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むさし書房
1949年12月発売
★ 表層的でしかない少年怪奇探偵小説
龍膽寺雄や浅原六朗が名を連ねる〝新興芸術派〟って、反プロレタリアを志向する集団みたいに云われてなかった?佐左木俊郎なんかプロレタリア臭、出しまくりじゃん。どういうこと?私もまだまだ昭和初期文学の修業が足りないようだ。モダニズム小説でも悲惨小説でも、自分の感性に合うならジャンルは問わない。ただ、純粋に面白い!と思える作品、なかなか無いんだよね。
浅原六朗の仙花紙本『怪船の恐怖』は中篇二作を収録している。如何せん江戸川乱歩「少年探偵団」シリーズを矮小化したも同然のジュヴナイルゆえ魅力に乏しく、わざわざBlogの記事にする必要も無かったんだけど、中途半端に手を付けてしまったからには気力を振り絞って(?)書き上げよう。(「記事にしようかな」と思いつつ、どうにも面白くなくてボツにしたジュヴナイルは今迄にも数点ある)
「恐怖の怪屋」
二七の縁日で遠山敬三ら中學生達が遭遇した片眼の占者。その男の不気味な託宣が現実となり、敬三の友人・佐藤吉哉は武蔵野の洋館へ足を踏み入れたまま、行方がわからなくなってしまう。男は敬三に「俺にはな、お前たちのような少年が必要なのだ。」とうそぶくものの、吉哉だけでなく沖島博士の令嬢・美代子まで標的にされる理由が見えてこない。
ストーリーを牽引する探偵がいないぶん、悪のキャラをどう立たせるか、そこがポイント。片眼の怪人の場合、生身の正体は謎だけど、老人にも若く美しい女にも化けられるらしい。ここまで風呂敷を広げた以上、吉哉達を拉致した目的ぐらい語らせるべきなのに、場当たり的なエンディング数行の説明で片付けちゃダメよ。その上、最後の見せ場を作ることも無く、怪人はいつの間にか姿を消してしまってドロン。これじゃ読者は納得しないゾ。
「怪船の恐怖」
「恐怖の怪屋」より更に尺は短め。科学界の権威・重村博士、その息子・一郎が怪博士ゾルレンと闘う物語。「恐怖の怪屋」共々目に付く欠点は、ジュヴナイル探偵小説っぽい要素を表面的に継ぎ接ぎしているところ。どれだけ怖そうな場面やアクション・シーンを繰り出しても、悪人の成し遂げたい野望がしっかり伝わらないんじゃ読み物として失格だろう。
浅原六朗は少なからず少年少女小説を手掛けており、たまたまその中にジュヴナイル探偵小説と名の付くものがあるだけで、特段ミステリに関心を抱いていたとは考えにくい。小説家としての力量を語れるほど私は浅原の作品を知っている訳ではないけれど、探偵小説を書くのであれば、最低限どのような点を押さえておかねばならないのか、その理解が欠如しているのでは・・・と思った。とにかく乱暴に書き飛ばしている感アリアリ。
(銀) こういう箸にも棒にも掛からぬジュヴナイルを過剰に持ち上げて騒ぐのは森英俊や小山力也(古本屋ツアー・イン・ジャパン)みたいな、いわゆる〝転売ヤー〟だけ。浅原六朗を研究している方、及び熱心なファンならともかく、普通に見識のある大のオトナが涎を垂らして喜ぶ本ではありません。
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