同じ内容の小説でもどういう訳か現行本で読むより、年季の入った旧仮名時代の古書で読むほうが、面白さ二~三割増しに体感する。戦前の本は総ルビだったり、味わい深い装幀が施されていたり、字をぎゅうぎゅう詰めに組んだ現代の本と違い、ゆったりした文字組みにされているので不思議と作品から受ける印象が大きく違う場合も多い。となると時にはその小説の真価を見誤ることだってありうるのではないだろうか?
房総の田舎で代議士が危険分子集団に襲撃される事件が発生。そして危険分子の中には、代議士と同じ党派の衆議院議員 青堀周平宅の使用人・瑞沢嘉知雄も加担しているのでは・・・・と見られている。元々瑞沢家は素封家で、嘉知雄の父は青堀周平の面倒を見ていたのだが、事業を躓かせた為に零落。父母を亡くし天涯孤独の身になった嘉知雄は青堀家の下男同様に成り果ててしまっていた。
瑞沢嘉知雄は本当に危険分子の一味なのか? また青堀周平の娘・洋子との恋愛はどうなるのかという要素はあるけれど、彼をこの物語の主役とするには無理があるし、物語の大筋は危険分子対警察との争闘であって、個人主義に基づく探偵小説のポリシーにはどうもそぐわない。
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もうひとつの長篇「恐怖城」も、基本的にその問題点は一緒。森谷牧場の令嬢・紀久子には男前の婚約者 松田敬二郎がいる。両親を紀久子の父・森谷喜平に滅ぼされ、今では犬のように牧場でこき使われている高岡正勝は、幼馴染で本来自分の嫁になる筈だった紀久子のことだけはどうしても他人に奪われたくない。そんな中、紀久子が誤って正勝の妹・蔦代を射殺してしまう。紀久子の弱みを握ってしまった正勝は自分の欲望を果たす為に喜平を殺害し・・・。
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結局「狼群」も「恐怖城」もストーリーの中で犯罪こそ起こっているが、根底にあるのは〈富める者に対する貧しき者の抵抗〉、それが全てではないのか。私は戦前の農民小説って他にどんな作品があるのか不勉強で知らないけれど、もしかしたら人間と大地の営みをポジティヴに描いているものだってあるだろうし、農村を題材にしたものが貧者の鬱屈した小説ばかりという訳でもなかろう。
であればこの二長篇は、戦前の社会派ならぬ格差小説とでも言うべきか。佐左木俊郎は文壇の中ではプロパーなプロレタリア作家のグループに入れてもらえなかったと解題には書いてあるし、かといって探偵小説の在り方からもかなり逸脱しており、実に奇妙なポジションにあるのは否めない。幸いにして今後取り上げる予定の正木不如丘などに比べたら、佐左木のほうが読者を惹きつける筆力は勝っている。「熊のいる開墾地」のような短篇のほうがまだ長篇よりも探偵趣味が感じられるし、次回配本『Ⅱ』は短篇集になるのでどれだけ挽回できるか?