2021年6月19日土曜日

新刊本の店頭入荷状況に見る地方差➁

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■ ジュンク堂書店の場合(発売日当日~翌日~翌々日)





前回(2021519日の記事を見よ)紀伊國屋書店全店舗における創元推理文庫新刊の店頭入荷状況の差を見ていったが、今回はジュンク堂書店で新刊入荷状況をチェック。前回は発売日のみウォッチングしたが、二回目でもあるし今回は発売日とその翌日翌々日、三日間続けたらどんな結果が得られるか調べてみた。


                   


調査対象店はジュンク堂書店国内全店舗。以前のジュンク堂は単独のネットストアを持っていたけれど、2016年にBK1と統合したhontoへ吸収されてしまい、現在ジュンク堂の店頭在庫を確認するにはhontoにて自分の探している本の商品ページを検索し、「店舗お取扱い状況」欄の中に入って見なければならない。hontoはジュンク堂だけでなく丸善と文教堂の店舗在庫も見られるようになっているが、その全てをチェックしていたらあまりにも数が多くなり過ぎるのでジュンク堂店舗のみをチェックの対象とした。

 

 

調査対象新刊は2021616日(水)発売の
探偵くらぶ『白昼鬼語』 谷崎潤一郎
光文社文庫 1,100円(税込)。
しかし同人出版でさえあまり見られない程の、
購買欲が全く湧かないpoorなカバー装幀だな。
光文社はやる気あるのか?(当記事の最上段にある画像をクリック・拡大して見よ)
の本の発売日である616日(水そして翌17日(木)翌々日18日(金)の午後に在庫状況を確認。hontoにおけるジュンク堂書店在庫表記の仕方もおそらく紀伊國屋書店と同じ感じで、[○] は複数冊の在庫があり、 [△]は一冊程度しかないという意味なのだろう。

 

[] = 在庫あり
[] = 在庫僅少
[✕]  = 在庫なし

各店舗名の[]が発売日当日、[中]が翌二日目、[右]が三日目の在庫状況を表わす。



 

【北 海 道】

札幌店 [][✕][✕]

旭川店 [✕][][]

旭川医科大学店 [✕][✕][✕]

 



【青 森】          【秋 田】

弘前中三店 [✕][][]    秋田店 [][][]

 

【岩 手】          【宮 城】           【福 島】

盛岡店 [][][]       仙台TR店 [][][]     郡山店 [][][]

 

【埼 玉】          【千 葉】

大宮高島屋店 [][][]  南船橋店  [✕][✕][✕]

                柏モディ店 [][][]

 



【東 京】           【神 奈 川】       【山 梨】

池袋本店 [][][]     藤沢店 [][][]    岡島甲府店 [][][]

プレスセンター店 [✕][✕][✕]

渋谷店 [][][]

吉祥寺店 [][][]        

大泉学園店 [][][]       

立川高島屋店 [][][]

 

 

 

【新 潟】                             【静 岡】

新潟店 [][][]      新静岡店 [][][]

  

【愛 知】          【滋 賀】                                【奈 良】

名古屋店 [][✕][]      滋賀草津店 [][][]            橿原店 [][][]

名古屋栄店 [][] []                     奈良店 [][][]

 

 


【大 阪】                             

大阪本店 [][][]         

天満橋店 [[[―] (6月18日はなぜか非表示)                  

難波店 [][][]

梅田店 [][][]

上本町店 [][][]

近鉄あべのハルカス店 [][][]

松坂屋高槻店 [][][]

 

 【兵 庫】

三宮店 [][][]

三宮駅前店 [][][]

神戸住吉店 [][][―](6月18日はなぜか非表示)   

芦屋店 [][][]

姫路店 [][][―](6月18日はなぜか非表示)   

西宮店 [][][]

舞子店 [][][]

神戸さんちか店 [✕][][―](6月18日はなぜか非表示)   

明石店 [][][]

 



【広 島】           【香 川】             【愛 媛】

広島駅前店 [✕][✕][]    高松店 [✕][✕][✕]        松山店 [✕][][]

 

 

 

【福 岡】           【大 分】             【鹿 児 島】

福岡店 [✕][✕][]     大分店 [✕][✕][✕]         鹿児島店 [✕][✕][]

 

【沖 縄】

那覇店 [✕][✕][✕]


                   



明らかに西日本への新刊の入荷は遅い。そしてそれは単に距離の問題では無いような気がする。東京と大阪のフラッグシップ店だけは新刊が発売日前日から入荷している事が多い。それなら、やろうと思えばある程度、全国均一に新刊が届くような流れを組むのは物理的に絶対不可能な筈がない。発売日に東日本は入荷できて、西日本には入荷できない理由は何なんだ?あと普段私はhontoを殆ど利用しないから通常よくあるトラブルなのかもしれないけれど、ビックリしたのは三日目の入荷をチェックしていたら、大阪と兵庫のいくつかの店舗で、在庫状況が表示されなくなっていた。何これ?こんなんでhontoの管理システムって信用できるのか?


地方の新刊の入荷が遅いと聞くと「二、三日も待てないのか」などと知ったような口を叩く東京近郊の人間がいる。そしてだいたいこの手の田舎者は何かというと自分がフラゲ出来るのをSNSで自慢していたりする。こういう連中は遠い尖閣諸島にでも島流しにしてやればいい。どのジャンルの趣味だろうと、欲しいニュー・アイテムは誰でも一日でも早く手に入れたいのが人情ってもんだ。本が好きで西日本、特に沖縄県に住んでいらっしゃる方々は色々不便も多く、さぞ大変だろうなあと同情する。




「本が売れなくなった」と言うが、実際新しくリリースされる単行本や雑誌の数はそこまで減っていない。ゴミみたいな本が濫造される一方、全国へ満遍なく配送されるシステムに改善しようとする者は誰もいない。新刊の種類によっては、二、三日どころか半月や一か月以上過ぎないと入ってこない土地もあるそうで、そんなんじゃマメに本を買おうなんて思う人はいなくなるのが当然。ここまで書店業界のシステムが偏向していては話にならない。

 

小泉進次郎が嫁に踊らされて始めたビニールのレジ袋有料化(あれって海や山に捨てる奴こそが一番の癌じゃないのか?)という悪法が罷り通るどさくさに紛れて、全国展開している書店ではどうして紙の袋まで有料されなければならないのか?こんな下らん事には速攻で追従しやがって実に許し難い。買物に行く機会が多い主婦ならまだしも、マスクを忘れないようにするのでさえ面倒な上に、仕事中エコ・バックなんかいつも携帯してられるか。フツーの人が実店舗の書店になんか行きたくなくなっても、それはごく自然な現象なのだ。



 


2021年6月16日水曜日

『豚と薔薇』司馬遼太郎

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東方社
1962年3月発売



    レアなミステリだからと有り難がる必要無し




歴史小説の超大物として罷り通っているこの人の非常に稀少なミステリ作品は、再発される気運が全く無いものだから古書市場で珍重されている・・・というのが世間の定評。遠慮なく感想を述べさせてもらうと、面白くもなんともない小説である。ミステリ目的ではなく、ピュアに司馬遼太郎作品を制覇したいから高額突っ込んで古書を買ったという人もいるだろう。そんな司馬遼マニアでさえ「つまらなかった」と少なからず肩を落としたのでは?自分が安価で購ったから言う訳では決してないけど、古書価格が2,0003,000円位ならばチャレンジしてみてもいいとは思うが、『豚と薔薇』に無駄な投資をするのは全然オススメできぬ。

 

 

「推理小説がはやっているからお前も書け」と周りから云われて書いてはみたものの、「推理小説にほとんど興味をもっておらず」「テーマを犯罪のナゾ解きに置くことを怠り、他のことに重心をおいた。当然、作品のぬえ(下線部は傍点)のようなものになった。」とあとがきで作者が吐露しているぐらいだから何をか言わんや。たとえミステリに関心が無いまま書いたとしても、偶然のまぐれ当たりでいいから面白いものが出来上がりさえすれば良かったのに、大阪が舞台という特色さえ活かされているとは言い難い。

 

                    


「豚と薔薇」は昭和35年に週刊誌連載、おりしも司馬遼が新聞記者を辞め作家に専念し始めた頃に書かれた。その主人公・田尻志津子は下半身がユルそうなみすぼらしい女。〝古墳保存協会〟の職員で年齢三十。何のとりえも無さそうな彼女は、二~三年の間に行きずりの男と関係を持つこと三度ばかり。志津子は尾沼幸治という男と酒場で出会い、詳しい素性さえ知らされずに度々部屋へ訪ねてこられては身体を求められるだけ、男に都合がいいばかりの情事を半年ほど続けている。

ところが聞き込みにやってきた刑事の口から尾沼の水死体が橋の下に浮かんでいるのが発見された事実を聞かされて、志津子の気持は揺れる。同時に、若い時分自分の兄の友人だった那須重吉がブン屋になっていて、事件をきっかけに再会。彼女は尾沼の死の謎を知りたいと思うのだが、たいして未練も無さそうな男の死に志津子が深入りしていくのは初期設定として弱い気がする。

 

 

「推理小説に登場してくる探偵役を、決して好きではない」という司馬遼の考えはもしかすると大下宇陀児の名探偵嫌いとも共通するのかもしれない。目を引くトリックは無くても、同じ素材を宇陀児のようなベテランの探偵作家が捌いていたら、可成マシな出来栄えになっていた可能性はある。お約束のフォーマットといおうかミステリの肝である謎が少しづつ解明してゆく展開が「豚と薔薇」の場合は雑過ぎて、特に豚の毛が手掛かりとして出現するくだりなど唐突だし、「もう少しひとつひとつの段階を踏みながら読者に提示してくれよ」と文句を言いたくなる。

最後の着地点で盛り上がる事も無く、あまりに書き方が下手なので「その程度の動機による犯罪だったんかい?」とシラケてしまう。こんな弱いネタでも宇陀児だったら市井の人間を描くドラマとして上手く料理してくれるんだがなあ。性にユルそうな志津子とこれまで性に対して禁欲に生きてきた那須重吉の関係も、より腐れ縁的なバディ風に演出すれば書き方次第ではもっと旨みが出せそうなのに。

 

                     


「豚と薔薇」は短い中篇なので「兜率天の巡礼」という短篇も併録(こちらは司馬遼初期の作にあたり現行の文庫でも読めるから別にレアではない)。多くを欲しない地味な妻の異様なる死に方を目の当たりにして、主人公である法学博士・道竜は彼女が発狂したものと考え、妻の血筋に精神病を持つ者がいないかどうか調べ始める。この短篇の出だしはgoodなのにその後はミステリの範疇から逸脱し古代史のロマンみたいな話になってしまって落胆。もっとも「兜率天の巡礼」は「豚と薔薇」と違いミステリをを狙って書かれた訳ではないから、非ミステリな展開になっていても作者を責められないのだが。

 

 

 

(銀) 今回紹介した『豚と薔薇』は淡い山吹色の函版で、あと灰色函版とカバー版、計三種類の装幀が存在している。頁数も全体で200頁と非常に薄い。司馬遼太郎好きな人のために「豚と薔薇」が再発されるとしたら、それなりの意義もあるかもしれないけれど、少なくともミステリ好きの読者向けに出したところで〝どうしようもない駄作〟なのを令和の世にアピールするだけだ。もっと他の、長年埋もれたままになっている探偵小説の発掘を望む。




2021年6月13日日曜日

翻訳者・江戸川乱歩の謎(二)

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■ 「黒い家」「赤き死の仮面」「魔の森の家」が
                 乱歩自身の訳である信憑性





前回の記事を踏まえて、問題になっている三篇が本当に江戸川乱歩自らの翻訳であるかどうか、鑑定(?)していきたい。


                   


   「黒い家」エラリー・クイーン

   「赤き死の仮面」エドガー・アラン・ポオ

   「魔の森の家」カーター・ディクスン

 

まず、生前の乱歩本人によるこれらの作品の扱いぶり。
(一)にて言及したとおり、自著に収録したのは ① だけである事と、
何故か ② は乱歩の作った自作目録から抜け落ちている事、
そういった観点から見れば、乱歩が意識していた順番は自然とこうなる。

①「黒い家」 > ③「魔の森の家」 > ②「赤き死の仮面」

 

 

次に実際読んでみて、訳文から感じ取れる乱歩らしさの順番でいうと、

②「赤き死の仮面」 > ①「黒い家」 > ③「魔の森の家」

戦前の絶頂期に見られた粘り付くような語り口を求めるなら、
訳する対象がポオとはいえ、ダントツで ② に乱歩らしさが濃い。
③ よりは ① のほうが発表時期が10年早いのもあるけれど、
「荒涼たる森林地帯の一つ家、ヴィクトリア調風の古い石造邸宅、名づけて黒い家という。」で始まる ① の語り出しには ② のテイストも少し感じられるし、〝オドオド〟や〝ニヤニヤ〟など 擬音語・擬態語が点在していて ③ よりは信用できそうなところが多い。
③にも「よござんすわ」なんて戦前の人らしい言い方は見られるのだが、決め手には欠ける。

 

                    


三番目は江戸川乱歩研究の最尖端・中相作の見解を参考にさせてもらった。

②「赤き死の仮面」 > ①「黒い家」 > ③「魔の森の家」

氏は訳文を吟味して ② に乱歩らしさを感じ取っただけでなく、
藍峯舎『赤き死の假面』に寄稿した解説にて、こう説明している。

>乱歩は自伝に〝「赤き死の仮面」を自から新訳してのせた〟と記しているが、
不要と見える「自から」という語句からは、
翻訳が乱歩の自発的意志にもとづくものであったことが窺える。
(〝 〟は見やすいように私=銀髪伯爵が「」から変換した)


プロは実に些細な部分までじっくり読み込んでおられる。そんなの全然記憶に無かったよ。前回の記事(一)で、『海外探偵小説作家と作品』の【クイーン】の項にて乱歩が ① について「私自身原作の半分ぐらいに抄訳し」と書いていることを覚えといて下さいと私が申したのは、この中相作による ② への指摘と併せて納得してもらいたかったからだ。あと ① の真贋について氏はどう考えておられるのか、質問できる機会があったら是非訊いてみたい。


         


一方、③ について『江戸川乱歩執筆年譜』の中で、このように中相作は述べている。

>翻訳作品は(中略)いうまでもなく大半は代訳で、
昭和三十一年七月の「魔の森の家」にも下訳があったことが知られている。

この下訳に関する出元の記載はされていないが、ポケミス『51番目の密室』(オリジナルは世界ミステリ全集第18巻『37の短篇』)に載っていた石川喬司、稲葉明雄、小鷹信光による座談会が情報源だと思われる。どっちも私は持っていなくて現物に当たれないから確かな判定を下せないが、どうやらその本にて ③ には下訳があったと明言されているところからこの説が発せられたのは間違いなさそうだ。「なるほど」と思う反面、そのとおりならば興醒めというかガッカリ。


                     

 

以上の検証を総合してみると、③ を100%純粋な乱歩本人の訳として扱うにはやや無理がある。翻訳された文章を読む限りでは ① より ② のほうが乱歩らしさが勝っている。然は然り乍ら、① に関しては『探偵小説四十年』の【昭和二十一年度】に引用されている当時の日記の四月十日と四月十六日の部分を読むと、他人の力が混じっていた気配を想像しにくい。創作もの「十字路」ほどではないにせよ一応「これは自分の訳ですよ」と自信を持っている節も見られなくもない。それに ① が発表されたのは戦争が終わって間もない昭和21年夏。この頃は気安く下訳を頼めるような取り巻きが、まだそれほど乱歩の周りにいないんじゃなかったっけ。

何度も言うけど、どうして乱歩は生前 ②「赤き死の仮面」を全集に入れなかったり、自作リストから漏らしていたのだろうか?桃源社版全集は翻訳オミット方針だからまあいい。春陽堂版全集へ収録する気があるなら、時期的に既に配本が終わっていたから ③ は無理でも ② なら何の問題も無かったのに

 

 

考えられるとしたらふたつ。戦前に渡辺温・啓助兄弟に頼んだポオの代訳を戦後もそのまま江戸川乱歩(訳)として再発した『モルグ街の殺人 他九篇』が春陽堂探偵双書シリーズのラインナップに入っており、そこに渡辺温の訳した「赤き死の仮面」も含まれていた事が原因ではなかろうか?

もし春陽堂版乱歩全集終盤の巻に自分で訳した「赤き死の仮面」を収録してしまうと、乱歩名義の二種類の異訳が春陽堂から出される『モルグ街の殺人 他九篇』と乱歩全集とでバッティングし、同時期に書店に並ぶことによって読者に混乱を招くのを恐れたから。乱歩が ② を春陽堂版全集に収録しなかった理由はこれしか思いつかない。

もうひとつは「赤き死の仮面」の自分の訳が渡辺温に勝てるという自信をどうにも持てなくて、自分の訳には極力スポットライトが当たらないように細工したため。細かい乱歩が自作リストに自分の訳した「赤き死の仮面」をわざと記さなかった理由があるとすれば、これでしょ。


                    


戦後まったく創作意欲が湧いてこないのであれば、その間だけでも翻訳業に打ち込む選択肢とて乱歩にはあったのではないか。「幻の女(ファントム・レディ)」と「トレント最後の事件」は途中まで翻訳しており、後者など雄鶏社の推理小説叢書 9として刊行予定リストに上がっていた事までハッキリ解っているのだから。「トレント」を訳している途中で、日本がそれまでのように無断翻訳する事ができなくなったから止めてしまった、と乱歩は言っているが、それを無条件に信用していいものやら。

探偵小説界のキングとして君臨していくには実作(特に本格長篇)があったほうが理想ではあるにせよ、評論仕事は充実していたとはいえ、悲しいかな、いくつかの作を除けば創作は少年ものばかり。だったら戦後は翻訳者としてやっていった方が探偵文壇の中で格好が付いたような気もするけれど、翻訳仕事のメインに据えるのは大乱歩の意に沿わなかったか。もっとも、そうしようと思っても(同業作家含め)周りが許してくれなさそうなのもあるし、自分の売る本の主力が翻訳ものになったら、少年ものほどの莫大な収入を得るのは難しくなる。やっぱ無理?




2021年6月10日木曜日

翻訳者・江戸川乱歩の謎(一)

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■ 名義貸しではなく、乱歩自身で翻訳した作品とは?





いっそ海外ミステリ翻訳者として活動するプランを、大乱歩は一度も考えなかったのだろうか?四年のブランクを経た戦後の新作は少年もの「青銅の魔人」の連載が開始される昭和241月、大人ものになると翌昭和253月の「断崖」まで待たなければならない。天皇の玉音放送以降、「新作が書けない・・・」と乱歩が思い始めるのはいつ頃なのか知る由もないが、この時期こそ翻訳に手を染めてみるには絶好の機会だった筈。


                   

 

江戸川乱歩の翻訳といっても名義を貸しているだけで実際書いたのはどれも第三者、そんな常識が刷り込まれていたものだから長い間〝乱歩自身の翻訳〟については気に留めなくて当り前、という感じだったし、正直言って真剣に考える事もなかった。図々しくも江戸川乱歩について大概の事は知っているつもりでいたが、よくよく自問してみたら〝乱歩自身の翻訳〟について曖昧にしか理解していない自分に気が付いた。バッタもんの訳ばかりの中で乱歩が自分の手で翻訳したと信じられるものはいくつあるのか?注意して乱歩著書を再読すると、例外と言えそうな作品が三つ存在している。



   「黒い家」エラリー・クイーン     昭和2167月  『旬刊ニュース』

   「赤き死の仮面」EAポオ                   昭和2411月   『宝石』

   「魔の森の家」カーター・ディクスン  昭和317月     『EQMM



このうち、乱歩生前の著書に収められたのは ① のみ。
『海外探偵小説作家と作品』における【クイーン】の項を読むと、
『旬刊ニュース』の編集者が「一つ抄訳をしてもらいたい」と言ってきたので、
「私自身原作の半分ぐらいに抄訳し(中略)四回に亘って連載した。」と書いてある。
(ここで「私自身」と乱歩が述べている事を、次回の記事まで覚えていてほしい)

① は春陽堂版江戸川乱歩全集第15巻『化人幻戯』(昭和30年刊)に、
初出時の「黒い家」から原作どおりのタイトル訳へと改めた「神の燈火」として収録。
春陽堂版全集の巻末解説は中島河太郎が担当していて、
この巻の中で乱歩による ① に対してのコメントは無し。その後、春陽堂版全集のテキストを再利用したと思しき昭和30年代の春陽文庫/江戸川乱歩文庫16『三角館の恐怖』にも ①(「神の燈火」)は収録されていた。

 

 

昭和40年に乱歩が亡くなって、そののち出された二度の講談社版全集しかり、
乱歩著書において暫くの間これらの翻訳ものは陽の目を見る機会が巡ってこず、
次に読者の前に姿を現すのは、江戸川乱歩推理文庫第47巻『海外探偵小説作家と作品3』(平成元年刊)。この巻にボーナス・トラック的な扱いで ①と③ が収められる。

ここで江戸川乱歩推理文庫第65巻『乱歩年譜著作目録集成』でもいいし、
光文社文庫版江戸川乱歩全集第29巻『探偵小説四十年(下)』でもいいのだが、
その二冊に載っている「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」を見て頂きたい。
 ①と③ は各発表年度冒頭の【小説】欄にしっかり記されているのに、どういう訳か ② だけは(江戸川乱歩推理文庫に収録されなかったばかりか)この目録からも漏れていた。
こういうデータに細かい乱歩が記載漏れをするなんてありえるかな?

また江戸川乱歩推理文庫を編纂する際に、中島河太郎は ② の扱いをどう考えていたのだろう?江戸川乱歩推理文庫で初期に配本された巻のカバー袖に記載されているその後の収録予定を見ると、第46巻は当初『黄金虫』(原作ポー)収録と告知されていたので、そこに ② も予定されていた可能性はある。結局のところ収録内容が変更され、「黄金虫」なりポーの巻自体が収録予定から外された時に ② も道連れになって消去されてしまったか。


                    

 

話は前後するけれど、生前最後の桃源社版全集には「翻訳は載せない」と明言してあるから仕方ないとして、江戸川乱歩推理文庫からまた少し年月が過ぎ、平成15年に配本が開始された光文社文庫版江戸川乱歩全集の時には、前回の江戸川乱歩推理文庫の終盤の巻に入っていた随筆の類いで、こちらに入らなかったものがいくつかあったのは至極残念だった。その漏れた随筆の巻き添えを食って、という訳でもなかろうが、光文社文庫版全集で翻訳ものは一切スルーされている。想像するに監修者の山前譲と新保博久は編集部の意向もあって、桃源社版全集と同じく自作に限定する方針を選んだのかもしれない。

 

 

21世紀まであと数ヶ月、ノストラダムスの大予言が外れたと安堵したら、今度は2000年問題を人々が不安視していたその頃、乱歩研究の救世主として中相作が『名張人外境』を開設、その後の氏の活躍ぶりは今更述べ立てる必要もあるまい。その中相作が ② をまごう事なき乱歩自身による翻訳だとする言説を披露したのが平成10年刊の『江戸川乱歩執筆年譜』。氏はこの本の21~22ページにて、乱歩名義「赤き死の仮面」を九行サンプルとして提示し「例外的に乱歩自身の訳だと考えて差し支えないと思われる」と記した。

この時はまだ光文社文庫版全集が発進する五年前だったから、あの全集に入れようと思えば十分可能だったのにそれはなされず、乱歩訳「赤き死の仮面」が初めて単行本に収録されるのは、藍峯舎の豪華本第一弾として世に放たれた『赤き死の假面』(平成24年)。初出から実に63年もかかったのだ。読んでみると原文がもともと修飾的美文調であるせいか、①~③の中では最も乱歩の体臭が伝わり易いテキストになっていて、これを「本当に乱歩が訳したの?」と疑う余地は無いように感じる。これが今迄なぜ乱歩全集に一度も収録されなかったのか、むしろそっちのほうに首を傾げてしまう。


                     

 

藍峯舎『赤き死の假面』は限定発売ゆえあっという間に売り切れてしまったけれど、乱歩の訳文なら『怪談入門 乱歩怪異小品集』に収められているし、解説部分だけなら中相作『乱歩謎解きクロニクル』で読む事が可能。①と③は現行本に入っていないため、古書で江戸川乱歩推理文庫第47巻『海外探偵小説作家と作品3』や春陽堂版江戸川乱歩全集第15巻『化人幻戯』、あるいは初出誌を探す必要がある。そんなこんなで今日は①~③の収録書籍を再確認してみたが、私の頭の中に渦巻く乱歩翻訳に対する疑問は依然として消え去ってくれないのだった。


 

 

(二)へつづく。




2021年6月7日月曜日

『狩久全集/第四巻/墜ちる』狩久

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皆進社
2013年2月発売



★★★★★    The Crime Of Sex




前回(202159日の記事を見よ)取り上げた第二巻での陶酔感の強い性愛作品に比べると、この巻でもセックス・マターはキープされつつ導入部分のとっかかりに利用される事が多くなりダークな犯罪心理のほうが頭を擡げてきた。そして読めば誰でもわかるから手取り足取り説明はしないけれど、江戸川乱歩作品のDNAがあちこちに散らばっている。なにげに乱歩チルドレンであるのが丸出し状態。

 

                     


作品を眺める前に、本巻は狩久と近しい関係にあった立石敏雄のインタビューを収録していて、その中にすごく感銘を受ける箇所があったので、そこから触れていきたい。

 

 

なんでも立石は当初「狩久作品における女性の喋り方は(発表された昭和30年代の頃の)現実と乖離してるのでは?」と気になっていたらしい。

しかし〝大正から昭和八年頃までの東京には、きわめて文化的に高度な中産階級/西欧化したおしゃれな都市生活が確かにあって、狩久は中学生くらいの年齢だったにせよ、その良き時代が頭に焼き付いたまま独特の世界観が頭の中に出来上がっている〟という真相に辿り着き、それゆえ狩久作品の女性達は皆ああいう喋り方をしているのだ、と後になって気が付いたという。戦後の日本には「昭和八年に帰ろう」という運動があったそうだが、さもありなん。戦後の女性でありながら、狩久の描く女性達ってアプレやパンパンとは全然佇まいが違っているもんな。

本全集を読んでいて、登場してくる女性キャラを「戦前っぽいな」と感じた事は私は一度も無かったけれど、良い話だね、これは。

 


                    



「女の身体を探せ」「蜘蛛」

前者は貝弓子(訳)クレジットで海外作品翻訳のふりをしたハードボイルド・タッチの創作。
外人女性よりやっぱり日本女性を扱ったほうが潤いがあっていい。
後者も貝弓子名義の掌編で珍しく穏やかな結末。

「すとりっぷ・すとおりい」

いつもの濃厚なエロス・・・と思わせといて〝らしくない〟オチには苦笑。



 

「女は金で飼え!」

一職工から財産を築き、美しい妻も得た男は事故で不具の身に。彼よりも彼の財産を愛している妻に対して、男はある異常な行動に出る。狩久が手応えを感じていた作品だが、編集部によって変更させられたこのタイトルはセンスが悪く内容にもフィットしていない。

 

「暗い寝台」

第二巻にも、というか狩久によく見られる、夜やってくる賊に女が襲われるパターン。

 

「鸚鵡は見ていた」

カッチリした本格ではないけれど、なかなかトリッキーに出来上がっている。
探偵役が謎を暴き立てるような締め括り方を選択しないのがこの作家の特徴とも言える。

 

「墜ちる」「ぬうど・ふぃるむ物語」「墜ちた薔薇」

テレビなど映像業界でも活躍していた狩久。この辺はそっち方面の要素を活かした作品。
川野京輔のように、自作を業界もの一色にしてしまわなくて正解だった。
全部が全部テレビ業界ミステリだと、さすがに読む側も飽きてしまいそうで。


 

 

「暗い部屋の中で」

官能よりもリドル・ストーリーな演出に重きを置く。

「たんぽぽ物語」

探偵小説マニアの学生たちの一人として瀬折研吉登場。風呂出亜久子がいないとつまらない。
ユーモア・ミステリ扱いされているけれどユルユルになり過ぎていない点はまだよろしい。
でも〝おめかし・ジョオ〟というネーミングは無いわ。

「石」

第二巻に入っていた作品の改稿版。
胸を病み、性的なものを嫌悪している夏子は赤の他人の逢引通信方法を知ってしまう。

「覗かれた犯罪」

江戸川乱歩の某作品に隣接している背中合わせの二軒の家なのにそれぞれ全く町名が異なることで実際よりも遠く感じさせる、というトリックがある。この物語にもその趣向がある訳だけど、この手の錯覚はすべてにおいて情報量が少ない時代だったから成立したのだろうか?
GPS や google Map の今ではどうにも成立させにくい詭計。

「雪の夜の訪問者」

〝秀ちゃん吉ちゃん〟ネタをさんざん振っといてタチの悪い結末。まったく、もう。

 



「天の鞭」「過去からの手紙」「水着の幽霊」「女妖の館」
「流木の女」「別れるのはいや」

避暑地の海岸で出会った女と抜き差しならぬことになる作品群。
似たような滑り出しで始めながら、どれもそんなにマンネリを感じさせないのが偉い。

 

「邪魔者は殺せ」

これはあれですよ、姑息なアリバイ作りよりも「私は単に、女という言葉によって象徴される性の充足のみを求めていたのだ。その女が多美子である必要は全くない・・・」という主人公男性の言い分がポイントで。「こんな男は身勝手もいいとこで許せん!」と青筋立てて怒るようでは狩久の世界は楽しめないよ。



ここまで小説を書いたあと映像業界での仕事が中心となってゆき、
作家・狩久は長い長い休眠に入ってしまうのだった。



(銀) 本巻はどれもが性愛のアバンチュールに浸るようなプロットではないけれど、本来なら狩久の小説は探偵小説読者だけに限らず大人の女性がベッドに入って眠りに就くまでのひとときに毎晩少しづつコッソリ楽しむような、そんな読まれ方がされるのを私は望んでいる。



しかし現実にはこの全集は超高額商品だったので、非常に限られた層にしか行き渡っていない。モノ(本とか)をしこたま買って自慢する事でしか自分のアイデンティティを保っていられず、実際に女性と付き合う機会は皆無で「ポケモンや小学生と結婚したい」などと呟き、この全集の古書価格の高騰ばかり気にしているキモい中高年オヤジに買い占められているのは(検索するとヒットするのはいつも同じ人物)狩久にとってもきっと望まざる不快な状況に相違ない。




2021年6月4日金曜日

無駄話

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このblogを公開し始めたのは昨年615日のことだった。少し余裕を持たせて何回分かの記事を書き溜めておけるよう、その十日ぐらい前から仕込みを開始したっけ。あれからまだたった一年しか経ってないとは・・・・。blog○周年とか、anniversaryをアピールする気持ちなんて特に無いけれども、ここ最近記事を書きたくなるような新刊本が全く出ないものだから、このような楽屋噺、いや無駄話でもってお茶を濁そうという魂胆である。

戦後のジュヴナイル作品である橋爪健『熱砂の美少年』を今回の記事にしようかなとも考えたのだが、特に言いたいことも無くて止めてしまった。強いて一言述べておくならこの本、ヤフオクでの入札がキチガヒじみてヒートアップし、高畠華宵が挿絵を描いているからなのか二万近くにも達する暴価で最近落札されていた訳。そこまで熱くなって買う程の内容でもないので、ご注意あれ。


                   



『バードス島綺譚』に使用しているのはGoogleが提供しているBloggerというブログサービス。blogで小銭稼ぎをしようとは考えてなかったし、利用がタダなのは必須条件であり、なおかつ世間のブログを見ていて広告というものがいつも邪魔臭かったから、あれを一切表示せずにすむのが気に入って利用するに至った。このBlogger、本来はアルファベット表記をベースに設計されているのか、日本語だと変な現象が起こるのが玉に瑕。それ以外は実に快適なのだけれど。



ブログには普通、同じテーマの記事だけを選び出して見られるよう、各記事に目印代わりに付ける〝タグ〟という機能がある。Bloggerではそれが〝ラベル〟という呼び名になっているのだけど、私の記事に付けているタグ、じゃなくてラベルは、アルファベットでなく日本語で表記しているからなのか、画面右横のラベル一覧を見ると、システムが漢字を実に曖昧なローマ字読みで自動認識し、順列を成しているらしい。例えばカタカナ表記の海外作家の下に漢字表記の日本人作家の名がズラッと並んでいる。

202164日現在だと、漢字表記の日本人作家で一番上にきている鮎川哲也→井上良夫までは〈あ行〉の【あ】【い】で読み取っているのだろうが、その次に永と延を【え】と認識してしまったのか、本来なら〈な行〉でもっと下の位置にあるべき永瀬三吾(ながせ・さんご)→ 延原謙(のぶはら・けん)が続く。そんな奇妙なラベルの順列を私はさして気にしないけれど、第三者が見たら不自然に感じたりしないだろうか。



変な現象はもうひとつあって、blog画面の右上「このブログを検索」という枠の中になにかワードを入れて検索してみると、当然、投稿の新しい順に記事が上から下へ並んで出てくるものだと思っていたら、なぜかアトランダムに表示されるので、この点は私も気になる。ラベルの表示順列といい、検索した記事の表示順列といい、どこかをいじれば改善されるのかもしれないけど、めんどくさいからそのままにしている。

記事を書く際にも(実際Bloggerの管理画面をお見せしないことには、説明してもなかなか伝わりにくいのだが)、文章の途中で一箇所でも下手ないじり方をすると、急にそのセンテンスすべての字体までもが変わってしまったり、鬱陶しい事態になる。すぐに慣れたから問題ないとはいえ、他のブログサービスでも似たようなことが起きる作りになっているのか、どうなんだろう?


                   



世の中のブログはとても便利にデザインされている。
それに比べて、当blogのなんと不親切なことよ。

関連する他の記事へ飛ばすリンクは全然張らないわ、コメント欄は完全閉鎖しているわ、最低限の画像をupするだけで動画を埋め込むことなどひとつもしないわで、我ながら呆れる。ただ私もblogだけにそう時間を割いていられるほどヒマでもない。文章の内容や見せ方を考えているうちに、いつの間にか時間を費やしていて、これ以上手を加えていたら何もできなくなってしまう。まあ結局は自分の為のblogであって、「いつも閲覧してます」と声を掛けて下さった奇特な方は今までおひとりだけだし(なんで私が銀髪伯爵だとわかったのかしらん)、これからも多分この雰囲気を変える努力はしないだろう(アア、ナント怠惰デアル事カ)。

内容のある知的なHPを何年も維持させ発信し続けている人は立派だなあ、と感心するばかりだ。『名張人外境』とか『本棚の中の骸骨 藤原編集室通信』とか。



中国がcovid-19を世界中にばら撒いた直後、たまたまblogをスタートさせてしまい、ここまで新刊本が出ない状況になるとは予想だにしてなかった。過去に読んだ本も記事にしてはいるけど、新刊なら読み終わったばかりですぐ感想を書きやすい一方、読了して時間が経っている本をわざわざライブラリーから探し出し、再読こそしないまでも、パラパラ頁をめくって記憶を引っ張り出すのは、それはそれで手間がかかる。

そういう不便さを考えたら「本のblogじゃなくて音楽のblogにしといたほうが楽だったな」と思う時もなくはないが、それでもまだ活字の世界のほうが未知の作品に出会える埋蔵量がほんの少し多く残されているような気がして、音楽のblogだと作りたい欲求はどうも湧いてこない。ミステリ業界も音楽業界もお先真っ暗なのはどちらもたいして大差ないが、このblogで扱うテーマを探偵小説にしたのはそんな理由から来ている。




(銀) 本当なら今月から、あるちょっとした連載企画を始めるつもりだった。
しかし、それに不可欠な資料の複写コピーを入手することが理不尽な理由で全くできぬまま企画が袋小路に入っており、私は怒っている。そのネタでblog数回ぶんもの記事が書けそうな程なんだが、思うところあって今はまだ自重している状態。時が来たら、この話の実情をあらいざらい披露してやるつもり。



それと、本文とは全く関係の無い話題をひとつ。以前、記事の中で言及したCD-ROM版『シャーロック・ホームズ全集』(新潮文庫)だが、windows XPの頃に問題なく再生できていたので、いつでも使えるものだとばかりたかをくくっていたら、今日PCに入れてみると全く再生できないし、改めてアプリケーションをDL+インストールすることさえ不可能になっているのを知った。殆どいないとは思うけれども、CD-ROM書籍をお持ちの方がもしいたら参考まで。新潮社の人間曰く「95/98の時代に発売された商品ですから、昔のOSで見るしかないんです、すいません」だと。数年ぶりに再生しようとしたら、すっかりただの可燃物ゴミと化していたのである。



電子書籍なんて買いたくないのは、ちょっと時間が経つとおしなべてこんな詐欺同然な目にあうからなのだ。そういえばワーズギアなんていう、発売してたった二年で消滅した電子書籍端末もあったね。何万円も出してあれを買わされた被害者は世の中に何人いるのやら。





2021年6月1日火曜日

『1960年代日記』小林信彦

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ちくま文庫
1990年1月発売



★★★★★   個人的でありながら何とポップな日記




何も無いゼロから新しいものを生み出すのが〝小説〟だとするならば、
小林信彦という人は小説家にはあまり向いていない。
批評する対象がまずあって、それをしつこく突き詰め咀嚼し自分なりの〝ひとつの表現〟として編集する才のほうが彼は長けている。「喜劇人」本も『小林旭読本』もそうだし『文春』コラムで長く続けている映画評論にしたって同じ、彼のハラワタから形を成して出てきたものだ。

小林の書く小説は一通り読んできたけれど、自分自身の投影(怨念のこもった内容が実に多し)あるいは既に存在しているテーマや偶像のパロディ、このふたつの要素に集約される気がする。あれだけミステリにもSFにも詳しいのに、その方面でオリジナリティあふれる飛び抜けた成功作は無い。小林の場合は小説以外の仕事がどうやっても小説仕事に勝ってしまう。

 

 

先日『「新青年」趣味』の記事で「探偵作家の日記って、どうしてこんなに面白いんだろう」と洩らしたが、この言い方は正しくなかった。ブライアン・イーノ『A Year』等の例を挙げるまでもなく、興味を抱いている人の日記だったら探偵作家じゃなくてもそりゃ飛びつくでしょ。最初から商売目的で書かれていない無責任さが好ましいし、余計な修飾が無いぶん日記本は何度でも読み返せる。まして小林信彦は活字の世界のみならず、番組の中で北島三郎と一緒に歌を唄ってしまうほど黎明期のテレビ業界とも係わりが深かった多面体な人。『横溝正史読本』だけでなく重要な一冊である日記本の魅力に世間がちっとも気付いてくれないから、今回はこの本にズームイン。

 

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小林は幼少期から欠かさず日記を書いていて、出版社から「60年代を背景にした小説を」という要望が来て、こういう形へと落ち着いたそうだ。「これは正確には日記(抄)である」と断っているのは、本書の原文である60年代に書いた個人的な日記の中から〈時代の表出〉にマッチし、なおかつ特に小林がこだわりたかった部分だけを選りすぐっているため。世に知れるとヤバそうな箇所を全て抜いていったとしても、19591970年分の日記をもれなく収録してたら、とても単行本一冊じゃ足りそうにないもんね。

 

 

小林信彦個人史的で見ると『ヒッチコック・マガジン』の立ち上げに始まり、井原高忠との付き合いを中心としたテレビ・ラジオでのマルチタレント業、そして宝石社の退職、作家を目指すもすぐに結果は出ず、小さな雑文業で食い繋いでゆくうち『喜劇の王様たち』出版の話が来る、といった2637歳の時代。この10年の重大ニュースとして本書にて言及されている中では、最後のほうに出て来る〝三島由紀夫自決〟もショッキングだが、なんといっても注目は〝東京オリンピック〟であろう。あの頃から小林は日本でのオリンピック開催を嫌っており、どうやら今回の令和 Tokyoオリンピックは彼にとって前回以上の憂鬱な日々になりそう。同じくオリンピックの日本開催否定派を貫いてきた久米宏は今何を考えているのか。

 

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好きな人間と嫌いな人間に対する意識の差が実に極端、という傾向もある。
「こんな嫌いな奴の事なんて日記に書く必要ないのに」と私なら思ってしまうようなことでも、彼は書かずにはいられないのだろう。とはいえ『ヒッチコック・マガジン』編集長を降ろされる前後の経緯は『夢の砦』に書いたせいか、ここでは省略された。芸能界と小説執筆の舞台裏に関する分量は申し分ないとして、江戸川乱歩及びその周辺についての生々しい情報がもう少し知りたい。日記の原文には書いてあって、本書にする時カットしたのかもしれないが。それとのちに彼が地味ながら食道楽になるのは、この時代にテレビ関係者と会食する機会が増え、シャレた食い物の味を覚えたからに違いない、と私は見ている。

 

 

若くて血の気が多かった頃の信彦氏の一挙手一投足は自然と、もう戦後ではない日本の首都東京で起きていた60'sカルチャーの貴重なレポになっていて、失礼を承知で言わせてもらうならば、もし小林信彦が天命を全うしたなら通常の作家のような ❛小説をメインとした全集❜ ではなしに ❛日記全集❜ で追悼して頂きたい。だって小説もエッセイも評論ものも数が多すぎて、今時そんなボーダイな巻数になる全集なんてどこの出版社も出そうとしないだろ。

でも日記の全集ならば・・・本書のように各10年分を一冊にeditしてみるとか。最大の理解者である賢夫人の奥様に本当は編纂をお願いしたいところだが年齢的に難しそうだし、編集者の仕事をしている娘さんならどうか? 小林本人がまだ健在なのに調子に乗って没後の話をするのもアレだけど、『小林信彦日記全集』が刊行されたらきっと過去に前例のない時代観察資料になる。


 

 

 (銀) 余談をいくつか。本書の初刊である白夜書房版単行本は『小林信彦60年代日記』という書名で発売された。残念ながら、そちらは持っていない。日テレが『ズームイン!! !』を始めるきっかけを作ったのも井原高忠。昔から私は夜型ゆえ朝テレビを見る習慣がなくて、あの番組をじっくり見た事が一度もない。それと本書を読んでビックリするのは、この時代の芸人には字を読めない人がいたということ(視力が弱いという意味ではない)。彼らのステイタスがあまりに低かったのは、こうした貧しい出自と無関係ではあるまい。

 

 

横溝正史の生前に刊行された幾つかの著書に収録されていた日記(抄)が、文庫化の折、すべて削除されてしまい、現在に至っていることは前にも述べたかもしれない。プライベートな記述があって、それを家族が嫌がるのであれば、そういう箇所はdeleteしてかまわないからせめて創作に関して語っている部分だけでも拝読させてほしい、というか一切合切闇に葬るのだけはヤメテクレ。正史の娘が結婚する前にお見合いがポシャっていたとか、少なくともそんな話は私の興味の対象ではないのだから。