本書「はしがき」にて、怪談を執筆するにあたっての自論を山田風太郎は述べており、そこには二つの要点が含まれている。ひとつめは、【怪談とは徹底して荒唐無稽なものでなくてはならないし、泉鏡花ほどの天才的文章力がなければ書き手の自己満足に終わってしまい、読者からは単に馬鹿馬鹿しいと思われるだけ】という事。
ふたつめは、【宗教も一種の怪談だと考えていて、大昔のキリスト/釈迦/孔子に匹敵する影響力を持つ宗教家が爾来出現しないのは、キリストらのあとの時代にだって彼らクラスの傑物は実際生まれているのかもしれないけれど、世界はもう後出の傑物には心動かされなくなったのではないか】という事。
頷ける話である。風太郎の言う宗教を例えば商業音楽に、キリストや釈迦をビートルズやボブ・ディランに置き換えることもできよう。科学の世界とは違って、こういった分野は後追いの立場になればなるほど大衆からは只の✕番煎じにしか見られず、リスペクトされるのは難しくなってゆく。では数ある先達の怪談に劣らぬよう、風太郎はどのように足掻いてみたのか?
「蠟人」「黒檜姉妹」「畸形国」「双頭の人」「笑う道化師」「手相」「雪女」
久世光彦の小説「一九三四年冬―乱歩」には、久世が江戸川乱歩になりきったつもりで書いた「梔子姫」という作中作があり、私はそれをちっとも乱歩っぽいと感じたことはないが、風太郎の「蠟人」を読むと梔子姫のグニャグニャ・ボディがかすかに頭をよぎる。「黒檜姉妹」は使っている題材がアレ(必要無いと思うが一応伏せておく)だから、乱歩のエピゴーネンだと軽視する人もいるかもしれないけれど、のちに横溝正史も「悪霊島」にアレを取り入れてるし、それぞれの作家のアレの活かし方を味読すればいいんじゃないスかね。
上段にて、その道を築いたパイオニアに続く者はなかなか厳しいと書いたが、日本の探偵小説でいうと本格は戦後まだ〝のびしろ〟がだいぶ残っていたのに対し、変格は開拓する余地が相当少なくなってしまったのか、どぎつさ/あくどさでコーティングしてしまう傾向も見られた。
風太郎はエンターテイメントに還元できる筆力があったからエログロ作家と揶揄される事こそ無くて幸いなれど、(本書には入っていない作品だが)「うんこ殺人」なんていうイロモノ表現はtoo muchだしダサく感じる。本書収録短篇はどれも面白く読めるとはいえ、なんというか戦前作家だったら決して書かないようなキタナイ描写も見られるし、そこいらがこの作家を心酔できない理由のひとつ。