2021年6月16日水曜日

『豚と薔薇』司馬遼太郎

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東方社
1962年3月発売



    レアなミステリだからと有り難がる必要無し




歴史小説の超大物として罷り通っているこの人の非常に稀少なミステリ作品は再発される気運が全く無いものだから古書市場で珍重されている・・・というのが世間の定評。遠慮なく感想を述べさせてもらうと面白くもなんともない小説である。ミステリ目的ではなく、ピュアに司馬遼太郎作品を制覇したいから高額突っ込んで古書を買ったという人もいるだろう。そんな司馬遼マニアでさえ「つまらなかった」と少なからず肩を落としたのでは?自分が安価で購ったから言う訳では決してないけれど、古書価格2,0003,000円位ならチャレンジしてみてもいいとは思うが『豚と薔薇』に無駄な投資をするのは全然オススメできぬ。

 

 

「推理小説がはやっているからお前も書け」と周りから云われて書いてはみたものの、「推理小説にほとんど興味をもっておらず」「テーマを犯罪のナゾ解きに置くことを怠り、他のことに重心をおいた。当然、作品のぬえ(下線部は傍点)のようなものになった。」とあとがきで作者が吐露しているぐらいだから、何をか言わんや。たとえミステリに関心が無いまま書いたとしても偶然のまぐれ当たりでいいから面白いものが出来上がりさえすれば良かったんだけど、大阪が舞台という特色さえ活かされているとは言い難い。

 

                    


「豚と薔薇」は昭和35年に週刊誌連載、おりしも司馬遼が新聞記者を辞め作家に専念し始めた頃に書かれた。その主人公・田尻志津子は下半身がユルそうなみすぼらしい女。〝古墳保存協会〟の職員で年齢三十。何のとりえも無さそうな彼女は二~三年の間に行きずりの男と関係を持つ事三度ばかり。志津子は尾沼幸治という男と酒場で出会い、詳しい素性さえ知らされず度々部屋へ訪ねてこられては身体を求められるだけ、男に都合がいいばかりの情事を半年ほど続けている。

ところが聞き込みにやってきた刑事の口から尾沼の水死体が橋の下に浮かんでいるのが発見された事実を聞かされ志津子の気持は揺れる。同時に若い時分自分の兄の友人だった那須重吉がブン屋になっていて事件をきっかけに再会。彼女は尾沼の死の謎を知りたいと思うのだが、たいして未練も無さそうな男の死に志津子が深入りしていくのは初期設定として弱い気がする。

 

 

「推理小説に登場してくる探偵役を、決して好きではない」という司馬遼の考えはもしかすると大下宇陀児の名探偵嫌いとも共通するのかもしれない。目を引くトリックは無くても同じ素材を宇陀児のようなベテランの探偵作家が捌いていたら可成マシな出来栄えになっていた可能性はある。お約束のフォーマットといおうかミステリの肝である謎が少しづつ解明してゆく展開が「豚と薔薇」の場合は雑過ぎて、特に後半で豚の毛が手掛かりとして出現するくだりなど唐突だし、「もう少しひとつひとつの段階を踏みながら読者に提示してくれよ」と文句を言いたくなる。

最後の着地点で盛り上がる事も無く、あまりに書き方が下手なので「その程度の動機による犯罪だったんかい?」とシラケてしまうのだ。こんな弱いネタでも宇陀児だったら市井の人間を描くドラマとして上手く料理してくれるんだがなあ。性にユルそうな志津子とこれまで性に対して禁欲に生きてきた那須重吉の関係も、より腐れ縁的なバディ風に演出すれば書き方次第ではもっと旨みが出せそうなのに。

 

                     


「豚と薔薇」は短い中篇なので「兜率天の巡礼」という短篇も併録(こちらは司馬遼初期の作にあたり現行の文庫でも読めるから別にレアではない)。多くを欲しない地味な妻の異様なる死に方を目の当たりにして、主人公である法学博士・道竜は彼女が発狂したものと考え、妻の血筋に精神病を持つ者がいないかどうか調べ始める。この短篇の出だしはgoodなのにその後はミステリの範疇から逸脱し古代史のロマンみたいな話になってしまって落胆。もっとも「兜率天の巡礼」は「豚と薔薇」と違いミステリをを狙って書かれた訳ではないから、非ミステリな展開になっていても作者を責められないのだが。

 

 

 

(銀) 今回紹介した『豚と薔薇』は淡い山吹色の函版で、あと灰色函版とカバー版、計三種類の装幀が存在している。頁数も全体で200頁と非常に薄い。司馬遼太郎好きな人達の為に「豚と薔薇」が再発されるとしたらそれなりの意義もあるかもしれないけれど、少なくともミステリ好きの読者向けに出したところで〝どうしようもない駄作〟なのを令和の世にアピールするだけ。もっと他の、長年埋もれたままになっている探偵小説の発掘を望む。