、ランドルフ翁がニューベリー・プレイスの邸の室内にて背後からピストルで撃たれ即死しているのを外出から帰ってきた従僕のロオトが発見する。
遺体周辺には剃刀の刃などおかしな形跡はあるものの、物取りの犯行には見えない。ロオトには前科があり只の忠実な従僕とは思えないし、また老主人には女性関係で怪しむべき点も無くはない。秘書のヴァーニーによればランドルフ翁には親類がおらず、一人息子がいたのだが十六歳の時に家出したっきり行方不明、遺書も残していないというのだ。事件現場に荷札が落ちていた事からトレントの旧友ブライアン・フェアマンに強力な容疑がかけられるが、事件が明るみになる直前トレントは一瞬だがブライアンと偶然にもヴィクトリア駅で出くわしていた。ブライアンは海を隔てたフランスのディエップへ渡り謎の行動を取るも、投身自殺を図って警察に連行。トレントは友の濡れ衣を晴らすべく調査を始めた。
【原 作】
いまだ戦前に出た古色蒼然たる春秋社版しか日本語訳が存在していない本作だが、そこまでダメ出しされるほどつまらない凡作でもない。「トレント最後の事件」を持ち上げて、こちらをすごく悪しざまに扱っているミステリ・オタがいるって聞くけど、そうかな?実際に読んでないか、あるいは年取って頭ボケてるだけでは?なにかしらのオリジナリティーで歴史に名を残す逸品ではないが、人並みの読解力さえあればストーリー的にはスラスラ読める。悪くはない。
ジェームス・ランドルフ翁は発泡酒を嗜まない人なのに、ヴィンテージ・シャンパンのコルクが遺体のポケットから出てきたので、その意味を知るためにトレントは酒商を訪れてワイン問答を交わす。私は葡萄の酒が好きなもんで、この第十三章のやりとりがなんとも楽しい。トレントの妻であるあの人や子供が出てくるシーンについては、ん~、どうかな。探偵が家庭の内情を見せ過ぎるのはあんまり好まないけど。
【翻 訳】
春秋社版の致命的欠陥はどうしても訳。露下弴というのは悪名高き戦前の翻訳家・伴大矩のペンネームのひとつと云われている。伴大矩と同一人物であろうとなかろうと、私のようなトーシロにでさえ他の人間に訳の下請けをさせてるのが読んでバレバレ。本書の中でいつもフィリップ・トレントは自分の事を〝僕〟と呼んでいるのに、ある章では突然たいした意味もなく〝わし〟と言い続けるので気持ちが萎える。
これも近頃私が再三怒っている杜撰なテキスト入力の新刊本と同じで、仮に第三者に部分部分をアウトソーシングしていたとしても、一通り訳し終わったあと責任者(=露下弴)がゆっくり目を通し、全体に齟齬が無いようチェックして、ミスを見つけたら手直しさえすればいいだけの話なのだ。それを面倒臭がっているのか読者をなめてるのか知らんが、こんな仕事をしているものだから、その本は末代までの恥になりにけり。
【総 評】
「トレント自身の事件」はE・C・ベントリーとH・ワーナー・アレンの共作なのに、この春秋社版にはH・ワーナー・アレンのクレジットは無い。訳者の仕事はとても褒められたものではないが原作自体には好感が持てるし、なんといっても本書の装幀者は吉田貫三郎だから、なんだかんだの大甘評価で☆3つ。しかし450ページ近くもあるせいか、この本は束(つか)がたっぷりあるな~。どういう理由でどこの版元も「トレント自身の事件」の新訳を出そうとしないのだろう?
(銀) この作者はE・C・ベントリーと書くのが通常であるが、春秋社版では〝E・C・ベントレイ〟と表記されているので、記事のトップの書名欄だけ〝ベントレイ〟とし、各記事の一番下、そして当Blogの右側に並んでいるラベル(タグのこと)欄では〝ベントリー〟と記した。
江戸川乱歩/横溝正史/夢野久作以外で、一般的にはそれほど存在を知られていない日本探偵作家の単独著書が新刊として発売されるようになったのは、記事の中で度々語ってきたとおり、90年代に刊行された国書刊行会《探偵クラブ》シリーズ全15巻のおかげである。その後を引き継ぐように2003年スタートした論創社の《論創ミステリ叢書》はコンスタントに巻数を重ねてゆき、ありえないようなマイナー作家でさえも、書店のミステリ・コーナーに並ぶようになった。そうなると他の出版社もほっとかない筈がなく、真似をしてニッチな企画を通すようになり、一方では同人出版で本を作る人も現れてきたり、今世紀に入ってからというもの日本探偵小説に関する新刊書籍は毎年右肩上がりの実り多き状況が続いてきた。
だが物事にはすべからく衰退の時が訪れる。二十年も上向きの好況が続いてきたのだから、探偵小説の再発にもそろそろ冬の時代がやってくるのかもしれない。
《論創ミステリ叢書》も100巻を超え、横井司が叢書監修の立場を外れてからクオリティの低下を感じていたが、姉妹企画である《論創ミステリ・ライブラリ》の方針にも疑問はつのるばかりで、論創社にはすっかり信用が置けなくなっていた。その直後(2020年)コロナウィルスの急速なる蔓延で社会生活の在り様も一変、本の制作に携わる人達/出版社/印刷・製本業者もろとも少なからぬ煽りを受け、業務に支障を来したに違いない。何にせよ日本探偵小説の新刊数がガックリ減少したように感じられる大きな要因には、論創社が急に日本探偵小説の本を出さなくなった事が挙げられる。
日本探偵小説関連の書籍こそリリースしなくなったものの、論創社はミステリ以外のジャンルの本や《論創海外ミステリ》については何の滞りも無く刊行を続けている。論創社編集部の黒田明は『Critica』Vol.16の中で、日本探偵小説関連書籍が出ない理由として「図書館などの、文献を所蔵している施設の利用がコロナによって非常に制限されるようになったため」と述べていた。でも『西田政治探偵小説選』『乾信一郎探偵小説選』なんてパンデミックが起こる何年も前から「出す出す」って twitterで言ってたよな?コロナや図書館のせいにしているけれども、それならこれまで放言していた刊行予定書籍はどれも底本が全然揃っていなかったのかい?
肝心な業務に関わる面々がコロナに罹ってしまったのいうのならば同情もしよう。しかしいくら日本探偵小説の書籍制作だと(海外の翻訳物と違って)底本となる文献もしくはそのコピーを各種入手する必要があるとはいえ、図書館の利用制限ばかりが新刊を出せない理由にはならない。だって盛林堂書房も捕物出版(=大陸書館)も、彼らは商業出版社じゃないけれど、事前に「こういうのを出したい」と拡散してきたものは着実にリリースしている。彼らと違って論創社は刊行の目処も立ってないのに早々と「あれ出しますこれ出します」と煽り、結局入手できない文献があったりするもんだから、その都度行き詰っているのではないか?こういうのを〝無計画〟と呼ぶ。そんなんじゃローン組もうにも銀行は金貸してくれないぞ。
論創社みたいな無計画っぷりも問題だけど、私が買うような探偵小説本の制作者に限って、テキストを正確に入力できてなかったり、その上 校正という作業をなおざりにしているのは一体どういうつもりなのか?
1. いくらテキスト入力にミスをやらかそうとも、買い手が何も言わぬおめでたい読者ばかりだから。読んでも間違いがある事すら気付けない、いやそれ以前に買って積んだまま少しも読んでいない人ばかりだから。
2. 作り手側は雑誌『幻影城』のリアルタイム世代が多く、衰えも著しい中高年になってしまって、視力・集中力・思考力、そのいずれも低下してボケているから。
こんなカンジだからかねえ(これでも随分言葉を選んで発言している)。
この二十年で再発すべきネタはだいぶ汲み取られたとはいえ、井戸が完全に涸れた訳じゃない。だが探偵小説のギョーカイは制作者側の高齢化が止まらず、人材難は解消せず、日本探偵小説の復刊本のリリースについては、2020年代もこれまでの二十年のように順調に進むなんて楽観視はしないほうがいいだろう。好況期はもう過ぎ去ってしまっているのだから。高齢化なのはユーザー側も一緒で、初版本書痴の老人が認知症になってしまい、今まで集めてきた古書をズタズタにしてしまったなんていう噂話も聞く。可哀そうにね。いや、人じゃなくて本が。
(銀) 読む価値のある新刊が出ないと寂しくはあるが、Blogのネタとしてはいいかげんな本を出されてその都度苦言を呈するよりは、古い本について書いているほうが精神的に良いのかも。本をライブラリーから出してきて頁をペラペラ捲り、以前読んだ内容を思い出す作業は面倒だけどさ。なにせ私の理解の外にある事が多すぎる探偵小説の世界。このBlogを書き続ける興味が失せる危うさのほうがネックだったりして。
上記に述べたような状態が続いているにもかかわらず、論創社は2022年に「論創ミステリ大賞」と冠した書下ろし長篇ミステリ小説を募集する企画をおっ始め、忙しい横井司を選考委員長にすると言っている。筋違いな愚かさもここに極まれり。
本書は〈大陸作品集〉と副題を付け、日本が中国大陸に侵攻していた時代を描く内容の小説をセレクトしており、戦争の色は濃い。「売国奴」は昭和天皇を奪取擁立して紫禁城に移らせる計画だとか、三種の神器のひとつマガタマ(=八尺瓊勾玉)が盗み出されて取引されたりとか、それだけ聞けば壮大なイメージを持つかもしれないけれど、戦時中に永瀬が見聞した日本軍の国策光景を、戦後になってシニカルな目で振り返りつつ書いたんだろうな、という気配が漂っている。夢野久作「氷の涯」の上村作次郎/ニーナと、本作における里宮良介/チェリー、それぞれの行末の違いに思いを巡らせるのも一興なり。
✭ 本書収録作はみな初出誌を底本にしているが、「売国奴」だけは昭和36年に東都書房から出された日本推理小説大系(本書は〝体系〟と表記しているが、違うぞ)第九巻『昭和後期集』のテキストを使っているようだ。これがまた春陽堂の探偵双書とは微妙にテキストに違いがあって気にかかるし、それぞれの「売国奴」オープニング部分だけでも御覧頂こうか。下段における本書テキストに含まれている赤文字は、探偵双書には存在していない語句だ。