2022年1月14日金曜日

『南海囚人塔』横溝正史

NEW !

柏書房 横溝正史少年小説コレクション⑦ 日下三蔵(編)
2021年12月発売



★★★★   玉井徳太郎、魅惑の挿絵(「南海の太陽児」)



横溝正史少年小説コレクションの最終巻が出た。
この巻には短篇のひとつに等々力警部が顔を見せるだけで、
リーズ・キャラクターは一切出てこない。逆にそれゆえの楽しみ方もあるのだ。

 
 
 

   「南海の太陽児」

太平洋戦争直前に発表された秘境探検小説。熊谷書房の初刊(昭和17年)が出たっきり、
単行本は一度だけ『少年小説大系 第18巻 少年SF傑作集』(平成4年)に編入されるも、その版元・三一書房が何かと語句改変をやらかしてしまうブラック出版社であったため、信用できぬテキストに変えられてしまっていた。それもあって今回は価値ある再発。



正史は「幽霊鉄仮面」(昭和12年)の後半でも、敵を追って蒙古の奥地に向かう展開にしていたけれど、本作が連載されていた頃の日本はもはや犯罪を描写する探偵小説など許される状況にはなく、主人公が自分のルーツを求めて南方へと旅立つ全編冒険調の長篇にせざるをえなかった。HR・ハガード作品を引用しているのだが、かの人外魔境の地の果てに倭寇の子孫が築き上げた〝やまと王国〟なる別世界が存在し、その住民及び文明はなんと旧世紀の日本そっくりだったという設定がキッチュでヘンテコ。横田順彌は非常に面白がっていたっけ。

 

 

いつもの事ながら、横溝正史の筆に読みにくいところは無い。
ただ、タイトルにもなっているぐらいだから〝南海の太陽児〟こと東海林龍太郎は主人公としてバリバリ動き回るべきなんだが、マラリアになって寝込んだり何かと影が薄く、クライマックスの攻防でも活躍の場は少ない。むしろ前線に出て常に物語を牽引しているのは降矢木大佐と寺木中尉のほう。それに当時の日本は石油不足問題を抱えていたせいか、寺木中尉が〝燃える水〟を探すくだりにはじっくり頁が割かれているのに対し、日姫軍の逆襲で盛り上がるべき「ヒアテの裏切」からThe Endまでの肝心な終局があっさり終わってしまうのにはやや不満が残る。

 

 

それでも私は初出誌を飾っていた玉井徳太郎の挿絵が本書に収録されて大変嬉しい。
横溝正史少年小説コレクション①~⑥に入っていた他の挿絵とは存在感がまるで異なり、
彼の挿絵はことさらコッテリしてバタ臭い。
渡辺啓助「沙漠の白鳥」江戸川乱歩「偉大なる夢」小栗虫太郎「地軸二万哩」木村荘十「印度は叫ぶ」等、彼の長いキャリアの中では昭和10年代の仕事が最も強烈に印象深い。探偵小説に提供された挿絵を纏めた画集が欲しい画家の一人だ。

 
 
 

   「南海囚人塔」

ずっと単行本未収録だったので、この作品を目当てにしていた人も多かろう。
主役を務める二少年の乗った定期客船/上海丸が南シナ海を日本へ向かう途中、
オランダの幽霊船と遭遇。そこへ黄衣海賊団が襲いかかり危難に陥るという、
これも海の冒険ストーリー。こちらは昭和6年発表で、
まだ自粛規制が無かった時期なんだけど、月刊誌八回連載にしてはボリュームが少なく、
内容も挿絵(嶺田弘)も「南海の太陽児」よりずっと劣る。
この年、正史は「仮面の怪賊」「笑ふ紳士」「鋼鉄仮面王」といった少年物も書いてはいるが、博文館在籍時には出来の良いジュヴナイルをまだ生み出せていない。

 
 
 

 「黒薔薇荘の秘密」(昭和24年)     「謎の五十銭銀貨」(昭和25年)

 「悪魔の画像」(昭和27年)       「あかずの間」(昭和32年)

いずれも戦後発表の短篇。
「あかずの間」だけは『姿なき怪人』に『奇妙な味の菜館(アンソロジー)』と、
過去に収録されていた本がいずれも角川文庫ばかりだったから、
テキスト改悪の懸念が無い出版社の本に入ったのは意外にも初めて。


 

 

 
   「少年探偵長」 海野十三

これはあくまでも海野十三の長篇であって、ボーナス・トラック的なイレギュラー収録。
横溝正史と同じく肺結核の持病を抱えていた海野十三だったが、昭和24年に入ると自分でも薄々迫りつつある死期に気付いているような素振りを見せるほど体調は良くなかったらしく、執筆は旺盛ながらも外出は一切控え摂生していた。折しも親しい仲の正史が前年岡山から東京に戻り、海野の住む三軒茶屋とはそれほど遠くない成城に居を構えていたし、
たまたま調子が良かったのか安静の禁を破って海野は514日に横溝邸を訪問したのだが、
これがまずかった。


その三日後の5月17日、自宅で突然の大喀血を起こし気管を詰まらせて窒息、
不幸にも海野は51歳の若さで急死してしまう。
そんな痛ましい経緯があったからこそ、自分とて病身かつ多忙だったにもかかわらず、
正史は連載途中だった「少年探偵長」が完結するまでの残りの執筆を引き受けたに違いない。
それと、この作品がモロSF調ではなく少年探偵活躍譚だったのもあるだろうけれど。




前段にて述べたような事情があり、決して海野も正史も責められないのを前提とした上で、
誰も指摘してこなかった本作の疵瑕を今回は見直してみたい。
いくら子供向けに荒唐無稽であっても、小説として看過できない箇所というのはある。




【 注意 !!
海野十三「少年探偵長」を未読ゆえ、絶対ネタバレされたくないとおっしゃる方は、
ここから下は、くれぐれもお読み飛ばし下さい。



 

 

 最初は物語全体にさして支障の無いところから。
冒頭にて主人公・春木清少年は〝本来は東京暮らしなのに、
家庭の事情で本作の舞台である関西の港町(おそらく神戸)の伯母さんの家へあずけられ、
牛丸平太郎のいる中学へ転校した〟とある。
だが、その理由は「いずれ後でのべる時があるからここには説明しない」(本書301頁)と書かれながら、最後までフォローされていない。
こんな感じのちょっとした問題点はいくつも見つかる。シンドかったんだな・・・海野。

 

 

 次は中クラスの矛盾ふたつ。
牛丸平太郎少年は敵の頭目・四馬剣尺の手下に誘拐され山塞(アジト)に閉じ込められる。
の山塞へ賊どもはヘリコプターで移動しているので神戸の街からは相当離れた山奥の筈。
そこへ何の伏線も無く突然春木清がたった一人で助けにくるのだが(本書378頁)、
彼はこの山塞の場所をどうやって知り、どうやって地下巣窟まで辿り着けたのか?
これまた後のシーンでの説明が無い。

  

それに監房へ食事を運んでくる唖で聾の五十男・小竹デク公にしても、
やはり囚われの身であった戸倉八十丸老人が春木/牛丸二少年を連れて山塞を脱出する際、
どうやって戸倉老人が小竹を丸め込んで味方にしたのか不明なまま。

 

 

 最後は重大な(?)矛盾。これも物語の始めの方のエピソードで、
四馬剣尺のアジトに猫女が初めて現れるシーンをじっくり見て頂きたい(本書329頁)。
四馬剣尺は六尺近い巨躯を支那服に包み、頭に被った冠から三重の紗幕を垂らし顔を隠しているので、手下でさえもその正体を知らない謎のベールに包まれた怪人だ。


この場面で四馬剣尺と女賊・猫女は完全に相対し、猫女がメダルを奪い去ろうとするので、
四馬剣尺は部下を引き連れ、逃げる猫女を追おうとしており、決してヨチヨチ歩きではない。
という事はこの時の四馬剣尺は歩くのを見られても構わない〝二人羽織〟状態な筈だから、
猫女と四馬剣尺とは、全く別々の存在でなければならない。
こう書いても未読だとさっぱり伝わらんだろうけど、
要するにここでいう〝二人羽織〟とは例えば、バイオレンスジャック』~鉄の城編における兜甲児とジム・マジンガの姿を連想してもらいたい)


ところが話が進むにつれ、
いつの間にか猫女は〝二人羽織〟の片割れとして確定してしまうため、
序盤におけるこの猫女初登場シーンの矛盾はどうにも解釈できなくなってしまった。

 

 

 

山口直孝は『横溝正史研究6』にて、擬音表記が〝ひらがな〟から〝カタカナ〟へ変わったのを根拠に、横溝正史が「少年探偵長」の代筆を始めたのは連載第七回(「燃えあがる山塞」)からではないかと推測している。念の為、旧い版の『少年探偵長』も用いて何度か読み返してみたが、この推測は間違ってはいないように思えた。
四馬剣尺初登場の章題が「男装の頭目」とされていたり、
連載第五回で四馬剣尺に裏切り行為をした机博士のエックス線装置により頭目の骨格が露顕する場面を見ても、当初、海野が四馬剣尺の正体をどのように考えていたのか、いまいち判断が付かない。

 

 

 

でも敵の首領の正体を〝二人羽織〟にするアイディアはメチャクチャ優れているし、
海野の探偵小説ならばそのバカバカしさも許される。これはもしかして江戸川乱歩「魔術師」の大入道からイメージしたのかもしれない。海野と正史、二人がかりで無理やり完結させたわりにツッコミどころ満載でも意外と読ませてしまうのは、この四馬剣尺というキャラクターあってのことだと思う。もう少しだけ海野が元気でいてくれて一人で本作を書き上げるか、あるいは青鷺幽鬼みたいに最初から海野十三&横溝正史の共作で完成させていたなら、かかる矛盾点を正史が補正してくれたかもなあ、と楽しい妄想が頭の中を駆け巡ったりもした。




(銀) 巻末資料ページに「横溝問答」なんていう、
「カー問答」を真似た日下三蔵の雑文が入っている。
本人も認めているとおり、これが書かれた90年代にはまだ判明していなかった事も多く、
今読むと新しい読者に間違った情報を与えてしまいそうだから、
こういうものを載せる必要などなかった。そんな適切な判断ができず、
せっかく本編は楽しめるのに、やみくもに何でも追加収録してしまうのが日下の思慮の無さ
なんにせよ〈横溝正史ミステリ短篇コレクション〉〈由利・三津木探偵小説集成〉、そして
〈横溝正史少年小説コレクション〉と、あまり高くなり過ぎない価格で発売してくれた柏書房は褒めてもいい。


 


2022年1月8日土曜日

『言論統制というビジネス/新聞社史から消された「戦争」』里見脩

NEW !

新潮選書
2021年8月発売



★★★   同盟通信社のことが知りたい



昨年の春に刊行された小栗虫太郎『亜細亜の旗』を読んだ時、巻末外編の中に「この長篇が執筆されるきっかけとして、同盟通信社からの斡旋があったのではないか?」という二松学舎大学の山口直孝、それを受けて「同盟通信社の編集局文化部が虫太郎に小説の依頼をしたのでは?」という本多正一、このふたりの推論が挙がっていた。

本日取り上げるこの『言論統制というビジネス』には、残念ながら新聞小説への言及は無いが、その同盟通信社の成立ちを軸に論じられており、戦後になって新聞人が「満州事変や盧溝橋事件以降ずっと、我々は言論封鎖を軍部に強いられ、挙国一致な報道をせざるをえなかった」などと被害者ヅラして語った証言とは裏腹に、自主的な国策協力が実は行われていたことなんかがガッツリ焙り出されていて興味深そうな一冊だ。戦時下において新聞連載された探偵小説を読み解く際に今後参考になるかもしれないので、これは書き留めておこうと思った。


 

                   

 


本書を読みながら、うなずいた箇所 ⤵ 。

 

 現代の日本人は「戦争はもういやだ!」と言うけれど、それはあくまで太平洋戦争が悲惨極まりない負け戦に終わったからであって、もし戦勝していたなら国民は愛国心の名のもとに反省も無く、ひたすら喝采したであろうこと。

〈(銀) 戦争をすれば、たとえ自国が勝っても、戦場で命を落としたりダメージを受けて一生をフイにする兵士(=国民)はワンサカ発生するというのに。
探偵小説に見られるその格好の例が、江戸川乱歩の「芋虫」に登場する廃人・須永中尉。〉

 

 戦後は真実とは異なるデタラメを捏造してまで、日本をディスることを社是としている、(一応左派の代表とされる)あの朝日新聞でさえ、戦前は拡大路線をワッショイ報道していたという事実。

〈(銀) 本書9596頁に載っている、朝日が実施した戦勝イベントのなんと多いことよ。〉

 

 

 

戦争/天変地異/大事件が起これば、大衆は速報を渇望する。今はネットやテレビがあるけれど戦前の大メディアとなれば、(ラジオ局は日本放送協会しかなかったので)やはり日刊の新聞が頼り。あさま山荘や上九一色村のオウム本部へ警察が突入した時、テレビがずっとそれを流していたのは、通常の番組よりも観る人が断然増えるからで、戦前の場合も日本が外地へと侵攻し、毎日激しい戦いを繰り返していれば、そりゃ国民はこぞって新聞を読むに決まっている。

第一次大戦時、ドイツを悪だと報道した英ロイター通信の巧みな情報戦によってドイツは負けてしまったと振り返る独逸軍人もいるぐらい、国にとって戦時中の情報管理は重要なものであり、また新聞社にとって戦争は収益を生む又とないビジネス・チャンスだった。

 

                    

 


満州事変の頃から我が国における言論統制の蠢動は始まっていて、対内外のプロパガンダ機関として陸軍が昭和11年に発足させたのが同盟通信社その中心にいたのが、本書の主人公ともいえる古野伊之助という人物だ。こう書くと古野はメディア・サイドの東條英機みたいに思われそうだが、財政が楽ではない地方紙が存続できるよう、あの手この手と画策したのは彼だった。甲賀三郎「支倉事件」における重要な登場人物のモデルでもある読売の正力松太郎が利益最優先主義なのに対し、古野は理想を最優先とする策士で、全国紙の人間から相当嫌われてたみたい。

新聞というものは、紙の調達が出来なくなったら即アウト。軍部と繋がることで紙やインクの配給を途絶えさせない、つまりどんなに日本が物資難で困ろうが、新聞の発行を一日たりともストップさせずに済んだのは、この人のおかげだそうな。一概に古野や同盟通信社を戦争協力のキーマンと批判するのは如何なものか?、と著者・里見脩は問いかける。

 

 

 

当時の全国紙は毎日/朝日/読売。 そして各地に地方紙が様々散らばっているという状況。日中戦争が始まって国内によりキナ臭さが増してくると、全国紙と地方紙の競争は激化し、全国紙に買収されてしまう地方紙もあった。

昭和13年、内務省によって新聞統合は着手されていたが、昭和16年になると、政府は一県一紙令をより強制的に通達する。とはいえ一度に〝せーの〟でそれが出来る筈もなく、一番最初に一県一紙が完成した県は、昭和1410月の鳥取。一番最後は、昭和1711月の新潟と北海道。数年がかりでなんともご苦労な事よ。東京・大阪、そして広島だけは特例で複数紙の共存が許されたが、全国紙であっても例えば毎日だったら、『東京日日』と『大阪毎日』を『毎日新聞』に題字統一させられて、現在に至っている。

 

                    

 

探偵小説がらみの話もしておこうか。戦時下に新聞連載され、長い間埋もれていたが近年書籍化された小栗虫太郎「亜細亜の旗」と横溝正史「雪割草」については、当Blog 2021年4月の記事にて詳しく特集した。この二作が一番最初に掲載された地方紙は今のところ『京都日日新聞』と見られており、「雪割草」が昭和156月11日~12月31日まで連載して完結。次いで「美しき暁」(=「亜細亜の旗」)が昭和16年1月1日よりスタートし、全245回分あるところを同年6月30日179回をもって打ち切られている。

 

 

上記にて述べた一県一紙新聞統合が完成した年月を一覧表にしたものが本書230頁~231頁に載っていて、京都府を見てみると昭和174月に『京都新聞』一紙化が完了している。どこの都道府県でも地方紙同士でどう統合するか、ああだこうだと揉めるのは当り前で、古野伊之助が統合交渉に出向いた県の逸話が載っているが、京都のぶんは無かった・・・残念。京都の場合だと、昭和10年以降では府内久しぶりの統合で、『京都日日新聞』と『京都日出新聞』がくっ付いて『京都新聞』になった訳だが、「美しき暁」(=「亜細亜の旗」)の連載を途中で打ち切らねばならないほど混乱していたのだろうか? それとも作者・虫太郎の都合?

 

 

それからまた、「雪割草」の書籍化底本に使用された地方紙は、現在同作の掲載が判明している新聞の中で最も連載開始が遅かった『新潟毎日新聞』。この新聞は昭和168月にそれまで敵対していた『新潟新聞』と合併して『新潟日日新聞』へ改称。翌1711月には『新潟県中央新聞』『上越新聞』とも合併させられて、ようやく本書231頁に載っている『新潟日報』の形へと辿り着く。あ~、めんどくさ。


                    


という感じで、
もうちょっと突っ込んだ内容、つまり、同盟通信社の編集局文化部は具体的にどんな業務をこなしていたのか、みたいな事が細かく載っていれば万々歳だったけれど、この本に新聞で連載される小説の事まで語り尽くすスペースは無いのだからやむを得ない。でもまあ、同盟通信社を知るとっかかりとしては上出来か。他にも同盟通信社に関する文献はあるみたいなんだが、ワタシ的には地方紙へ連載小説を売込むエージェント業を行っていた池内祥三の大元社と同盟通信社を繋ぐ線を教えてくれる書籍があればサイコーだけど、そんな気の利いた資料はなかなかないだろうなぁ。

ともあれ、戦前日本のメディア論に興味のある人にとっては良書なのではないでしょうか。




(銀) 他に電通の悪口とかも書きたかったし、『名張人外境ブログ2.0』で江戸川乱歩からの書簡を受け取っていると紹介されていた城戸元亮のことも書きたかったのだが、ダラダラ長くなりそうなので、その辺はバッサリcutした。いつもの探偵小説関連本と勝手が違い、どういう切り口で本書について書くべきか、すぐにピシッと頭の中が整理できず、この記事は書き終えるまでに少々手古摺ってしまった。





2022年1月5日水曜日

『幽霊の接吻』宮野村子

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盛林堂ミステリアス文庫
2021年12月発売



★★★★   現(うつつ)に戻す罪の深さを



❆ 盛林堂の宮野村子も巻数を重ね、さすがにクオリティが落ちていくのかなと思われたが、『無邪気な殺人鬼』『童女裸像』といったこれまでの三冊の中では一番良かったかもしれない。前二冊以上にバラエティ感に富み、探偵小説にうるさくないフツーの読者にも読み易くて、同人出版としては商品性高いんじゃないの?

 

 

 

❆ それでは今回も一作ずつチャッチャッと紹介していこう。まずは江戸川乱歩「心理試験」の前半部分をアダプトしたような「罠」。殺人をやり遂げた後の発覚部分はあっさり短め、宮野村子にしては感情移入を控え〝お仕事〟モードに入って書いたような一篇。

 

 

次の二つは作者の最も得意とする、女ごころの複雑怪奇さに翻弄される男を描いたもの。まず「夜の魚」。街の仲間達にも知れているほど健一は春美に気があるのだが、彼にとって春美は〝上手(うわて)の上手(うわて)〟な存在。蒼い敗北感に苛まれ、健一は姿を消す。半年後、街に戻ってきた健一は少し大人びた変化を見せるのだが、その事が皮肉にも春美にダメージを与え・・・。



「心の記録」は短篇ながらも枚数の多い力作。
内縁の妻を絞殺した罪で裁判中の原健一(「夜の魚」の健一とは無関係)。あまりにも素直に供述する健一に対し、裁判員達は「被告にはまだ語られざる何かがあるのではないか?」と決め手に悩む。健一の人生には消そうにも消せない暗い残像があった。

物心つく前に、母親は彼を捨てて去っていった。祖母が健一を引き取ったものの体を壊し、不幸なまま一人この世に残すくらいならと祖母はタオルで健一の首を絞めようとしたが、それはあやうく未遂に終わる。最終的に健一の面倒を見てくれたのは家出した母の従姉妹夫妻で、その明るい森本家にはさく子という健一の姉代わりになる娘がいた。だが戦争によって、ふたりの運命は弄ばれてしまう。

前半では裁判員が推理/斟酌する健一の内面を、後半は健一自身のトラウマ、そして悲劇に至るまでの道程を描いた多面的な物語。奇しくも木々高太郎が書いていてもおかしくないような出来である。


 

 

「黒眼鏡の貞女」は主人公の設定がユニークで、按摩さんのような〝めくら〟に近い視力しか目が見えない女の薄幸を書くのかと思ったら、彼女は執念深い仕返しを企んでいた。同様に雑誌発表時のページ数が限られていたからなのか、エンディングが慌ただしいのがちょっと。「怪奇探偵 運命の足音」は現代の商業出版なら腰が引けて収録を絶対見合わせるだろう。ポリコレ・クレーマーはこのタイトルに〝怪奇〟という単語が付いているだけで「けしからん!」とカッカするんだろうな。汚れなき愛情が描かれているのに。

 

 

主人公の〝あたし〟は姉・波奈子と共に喫茶店を経営しており、彼女達は弟代わりになりそうな可愛らしい少年給仕の章二を雇っている。ある日、仮面のように表情の無い顔をした奇妙な人物が店にやってきた。その男は「紫夫人」の怖ろしき使者だったのだ。これは〝人攫い〟というものがありがちだった昭和前半の香りが漂うスリラー。 

妾の息子として生まれ育った伸夫少年。隣人の三千代は夫の不貞と冷たさに、鉛を飲むような毎日を送っている。そんな三千代は伸夫に自分の息苦しさを打ち明ける。「恐ろしき弱さ」というこの作品のタイトルはちょいと安直だったかも。                            

 

 

「幽霊の接吻」は幽霊話なのか、イタズラなのか、微妙なオチをつけたハート・ウォーミングな読み物。「二つの遺書」はシリーズ・キャラクターである広岡巡査はじめ警察の面々が温かさを見せるその分だけ交番に捨てられた幼児ミエ子の救われなさが余計に際立ってくる。いや探偵小説的な見所はそこじゃなくて轢死トリックなんだけどね。最後の「あやかしの花」にも兇器隠蔽トリックが使われているが、この兇器は警察が現場を捜査に来たら、いくらなんでも見落としはしないだろ?と、ピュアな私は突っ込んでしまうのだった。

 

 

 

(銀) 小説そのものは面白かった。盛林堂の本じゃなかったら★5つにしたよ。

なんだろう、宮野村子にトリックは最初から期待していないけれど、彼女なりにトリックに取り組んでいる作品があると、そのトリック自体は独創性が高くなくても、やっぱりちょっと嬉しくなるね。地の文章がイキイキしているだけに。




2022年1月2日日曜日

『江川蘭子』

NEW !

博文館
1931年5月発売




★★★★★   ジョセフィン・ベーカー風の挿絵を描いた英太郎は
          江川蘭子の本質を最も理解していたのかも



 

『新青年』に対し以前のような頻度で積極的に書いてくれなくなった江戸川乱歩をなんとか引っ張り出すために編集部サイドは〝複数作家による連作リレー小説〟を企画。「一回目だけなら、まさかイヤとは言うまい」とほくそ笑む森下雨村は乱歩の逃げ道を塞ぎ、トップバッターとして書かせる奇襲戦法に出た。本書には大正15年の「五階の窓」と昭和5年の「江川蘭子」、この二中篇が収録されている。乱歩が亡くなってからは誰もが忖度無く感想を述べているように、内容に統一感が無いため、どうにも褒められぬ作品ではあるのだが、そこをできるだけマジメに考察してみようというのが新春一発目のテーマだ。

 

 

 

「江川蘭子」

江戸川乱歩 → 横溝正史 → 甲賀三郎 → 大下宇陀児 → 夢野久作 → 森下雨村

 

連作にまで自分の筆名を主人公の名に織り込む暴挙からして、乱歩の〝我が世の春〟たる強気な姿勢(それとも、単なる天然か?)が伝わってくる。「陰獣」の時に森下雨村は「乱歩君もたいした自信だねえ」と横溝正史に漏らしたそうだが、「江川蘭子」というタイトルを見て、果して雨村はどう思ったことやら。

 

 

一番手を任された乱歩が設定した江川蘭子の性格付け。たとえ後続の作家がどのようにでも展開できるようなエンディングで終わらせてはいても、悪の要素に満ち満ちた存在として生まれ育った出自だけは不動。この乱歩の回で見落としちゃいけないのは成長した江川蘭子には悪女としてのビューティエロスが備わっているだけではなく、貧困の中から生まれた黒人女性でジャズ・シンガーであり踊り子としても当時米国の異端だったジョセフィン・ベーカー的アクティヴな側面も持たされている点だ。竹中英太郎の描くヴィジュアル(挿絵)の江川蘭子も、本書の函及び扉ページの絵を見ると、それを意識しているのがわかる。(余談だがブライアン・フェリーも「Limbo」のプロモーション・ヴィデオにてジョセフィンの世界観を再現していた)



ジョセフィン・ベーカー



しかし、横溝正史以降の後続作家が蘭子のジョセフィン・ベーカー的な面をすっかり消し去ってしまう。これは痛手だった。濃厚な主人公を据えたのだから人間関係がややこしそうな秘密結社など持ち出したりせず、唯シンプルに蘭子が跳梁跋扈する物語を執筆作家全員で塗り固めとけばOKだったのに、謎の枝葉を下手に加えようとして「五階の窓」よりも話がギクシャク。

甲賀三郎の回で発生する黄死病なんて唐突過ぎてストーリーのプラスにちっともなってないし、また夢野久作の回で、本来常に傍若無人であらねばならない蘭子がブルブル怯えて動揺するようではこの連作は死んだも同然。二番手の横溝正史が枝葉の少ない展開に整理した上で次にバトンタッチしていれば・・・。

 

 

以前の記事で、江川蘭子みたいに悪の因子を持たされた子供の成長を大下宇陀児が自作「魔人」で描いている例に注目してみた。でもよくよく考えてみたら、江戸川乱歩だって後年同じような素材を使って長篇を書いているではないか。「大暗室」だ。幼少期の大曾根龍次には、小さい頃の江川蘭子を凌ぐ冷酷さが備わっていた。そういえば魔術師奥村源造や怪人二十面相の遠藤平吉同様に、蘭子も曲馬団で軽業師としてのワザを磨いている。これじゃまるで、曲馬団は悪人養成学校だ。



「江川蘭子」と「大暗室」の間には「黒蜥蜴」という女賊ものがあり、初期の乱歩短篇「お勢登場」のヒロインお勢は黒蜥蜴=緑川夫人のプロトタイプだと云う人もいる。江川蘭子の場合は同じ名前のキャラが「人間豹」に引き継がれて出てくるが、人間の心が1ミリも無い悪魔の申し子として世に送り出されたのは大曾根龍次のほうだった(2020年6月27日当Blog記事を見よ)その意味では「江川蘭子」で書き切れなかった復讐戦を、乱歩は「大暗室」にて無事やり遂げたとも言える。

 

 

 

「五階の窓」

江戸川乱歩 → 平林初之輔 → 森下雨村 → 甲賀三郎 → 国枝史郎 → 小酒井不木

 

本書では後半に収録されているが、『新青年』発表はこちらのほうが先。モダーンな帝都のビルディング街、迫りくる不況による企業の人員カットという当時の風潮を取り入れつつ、電気商会のビルからセクハラ社長の転落死が発見され、その謎を警察そして新聞記者 探偵小説家が追うストーリー。

 

 

「江川蘭子」と違って各回の仕上がりにデコボコ感は無く、その点はまだマシ。一応犯人探しと動機の推理がテーマになってはいるが、日本の探偵小説がまだ中~長篇ぐらいの長さの本格物に対応しきれてない。「江川蘭子」執筆メンバーの中でバランスを崩しそうなのは夢野久作だったし「五階の窓」だと乱歩嫌いの国枝史郎がそうなりそうなところだが、意外と流れに溶け込んでいる。国枝の次のラスト担当が大好きな(?)小酒井不木だったのも幸いした。本作のビル転落死ネタを、アリバイ工作を強化して後年自分用に使ったのは横溝正史。作品名は言わずともお分かりだろう。

 

 

 

「江川蘭子」も「五階の窓」も、竹中英太郎の挿絵で彩られたこの博文館版(口絵が八枚もあり『新青年』発表時の挿絵とは別物)で読むからその奇書ぶりが味わえるのであって、フツーの読者には勧めにくい。実際この二作は90年代に春陽堂より文庫化されているが、『江川蘭子』では〝黒ん坊〟〝氣違ひ〟〝あひの子〟といったワードが言葉狩りされるといった春陽堂安定のテキスト改悪作業があちこちに施されて、相も変わらずせっかくの再発が台無し。本日の記事の満点進呈は英太郎の仕事に対してであって、決して作品には非ず。

 

 

 

(銀) 乱歩以外に「五階の窓」「江川蘭子」の二作どちらにも参加しているのは雨村と甲賀。上に書いたとおり、『新青年』のこの二つのリレー小説はあくまで乱歩ありきの企画だったから博文館の人間で『新青年』の編集に関わっていた雨村と正史はともかく、それ以外の面々は書いててもあまり面白くはなかったろうな。とはいえなんだかんだでこういった連作ものは戦後まで続けられたのだが。




2021年12月30日木曜日

『トレント自身の事件』E・C・ベントレイ/露下弴(訳)

NEW !

春秋社
1937年2月発売



★★★   シャンパンのコルクを調べるシーンが好き



【ストーリー】

金持ちで手広い慈善家として知られるジェームス・ランドルフ翁。本編の主人公、素人探偵でもあり画家のフィリップ・トレントはある用事でランドルフ翁と接見したばかりだった。普段から召使いを殆ど置かず邸内には他に誰もいないという状況で、ランドルフ翁がニューベリー・プレイスの邸の室内にて背後からピストルで撃たれ即死しているのを外出から帰ってきた従僕のロオトが発見する。

 

 

遺体周辺には剃刀の刃などおかしな形跡はあるものの、物取りの犯行には見えない。ロオトには前科があり只の忠実な従僕とは思えないし、また老主人には女性関係で怪しむべき点も無くはない。秘書のヴァーニーによればランドルフ翁には親類がおらず、一人息子がいたのだが十六歳の時に家出したっきり行方不明、遺書も残していないというのだ。事件現場に荷札が落ちていた事からトレントの旧友ブライアン・フェアマンに強力な容疑がかけられるが、事件が明るみになる直前トレントは一瞬だがブライアンと偶然にもヴィクトリア駅で出くわしていた。ブライアンは海を隔てたフランスのディエップへ渡り謎の行動を取るも、投身自殺を図って警察に連行。トレントは友の濡れ衣を晴らすべく調査を始めた。

 

 

 

【原 作】

いまだ戦前に出た古色蒼然たる春秋社版しか日本語訳が存在していない本作だが、そこまでダメ出しされるほどつまらない凡作でもない。「トレント最後の事件」を持ち上げて、こちらをすごく悪しざまに扱っているミステリ・オタがいるって聞くけど、そうかな?実際に読んでないか、あるいは年取って頭ボケてるだけでは?なにかしらのオリジナリティーで歴史に名を残す逸品ではないが、人並みの読解力さえあればストーリー的にはスラスラ読める。悪くはない。

 

 

ジェームス・ランドルフ翁は発泡酒を嗜まない人なのに、ヴィンテージ・シャンパンのコルクが遺体のポケットから出てきたので、その意味を知るためにトレントは酒商を訪れてワイン問答を交わす。私は葡萄の酒が好きなもんで、この第十三章のやりとりがなんとも楽しい。トレントの妻であるあの人や子供が出てくるシーンについては、ん~、どうかな。探偵が家庭の内情を見せ過ぎるのはあんまり好まないけど。

 

 

 

【翻 訳】

春秋社版の致命的欠陥はどうしても訳。露下弴というのは悪名高き戦前の翻訳家・伴大矩のペンネームのひとつと云われている。伴大矩と同一人物であろうとなかろうと、私のようなトーシロにでさえ他の人間に訳の下請けをさせてるのが読んでバレバレ。本書の中でいつもフィリップ・トレントは自分の事を〝僕〟と呼んでいるのに、ある章では突然たいした意味もなく〝わし〟と言い続けるので気持ちが萎える。



これも近頃私が再三怒っている杜撰なテキスト入力新刊本と同じで、仮に第三者に部分部分をアウトソーシングしていたとしても、一通り訳し終わったあと責任者(=露下弴)がゆっくり目を通し、全体に齟齬が無いようチェックして、ミスを見つけたら手直しさえすればいいだけの話なのだ。それを面倒臭がっているのか読者をなめてるのか知らんが、こんな仕事をしているものだから、その本は末代までの恥になりにけり。

 

 

 

【総 評】

「トレント自身の事件」はEC・ベントリーとH・ワーナー・アレンの共作なのに、この春秋社版にはH・ワーナー・アレンのクレジットは無い。訳者の仕事はとても褒められたものではないが原作自体には好感が持てるし、なんといっても本書の装幀者は吉田貫三郎だから、なんだかんだの大甘評価で☆3つ。しかし450ページ近くもあるせいか、この本は束(つか)がたっぷりあるな~。どういう理由でどこの版元も「トレント自身の事件」の新訳を出そうとしないのだろう?

 

 

 

(銀) この作者はEC・ベントリーと書くのが通常であるが、春秋社版では〝EC・ベントレイ〟と表記されているので、記事のトップの書名欄だけ〝ベントレイ〟とし、各記事の一番下、そして当Blogの右側に並んでいるラベル(タグのこと)欄では〝ベントリー〟と記した。





2021年12月27日月曜日

日本探偵小説の再発好況期は過ぎ去った

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今年=2021年は国内における紙書籍の売上が15年ぶりに僅かながらプラスとなりそうな見込みだそうで。そのわりには皮肉にも、私のBlogで取り上げるべき日本探偵小説の再発/評論書籍は今迄に無いほど新刊の数が落ち込んだ感がある。このBlogを始めた当初の予定では既存の古書はたまにしか扱わないつもりだったのに、今年記事にした本は古書ばっかりだったからなあ。もっとも私が積極的に買わないたぐいのミステリ系新刊のリリース数なら、それほど減少はしてないように見えるけれど。

 

                   

 

江戸川乱歩/横溝正史/夢野久作以外で、一般的にはそれほど存在を知られていない日本探偵作家の単独著書が新刊として発売されるようになったのは、記事の中で度々語ってきたとおり、90年代に刊行された国書刊行会《探偵クラブ》シリーズ全15巻のおかげである。その後を引き継ぐように2003年スタートした論創社の《論創ミステリ叢書》はコンスタントに巻数を重ねてゆき、ありえないようなマイナー作家でさえも、書店のミステリ・コーナーに並ぶようになった。そうなると他の出版社もほっとかない筈がなく、真似をしてニッチな企画を通すようになり、一方では同人出版で本を作る人も現れてきたり、今世紀に入ってからというもの日本探偵小説に関する新刊書籍は毎年右肩上がりの実り多き状況が続いてきた。

 

 

だが物事にはすべからく衰退の時が訪れる。二十年も上向きの好況が続いてきたのだから、探偵小説の再発にもそろそろ冬の時代がやってくるのかもしれない。


                    

 

《論創ミステリ叢書》も100巻を超え、横井司が叢書監修の立場を外れてからクオリティの低下を感じていたが、姉妹企画である《論創ミステリ・ライブラリ》の方針にも疑問はつのるばかりで、論創社にはすっかり信用が置けなくなっていた。その直後(2020年)コロナウィルスの急速なる蔓延で社会生活の在り様も一変、本の制作に携わる人達/出版社/印刷・製本業者もろとも少なからぬ煽りを受け、業務に支障を来したに違いない。何にせよ日本探偵小説の新刊数がガックリ減少したように感じられる大きな要因には、論創社が急に日本探偵小説の本を出さなくなった事が挙げられる。 

 

 

日本探偵小説関連の書籍こそリリースしなくなったものの、論創社はミステリ以外のジャンルの本や《論創海外ミステリ》については何の滞りも無く刊行を続けている。論創社編集部の黒田明は『CriticaVol.16の中で、日本探偵小説関連書籍が出ない理由として「図書館などの、文献を所蔵している施設の利用がコロナによって非常に制限されるようになったため」と述べていた。でも『西田政治探偵小説選』『乾信一郎探偵小説選』なんてパンデミックが起こる何年も前から「出す出す」って twitterで言ってたよな?コロナや図書館のせいにしているけれども、それならこれまで放言していた刊行予定書籍はどれも底本が全然揃っていなかったのかい? 

 

 

肝心な業務に関わる面々がコロナに罹ってしまったのいうのならば同情もしよう。しかしいくら日本探偵小説の書籍制作だと(海外の翻訳物と違って)底本となる文献もしくはそのコピーを各種入手する必要があるとはいえ、図書館の利用制限ばかりが新刊を出せない理由にはならない。だって盛林堂書房も捕物出版(=大陸書館)も、彼らは商業出版社じゃないけれど、事前に「こういうのを出したい」と拡散してきたものは着実にリリースしている。彼らと違って論創社は刊行の目処も立ってないのに早々と「あれ出しますこれ出します」と煽り、結局入手できない文献があったりするもんだから、その都度行き詰っているのではないか?こういうのを〝無計画〟と呼ぶ。そんなんじゃローン組もうにも銀行は金貸してくれないぞ。

 

                     

 

論創社みたいな無計画っぷりも問題だけど、私が買うような探偵小説本の制作者に限って、テキストを正確に入力できてなかったり、その上 校正という作業をなおざりにしているのは一体どういうつもりなのか?

 

1.  くらテキスト入力にミスをやらかそうとも、買い手が何も言わぬおめでたい読者ばかりだから。読んでも間違いがある事すら気付けない、いやそれ以前に買って積んだまま少しも読んでいない人ばかりだから。

 

2.  り手側は雑誌『幻影城』のリアルタイム世代が多く、衰えも著しい中高年になってしまって、視力・集中力・思考力、そのいずれも低下してボケているから。

 

こんなカンジだからかねえ(これでも随分言葉を選んで発言している)。


                      

 

この二十年で再発すべきネタはだいぶ汲み取られたとはいえ、井戸が完全に涸れた訳じゃない。だが探偵小説のギョーカイは制作者側の高齢化が止まらず、人材難は解消せず、日本探偵小説の復刊本のリリースについては、2020年代もこれまでの二十年のように順調に進むなんて楽観視はしないほうがいいだろう。好況期はもう過ぎ去ってしまっているのだから。高齢化なのはユーザー側も一緒で、初版本書痴の老人が認知症になってしまい、今まで集めてきた古書をズタズタにしてしまったなんていう噂話も聞く。可哀そうにね。いや、人じゃなくて本が。

 

 

 

(銀) 読む価値のある新刊が出ないと寂しくはあるが、Blogのネタとしてはいいかげんな本を出されてその都度苦言を呈するよりは、古い本について書いているほうが精神的に良いのかも。本をライブラリーから出してきて頁をペラペラ捲り、以前読んだ内容を思い出す作業は面倒だけどさ。なにせ私の理解の外にある事が多すぎる探偵小説の世界。このBlogを書き続ける興味が失せる危うさのほうがネックだったりして。



上記に述べたような状態が続いているにもかかわらず、論創社は2022年に「論創ミステリ大賞」と冠した書下ろし長篇ミステリ小説を募集する企画をおっ始め、忙しい横井司を選考委員長にすると言っている。筋違いな愚かさもここに極まれり。




2021年12月24日金曜日

『永瀬三吾大陸作品集/売国奴』永瀬三吾

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大陸書館(楽天ブックス POD)
2021年12月発売



★★★   春陽堂版『売国奴』とは収録内容が異なる



✭ 永瀬三吾の現役中に春陽堂書店が刊行した『売国奴』は春陽文庫と探偵双書の二種が存在、いずれも(おそらく)同一の紙型が使われており、表題作「売国奴」の他には、桂井助教授探偵日記(全五話)が併録されていた。

今回の大陸書館版は書名こそ同じ『売国奴』と題し、同作を巻頭に置いてはいるけれども、それ以外の収録作品は全く違っている。私が馴染んできた『売国奴』は探偵双書のもので、今回本書(大陸書館版)と春陽堂版とを比較するため、その本を書棚から引っ張り出してきた。探偵双書というシリーズはおしなべて奥付に発行日が記載されておらず、どの巻も昭和30年代前半に出されたのだろうという曖昧な共通認識がなされている。

 

 

 

本書は〈大陸作品集〉と副題を付け、日本が中国大陸に侵攻していた時代を描く内容の小説をセレクトしており、戦争の色は濃い。「売国奴」は昭和天皇を奪取擁立して紫禁城に移らせる計画だとか、三種の神器のひとつマガタマ(=八尺瓊勾玉)が盗み出されて取引されたりとか、それだけ聞けば壮大なイメージを持つかもしれないけれど、戦時中に永瀬が見聞した日本軍の国策光景を、戦後になってシニカルな目で振り返りつつ書いたんだろうな、という気配が漂っている。夢野久作「氷の涯」の上村作次郎/ニーナと、本作における里宮良介/チェリー、それぞれの行末の違いに思いを巡らせるのも一興なり。

 

 

 

✭ 本書収録作はみな初出誌を底本にしているが、「売国奴」だけは昭和36年に東都書房から出された日本推理小説大系(本書は〝体系〟と表記しているが、違うぞ)第九巻『昭和後期集』のテキストを使っているようだ。これがまた春陽堂の探偵双書とは微妙にテキストに違いがあって気にかかるし、それぞれの「売国奴」オープニング部分だけでも御覧頂こうか。下段における本書テキストに含まれている赤文字は、探偵双書には存在していない語句だ。 

 

(本書=東都書房『昭和後期集』テキスト)
は終戦後、大陸から追い帰されたところの、いわゆる引揚者で
の頃の知人達もみんなもちろん私どうように引揚げてきた
が、そうなるべき友人の中で二人だけいまだに帰ってこない
方不明になったままの者がいる。 

 

(春陽堂/探偵双書テキスト)
は終戦後、大陸から追い帰された、いわゆる引揚者で
の頃の知人達もみんなもちろん引揚げてきた
が、そうした友人の中で二人だけいまだに帰ってこない
方不明になったままの者がいる。

 

 

 

✭ 「長城に殺される」は映画界での男女のもつれに端を発する怪談。
登場人物・月代の名前が本書では間違って〝月夜〟と入力されている箇所あり。
「発狂者」では中国の新聞社・社長だった永瀬の職業が設定に活かされている。
「人間丸太部隊」は、囚人を〝マルタ〟と呼んで人間を化学実験の材料に使った旧七三一部隊をモデルにした、社会的な意味での問題作。旧七三一部隊といったら何はなくともベストセラーになった森村誠一の「悪魔の飽食」シリーズが思い浮かぶ。あれが最初に日本共産党の『赤旗』に連載されたのが昭和50年代であるのを考えると、永瀬が四半世紀も早く、このテーマを取り上げていたのは、彼が生粋のジャーナリストだったからか。

 

 

 

✭ 「あざらし親子」はタイトルどおり、動物の話。
その他には随筆二点。ひとつは「心のふるさとへ」。中国大陸には温泉が殆ど無く、
「中国人は一生に三度しか風呂へ入らない」なんて云われていたそうだ。
確かに日本人は風呂好きだもんな。
もうひとつの随筆「天津の憶い出 国旗をめぐってなど」には、このような一文がある。 

 

〝日の丸は軍閥の表徴でも侵略の合言葉でもなかったのに、敗戦ときまった途端に
々はさも汚物でもあるかのように抛り捨てた
日まであんなに感激し尊敬した物がどうしてああ一朝にして憎しみに変えられるものか
思議なほどだった。掲揚は禁じられたが溝へ捨てろとは命ぜられなかったのに
々は卑屈だった。〟 

 

怒りをぶつけるなら、日の丸国旗じゃなくて必死で戦争を止めようとしなかった天皇裕仁だろ?と私は滑稽に思ったし、これと似た行為を現代でも目にする事がある。


全然レベルの違うテレビの話題ではあるが、「笑っていいとも!」の末期にネット民は、
「マンネリだ!何年ダラダラやってるんだ!とっとと止めろ!」なんて好き放題言ってたし、
「いいとも!」の終了と入れ替わるようにバラエティ番組で売れっ子になった坂上忍に対して、最初のうちは歯に衣着せぬ彼の毒舌にウケてたよな、あいつら。


それが「バイキング」を数年間やってるうち、いつの間にか今度は坂上叩きに変って、
結局あの番組は終わる事になった。あれだけタモリや「いいとも!」をこき下ろしていた連中が手のひら返しで今度は「早くバイキング打ち切れ、いいとも!を復活させろ」だってさ。
タモリにも坂上忍にもシンパシーこそ無いけれど、世に風見鶏の種は尽きまじ。
口先だけのネット民とは一生関わり合いたくない。



 

 

(銀) 本書には巻末に「永瀬三吾小伝」というページが附録として載っていて、
それは論創社の編集者である黒田明によるもの。
自分とこの出版社で日本探偵小説に関連する新刊だけはリリースが一切STOPしているのに、よその版元へ寄稿するヒマはあるんだな。