2021年8月22日日曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史⑨

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九州日報
1930年4月28日~5月13日掲載


■「古塔の老婆」(1)~(14)



【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。

 

 

【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「古塔の老婆」(1)~(14

 

河内兵部の子孫の一人である綾小路浪子は春巣街事件の手掛かりを求めて、巴里のずっと南にあるシャトワール村へ向かう。彼女の乗る列車には千家篤麿の姿もあった。シャトワール村には河内兵部が昔住んでいた河内荘と呼ばれる中世期風の古城が立っている。浪子は河内荘の門内にある村役場で、自分の他にはどんな子孫がいるのかを知るため謄本閲覧を申し出ると、その日同じ目的で訪ねてきた者が浪子の前に二人もいるというではないか。しかも浪子が見たかった謄本のページは破り取られていた。

 

 

受付の老役人の話では、現在この古城の塔には河内兵部の血を引くお利枝という婆さん、そして孫娘の小夏が住んでいるという。しかし一足遅く、既にお利枝婆さんと小夏に賊の魔の手が伸びていた。「二十年ぶりに男に化けて戻ってきた自分の娘に書類を奪われた」と言い残してお利枝婆さんは息を引き取る。しかし浪子は老役人から、
お利枝婆さんの娘・お鈴は十七の時に家出をして、
 巴里の安藤婆さんの処で生活していた事〟
〝安藤婆さんは実はお利枝婆さんの妹だがお鈴を悪い道へ唆し、
 その後お鈴は豪州へ逃げた事〟
そのふたつを教わった。

 

 

幸いにも救われた幼い小夏を巴里に引き取ろうと浪子は考えていたが、ほんの少し目を離した隙に小夏は若い紳士に連れ去られる。その紳士が河内荘のほうへ歩いていったという情報を得て、浪子は宿の給仕達数名の男と共に河内荘の塔へ急ぐ。塔上の真っ暗な部屋には、何者かに拉致されていたあの木澤由良子が監禁されており、浪子と再会できたにもかかわらず、由良子は幽霊のように無表情。部屋の穴倉には小夏も囚われていた。 

 

                      

 

以下は古塔の老婆」の章にて、春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A   外国貴族らしい紳士。それについで青年貴公子。     (春)  24215行目

   外國の貴族らしい紳士。それについで、中年の青年貴公子。(九)

   〝中年の青年〟って何?

 

 

B   シャトワール村に着きさえすれば(春)  2441行目

   シャトワールの村さへ着けば  (九)

 

 

C    四、五町でございましょうか(春)  24610行目

      四五丁でございませうか  (九)

   

 

D   そうやで(春)  24815行目

       さやうで(九)

    〝そうやで〟じゃなくて〝さようで〟では?

 

 

E   これは一時も猶予ならぬと思った(春)  25012行目

   これは一刻も猶豫ならぬと思つた(九)


 

                     

 

 

F   と五十格好の、       (春)  2516行目

   と、奥の方から、五十格好の、(九)

 

 

G   最近千切ったものに違いない (春)  2536行目

       最近に千切つたものに違ひない(九)

     

 

H   老人は暢気そうに奥から出てきた (春)  2543行目

     老役人は暢氣さうに奥から出て来た(九)

       このあと春陽文庫も『九州日報』も〝役〟の字を抜かしている箇所がある。

 

 

I      赤っぽい階段を上っていった(春)   25417行目

         垢つぽい階段を登つて行つた(九)

       現代人には通じにくいけれど、これは〝赤〟と変換すべきではないと思う。

       昔の人は〝垢っぽい〟という言葉を使っていたのかもしれないし。

 

 

J    彼は足を忍ばせながら             (春)  2576行目

         彼は足跫(あしおと、とルビあり)を忍ばせながら(九)


 

                      

  

 

K   彼女は人でなしじゃ           (春)  25813行目

       彼女(あいつ、とルビあり)は人でなしぢや(九)

       お利枝婆さんとお鈴は親子なのだから、

       ここは底本のとおりに〝あいつ〟というルビを入れないとおかしい。

 

 

L   浪子はそれを見ると急いで駆け寄った。無惨にも咽喉を絞められたとみえて、

  頸(くび)の周囲には青黒い痣がついて(春)  2596行目

   

  頸(くび)の周圍には靑黑い痣がついて(九)

 

   〝浪子は ~ 絞められたとみえて〟のくだりが何故『九州日報』には無いのだろう?

 

 

M      なんという恐ろしい殺人鬼だろう(春)  25910行目

   何といふ恐ろしい人鬼だらう  (九)

 

 

N   きょろきょろと辺りを見回していたが(春)  2605行目

     きよときよとと邊を見廻してゐたが (九)

  

 

O   しかし、相手もさる者、そうやすやす  (春)  2638行目

         然(しか)も、相手もさる者、さう易々と(九)


  

                     

 


P    春陽文庫の2642行目から2653行目にあたる数行、

  〝その翌日、浪子は小夏を伴ってパリへ帰ることになっていた〟から

   〝たったいままでそこいらにいたのに・・・」〟までの部分が、

   『九州日報』では、この回の最終行〝じっと前方に目を据えていた。〟の後へ

    ゴッソリ移動している。『九州日報』の人間が内容をよく読まずに

    原稿の順番を取り違えてしまったに相違ない。信じられんミスだ。    

   

 

Q     みないちように(春)  26814行目

    皆一様に   (九)

   春陽文庫は無闇に漢字を開くから、こんな風に余計解りづらくなる。

 

 

R   中の様子を覗(のぞ)いた (春)  26915行目

   中の様子を覗(うかが)つた(九)

 

 

S   さながら魂が脱け出したようである(春)  2716行目

   さながら抜け出したやうである  (九)

         初出の『北海タイムス』にはちゃんと〝魂が〟は入っていたのだろうか?

 

 

T   人であろうがなんであろうが襲ってくる(春)  27612行目

   人であらうが何であらうが襲ふて来る (九)   

 

                       

 

 

U   花子嬢について喜ばしき報をもたらせり         (春)  2802行目

       花子嬢について喜ばしき報を齎(もたら、とルビあり)せり(九)  

   

 

V   困惑の色が表れる      (春)  28017行目

       困惑の色が窺(うかが)はれる(九)


                      


⑥「奇怪の曲者」の章にて綾小路浪子は足の生爪を剥がしてしまったから、暫くの間は歩くのもしんどい筈なのに、本章では作者がその負傷を忘れてしまったかの如く、遠く離れた村まで行って、彼女は精力的に動き回っている。あの舞踏会の夜からどれほどの日数が経ったのか知りたいものだ。それにしても浪子は春巣街の殺人事件が河内兵部の遺産と関連している事をどうやって知りえたのだろう。



今迄もちょいちょい物語の中でその名が挙がっていた河内兵部だが、
ここに来て、その存在が一気にストーリーの前面へと浮上してきた。
前々回から、記事の冒頭にて【ネタバレ注意】の警告を出していることだし、ここまでの内容を通して見えてきた人間関係を少しだけおさらいしておこう。
かなりの財産を遺しているらしい河内兵部の血族だと判明しているのは次の登場人物。


お利枝婆さん ―――― お鈴(娘)

       ―――― 小夏(孫娘)   

  ↑

  〈姉妹〉

  ↓


安藤婆さん ―――― 春巣街の死美人(娘?)

      ―――― 牛松(息子)



綾小路浪子





今更説明する必要も無いだろうが、
①「雪中の惨劇」の章で蛭田紫影検事から成瀬珊瑚子爵を救い出したのも、
④「時計の中」の章で蛭田の追跡からお兼を逃がしてやったのも、
これすべて綾小路浪子の活躍によるもの。



④にて庄司三平が蛭田に告げた情報、すなわち「春巣街の死美人の名は白根星子といい、彼女は巴里随一の富豪と結婚すると話していた」この件に関し、既に白根辯造なる怪人物は殺されてしまったが、白根星子とはどういう関係なのか?お鈴は安藤婆さんの娘という名目で巴里で女優になった〟のなら、お鈴=春巣街の死美人なのか?まだまだ予断を許さない。



(銀) 本作のストーリーをこうやって章ごとに見ていく作業をしていると、まるで『ツイン・ピークス』TVシリーズを初見で一話ずつ観ていた時の気分に近いものがある。「これって、ちゃんと最後には納得のいく決末へ着地するの?」みたいな。




⑩へつづく。




2021年8月20日金曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史⑧

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九州日報
1930年4月21日~4月27日掲載



■「霧の運河」(1)~(7)




【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。 

 

【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「霧の運河」(1)~(7

 

セーヌ河沿いの波止場近く。其処は溝鼠のように毎日を送っている者達の相寄る場所。その一角にある煙草工場の屋内に屯する荒くれ者どものところに、以前蛭田紫影検事へ春巣街死美人の過去を通報した老水夫・庄司三平が牛松の情婦お兼を探しにやってきた。その牛松とお兼は工場空倉庫の二階にじっと身を潜めている。セーヌ河に浮かぶ誰とも知れぬ水死人に安藤婆さん殺しの罪を転嫁する計画を思いついたと言い、牛松はニセの遺書をお兼に書かせる。

 

 

二人はそのニセの遺書を持って、人目を避けつつ水死人が浮かんでいるという霧深い夜の運河へ。すると不意に牛松がお兼に襲いかかってきた。そう、牛松が自分の身代わりにしたいのは水死人ではなくて実はお兼だったのだ。愛する女が邪魔になった訳ではないが、こうでもしないと彼は米国へ逃亡できない。お兼の命もこれまでか、と思われたその時・・・。


                      



以下は霧の運河」の章にて、春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。
 
 

A   生活を続けている一郭がある(春)  2203行目

   生活を續けてゐる一廓がある(九)

 

 

B   陽の目をまともに拝めない人びと          (春)  2206行目

     陽の目を真正面(まとも、とルビあり)に拝めない人々(九)

 

 

C   この辺で幅を利かしているちょっとした顔役        (春)  2216行目

     この邊で巾(はば、とルビあり)を利かしてゐる一寸した顔役(九)

 

 

D   いまだに元手ができねえで          (春)  22215行目

         未だに資本(もとで、とルビあり)が出来ねゑで(九)

 

 

E   そこに(もや)っている小蒸気の灯(春)  2237行目

   其處につてゐる小蒸気の灯    (九)

   の部分に〝舫〟ではない別の漢字を当てて〝もや〟と読ませているのだが、

   その漢字がどうしても判別できなかった・・・我ながら情けない。


                    


F    職にあぶれた溝鼠(どぶねずみ)たち (春)  22311行目

    職にあぶれた泥溝鼠(どぶねずみ)たち(九)

 

 

G   さーてね(春)  22413行目

         さアてね(九)

     

 

H    たしかこの辺りに男と二人で隠れている        (春)  22414行目

        確(たしか)にこの邊(あたり)に男と二人で隠れてゐる(九)

 

 

I    こんな所に隠れようというんですから、たいがいは(春)  2251行目

       こんな所に隠れ様といふんですから、大概は   (九)

 

 

J    何の故があって(春)  2259行目

         何の故あって (九)


                   

 


K    彼女はろくすっぽ外へ踏み出したこともないのだ(春)  2272行目

        彼女は禄すつぽ外へ踏み出した事もないのだ  (九)

   

 

L      あとあとのために、一筆書き残し申し候         (春)  22912行目

    後々の爲(た)め、一筆(ひとふで)書殘し申(まうし)候(九)

 

 

M   そうかしら・・・(春)  2305行目

         さうか知ら・・・(九)

 

 

N    土左衛門が見つかっちゃあどうにもならねえからな   (春)  2311行目

      土左衛門が見つかつちまやヤ何(な)にもならねゑからな(九)

  

 

O   それともあくまでいやだと言うのかい?(春)  23116行目

         それとも飽迄いやだといふのかい?  (九)

 

                    

 

 

P   お兼は不承不承に立ち上がった(春)  2326行目

   お兼は不承不精に立ち上つた (九)

   

 

Q       臭い溝の臭いが鼻を衝く             (春)  2334行目

    臭い泥溝(どろみぞ、とルビあり)の匂ひが鼻をつく(九)

 

 

R   何もかも深い乳色の霧の中に    (春)  2339行目

     何も彼(か)もが深い乳色の霧の中に(九)

 

 

S   芥(ごみ、とルビあり)捨て場を抜けたころ(春)  23414行目

     埃(ルビなし)捨場を抜けた頃      (九)

 

 

T   ぎょっとしたらしく息を吞み込む(春)  2352行目

   ぎよつとしたらしく息を嚥み込む(九)   

 

                     

 

U   牛松はにんわりと笑った(春)  2365行目

   牛松はニンワリと笑つた(九)

   〝ニンマリと〟の間違いだろう。

 


V   かわいそうだが堪忍してくれ(春)  2368行目

   可哀さうだが勘忍してくれ (九)

   このあと〝勘忍〟はすべて〝堪忍〟と表記されている。

 


W  そうよ、おれは鬼さ。   (春)  2377行目

   さうよ。俺や鬼さ、悪魔さ。(九)

 

 

X   黒ずんだ絵のように沈んで見えた      (春)  23715行目

       黝(くろづ)んだ繪のやうに沈んでみゑた  (九)

 


Y   それが霧の中に鈍く、いっそう物凄く  (春)  23812行目

   それが霧の中に、鈍く、それが一層物凄く(九)

 

 

Z   両の頬を強張らせる     (春)  23913行目

   兩の頬を固張(こわば)らせる(九)


                     


横溝正史にとって『北海タイムス』で本作の連載を始めた昭和4年(1929)初夏というのは、『文藝倶楽部』の編集長へ異動して半年が経ち、総合誌の仕事にもだいぶ慣れてきている頃だ。その時期の江戸川乱歩の動向を見ると、恩人・森下雨村からの長篇オファーを断り切れず、同年一月より雨村が手掛ける同じ博文館の新雑誌『朝日』に「孤島の鬼」の連載を始めている。



正史は前年、乱歩久しぶりの新作「陰獣」を何としても『新青年』に獲得する為、乱歩の原稿料を一枚四円から八円へ引き上げてしまった。なんと倍額である。その頃の『新青年』一冊分の編集費はすべて込みで約二千円だったと云う(増大号・増刊号はさらに千円プラス)。では雨村が仕切る新雑誌『朝日』、あるいは正史の『文藝倶楽部』における一冊分の編集費はいくらぐらいだったのか。同じ博文館の出すものだし、そんなに高くはあるまい。



正史が人気作家乱歩の原稿料を一枚八円に上げてしまった以上、『朝日』に「孤島の鬼」を連載するとなれば、いくら相手がベテランの雨村であっても、乱歩は(最低でも)同じ額を要求したと考えるのが自然だろう。のちに乱歩が『新青年』へ書けなくなるのは原稿料があまりにも高騰し、『新青年』編集部というより博文館の予算では賄いきれなくなったから、という説もある。


                    


乱歩とは非常に近しい間柄の正史が雨村に提案したのか定かではないけれど、もしかして『朝日』の編集予算では「孤島の鬼」の原稿料を十分払えないものだから、博文館と全然関係のない地方新聞で乱歩/正史名義の長篇を正史が一人で書く事により、そこで発生する二人分の原稿料のうち、(実際は何もタッチしていない)乱歩の分を「孤島の鬼」原稿料不足分に充当して乱歩を納得させてしまう超・荒技を正史が思いついたのでは?と想像するのはうがち過ぎだろうか?世間が思っているほど乱歩と正史の関係は綺麗事ばかりではない。



なにしろ正史は自分の『文藝倶楽部』にて「猟奇の果」を乱歩に連載させる際にも、その第一回を掲載する昭和5年1月号では、少しでも乱歩の収入が増えるよう画策して、旧作「人間椅子」を再録しているではないか。いや、それだけではない。乱歩/正史の連名クレジットとなった本作「覆面の佳人」はもともと北海道の新聞である『北海タイムス』一度っきりの連載にするつもりだったのかもしれない。それは雨村の新雑誌に必要な「孤島の鬼」原稿料を補填するマネーを作る事だけが目的だった。



ところが「孤島の鬼」に次いで、正史は自分の雑誌にも乱歩の新連載が必要になった。だから「人間椅子」の再録だけでなく「覆面の佳人」「女妖」というタイトルに変えて、今度もなるべく遠い福岡の『九州日報』に連載すれば、都会の読者にそれほど知られもせず、乱歩分の「女妖」原稿料を『文藝倶楽部』の予算では足りない「猟奇の果」原稿料への補填に充てる事が可能になる。実に涙ぐましい努力ではあるが、「猟奇の果」が前半で行き詰ってしまい乱歩はやる気を失くしているのに、正史はあきらめず後半ムリヤリ明智小五郎を登場させ、前半とのバランスが崩れてでも一年間完走させたのは、ここまで述べてきたような後には引けぬ経緯があったからではないのか?


                    


まるで乱歩が金にがめつい人間に思われるかもしれないが、こう考えてゆくと乱歩も正史も本作について何も語らなかった訳が見えてくる気がする。こんな原稿料の補填のやり方がもし本当にあったとしたら、乱歩/正史だけでなく博文館にとっても決して名誉な事ではない。二人が意図的に完黙を貫く理由が存在するのなら、これこそ、その理由だとは言えないだろうか。昭和6年(1931)、乱歩にもう一度『朝日』で(「盲獣」を)連載させる時にも、博文館サイドは『猟奇の果』『吸血鬼』の初刊本を自社から出す事で乱歩を納得させた可能性も無いとはいえぬ。





(銀) 春巣街で謎の女が殺され、その母親である安藤婆さんも殺され、白根辯造が殺されて、木澤由良子は行方不明、春日花子は囚われの身となって、それらすべて進展が無いのにお兼までもが殺されそうになって、この物語はいつになったら謎の回収モードに入るのやら。その鍵を握っているのはオペラ座の女優・綾小路浪子だ。彼女はいつの間にか牛松とお兼を合流させていたみたいで。



この章を読むと、お兼は年齢が二十四、五でよく見ると〝どこかあどけないところがあるちょっとした美人〟、牛松の年齢は三十五、六ぐらいだとわかる。牛松と春巣街の死美人は殆ど年の離れていない姉弟らしい。



⑨へつづく。




2021年8月15日日曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史⑦

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九州日報
1930年4月10日~4月20日掲載



■「犯人は?」(1)~(10)




そろそろ中盤に差し掛かり、物語もいろいろな事が少しずつ明らかになってくる。
探偵小説のマナーとして今回から、この警告を載せておかねばなるまい。
【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。



【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「犯人は?」(1)~(10

 

人目も少ない巴里郊外の別荘地にある古い館へ近頃移住してきたのは貴族紳士・千家篤麿。その館の離れにある秘密の部屋に春日花子は閉じ込められていた。館の召使いとして黒人男性の安公が仕えており、更にまた大場仙吉という手下が巴里の情報を嗅ぎ回っては篤麿に報告している。あの舞踏会の夜、花子は名越梨庵伯爵を怪しんで春日龍三氏の傍へ逃げ戻ってきていた。するとフロアーを仕切るカーテン越しに、父・龍三が見知らぬ男に強請られているのを耳にして、彼女は目の前が真っ暗に____。

 

 

自分を取り戻した時、花子は未知の人物・千家篤麿の馬車に乗せられていた。篤麿の館に着いたのは翌朝。綾小路邸で眩暈を起こした後の記憶が全く無く、それ以降彼女は囚人同様に部屋から一歩も出してもらえずにいる。篤麿は花子に舞踏会で龍三氏が白根辯造を殺めた嫌疑により警察から監視されている事を聞かせ、白根辯造が龍三氏へ何を伝えたのかを自分にすっかり話すよう命じるが、降りかかる禍々しい疑惑に混乱して彼女は涙を流すばかり。

 

                      


以下は「犯人は?」の章にて、春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A   彼の目前に現れないとは           (春)  1957行目

   彼の眼(がん、とルビあり)前に現はれないとは(九)

   目前(もくぜん)と眼前(がんぜん)は、似て異なる表現。

 

 

B   鬱蒼たる木立が        (春)  19610行目

   うつそう(傍点あり)たる木立が(九)

   いつも春陽文庫に「意味も無く漢字やカタカナを開くな!」と私は言っているが、

   このような逆の例もある。

 

 

C   一人の黒人が飛び出してきた (春)  19617行目

   一人の黒ん坊が飛び出して来た(九)

   この後〝黒ん坊〟はすべて〝黒人〟へ書き換えられている。

   〝乞食〟はよくても〝黒ん坊〟はダメらしい。

 

 

D   葉巻を取り上げ、さも旨そうにそれを燻らしはじめると  (春)  1979行目

       葉卷を取り上げると、さもうまそうにそれを燻らし始めると(九)

   これは底本のほうが変なので、春陽文庫が修正したと思われる。

 

 

E   さっき帰ってきたところだ     (春)  19911行目

     先刻(せんこく)歸つて来たところだ(九)

 

 

                   


 

F   おまえすぐに会うかい        (春)  19911行目

   お前直(ぢき、とルビあり)に會うかい(九)

 

 

G   はっきりさせてみせる          (春)  2018行目

         分明(はつきり、とルビあり)させてみせる(九)

   

 

H       へえ、それはもう。しかし、そいつは(春)  20212行目

   へゑ、それはもう然し・・・、そ奴は(九)

    こういう困った箇所があっちこっちにあるから、

   昔の新聞小説を校正する作業は確かにタイヘンなのだ。

   

 

I    重い鉄の扉がギーと開く。中には(春)  2066行目

     重い鐵の扉がギイと開く。中は (九)

 

 

J    篤麿は思わず顔をしかめると、ハンカチを      (春)   2067行目

         篤麿は思はず顔を顰(ひそ、とルビあり)めると手巾を(九)



                   

 

  

K    わたくしに浮きうきしろとおっしゃるのですか(春)  2083行目

    あたしに浮々しろと被仰るのですか     (九)

    〝浮きうき〟ではなく〝浮き浮き〟だと思うのだが。  

 

 

L    ありがたく思われることでしょう(春)  2096行目

    有難く思はれる事でせうよ   (九)

   

 

M   窓の外へ視線を逸らした   (春)  20911行目

         窓の外へ視線を外(そら)した(九)

 

 

N   なかなか生易しいものじゃありませんよ    (春)  20916行目

       却々(なかなか)生優しいものぢやありませんよ(九)

 

 

O   あなたのお父さまはいま、人殺しの嫌疑で(春)  2104行目

       あなたのお父様は、今人殺しの嫌疑で、 (九)

 

 

                    

 


P     茂みの中に身を隠した黒人の安公は (春)  2113行目

   繁みの中に身を隠した黒ん坊の安公は(九)

 

 

Q   千家篤麿はふとお喋りを止めて            (春)  2119行目

       千家篤麿はふとお饒舌(しゃべり、とルビあり)をやめて(九)

   

 

R   ふと先刻の続きを見つけた    (春)  2121行目

   ふと先刻の續きを發見(みつ)けた(九)

 

 

S   血に塗られた凶器(春)  2125行目

   血に濡られた兇器(九)

   〝血に濡れた兇器〟もしくは〝血塗られた兇器〟とすべきではないのか。

 

 

T   思い煩うように考え込んでいたが    (春)  2138行目

   思い患(わずら)ふ様に考へ込んでゐたが(九)

 

 

                     

 


U   お願いですから帰してください     (春)  21313行目

       お願(ねがひ)ですから歸して下さいまし(九)   

 

 

V   篤麿はうそぶいている            (春)  2144行目

   篤麿は空嘯(そらうそぶ、とルビあり)いてゐる(九)

 

 

W  深い恐怖が、まざまざと彼女の面に現れる(春)  2158行目

   深い恐怖と悔恨が、まざまざと彼女の面(おもて)に現はれる(九)


   春陽文庫は綾小路邸の舞踏会で春日花子は何も悪い事をやっていないと早合点し、

   〝悔恨〟はおかしいのではないか、と思って削除してしまったのだろう。


   だが本章(9)では、春日龍三と白根辯造が密談しているカーテンの裏で

   花子があたかも兇器を着物の下に仕込むような行動をとっていたのを

  自分がずっと目撃していたと千家篤麿が発言しており、作者横溝正史もこの後

  実際花子があの場で白根辯造を刺す意思があったかどうかはともかく

〝彼女の手にはしつかりと一個の兇器さへ握られてゐるのだつた〟と書いているのだし

   この〝悔恨〟は削除してしまっていいのか、判断に迷うところだ。

 

 

X   凶器を振るって(春)  21617行目

   兇器を揮つて (九)

 

 

Y   人も軽蔑するあの忌まわしい私生児・・・?(春)  21715行目

   人も輕蔑するある忌しい私生兒 ― ?     (九)



                     



ここまで本作を読んできた人は「あれ?」と思っただろう。前章にて綾小路浪子の目の前で何者かに拉致されたのは木澤由良子だったのに、この章で囚われの身となっているのは春日花子になっているから。もっとも〝春日花子と名越梨庵の姿が舞踏会の場から見えなくなっていた〟と書かれてはいたが、名越梨庵が花子を連れ出したという描写ではなかったので、矛盾してはいないけれど。



新たに大場仙吉〟という千家篤麿の手先が顔見せする。この名前を聞くと、本作の二年前に発表された短篇「橋場仙吉の結婚」の橋場仙吉を連想するが、横溝正史はここでは苗字を一文字変えた名前にして再利用している。



「犯人は?」の章をよく読むと家篤麿の館には、春日花子の他にもうひとり連れてこられた女性がいるという会話が交わされている。展開があまりにせわし過ぎて前後関係をつい見落としそうだが、この辺が齟齬無く回収されるのかどうか、しっかりチェックしなければならない。




(銀) 千家篤麿という新キャラクターが登場してきた訳だが、彼の周辺も含めて、この男に関する設定には突っ込みどころ満載というか、困った問題点が後でいくつか出てくる。本日の時点であえて私の突っ込めるところがひとつだけあるとしたら、「千家篤麿さんよ、この章では綾小路邸の舞踏会に参加していたってアンタ言ってるけど、前章までそんな描写は全然なかったぞ」という点である。(この疑問は終盤に無理矢理辻褄合わせがされていなくもないのだけど、今は詳しく書けない)



なにせ横溝正史が勢いにまかせて執筆しているから、こんだけ荒っぽい展開だと整合性の取れない部分が表出してしまいそうで悩ましい。



⑧へつづく。

         



2021年8月12日木曜日

『Q夫人と猫』鷲尾三郎

NEW !

東都我刊我書房 善渡爾宗衛(編)
2021年7月発売




★★★   企画そのものは大変嬉しいけれど・・・




 善渡爾宗衛 様


拝啓 常々私が欲している方面の作家/作品を柔軟かつマニアックに刊行して下さっていることにまずは御礼申し上げます。大河内常平『人造人魚』もそうでしたが、〈鷲尾三郎傑作撰 壹〉と題された本書が単行本テキストでなく初出誌テキストを優先してコンパイルされている嬉しい新刊であるのは言うまでもありません。

 

 

鷲尾三郎は古書市場で値の張る作家の一人になってしまったわりにはどういう訳だか「代表作というか名刺代わりとなる彼の作品って果たしてどれがふさわしいのだろう?」 と逡巡してしまいます。貴方の解説にあるように、それはハードボイルド系なのでしょうか?もしくは、数は少ないながら本格テイストを持つ作品でしょうか?結局は古書でも現行本でも入手しやすい「屍の記録」に落ち着いてしまうのでしょうけれど、あれにしても「呪縛の沼」も「裸女と拳銃」も「虹の視覚」も、私だけの感想かもしれませんが絶対的決定打に欠けているとでも言いますか、名刺代わりと呼ぶにはなんかちょっとだけ押しが足りない、というのが正直な感想です。  


                  

 

これまでコツコツ古書を探して鷲尾を読んできた人達なら、本書収録作のてんでバラバラなベクトルの多様さには呆れつつも、きっと楽しんでいるに違いないと想像します。そこまで上出来とは言えないけれど論理をベースに考えて書いた「影繪」「白い蛇」倒叙というか自滅犯罪もの「くずれたアリバイ」スケベ心が墓穴を掘った「望遠鏡の中の美女」続けてれも一種の覗きネタだがヘンな艶笑譚としか思えない「アパートの窓」ここまでの内容ならば、同世代の他の作家にも十分ありうるヴァリエーションでしょう。

 

 

ところが本書はここからがスゴイ。シンプルに古代魚類のSF風スリラーにしとけばいいものを、そこに犯罪テイストを練り込み最後は超安易なオチでずっこける「サラマンダーの怒り」東北地方の山深く貧しい部落が舞台でセリフもすべて東北弁、しかしながら本書中で一番イヤ~な読後感に包まれる「銀の匙」宮野叢子にも似て一筋縄では行かない女の一面を描いたQ夫人と猫」同じく女性の物語でもこちらはとことん欲深なヘンタイにまで墜ちてしまう「極悪人の女像」これらの節操の無さには思わず笑ってしまいました。でも、この節操の無さは意外と鷲尾三郎のチャーム・ポイントなのかもしれません。

 

 

将来、鷲尾作品が潤沢に読めるような状況が訪れてくれるのなら話は別ですが、例えば岡田鯱彦/大河内常平ぐらいに「これ!」といえるわかりやすい特徴が挙げにくいので、商業出版界では何となく再発するには少々売りづらい存在だと誤解される可能性もあります。この辺の日本の探偵作家はデビューの時期が敗戦の後という不幸なハンデを負っているので、どうしてもチープな空気が纏わり付いているのも否定できないでしょう。とはいえ、平成後期~令和を生きているDSオタな人達の傾向(?)からしますと、木々高太郎が口にしそうな〝高級なブンガク・ゲージュツ感〟よりも本書に収められている雑多な面白さのほうが求められている、そんな風に私には映るので、斯様な追い風が鷲尾にプラスに吹いてくれれば喜ばしいのですが。(こんなこと書いていたら余計に木々の新刊が出なくなってしまいそう。)


                   


さて、ここからが本題といいますか最もお伝えしたい部分なのです。探偵小説本の購買層は入手するのが第一目的で満足してしまい読書など二の次三の次らしく、私の他に疑義を唱える者など誰もいないのでこんな事を耳にされる機会も無いのでしょうが、近頃の日本探偵小説の新刊本は同人出版も含め、(作者ではなく明らかに)制作者の入力ミスとしか思えない誤字があちこち目についてどうにも困るのです。



貴方の編纂する優れた企画の本に対しては、かつての論創ミステリ叢書のように目を瞑って毎回満点で褒めちぎりたいぐらいなのですが、さして目ざとくもないこの私でさえ本書の中でもそういうミスに気付いてしまいます。その一部を挙げますと、



害者(×) →  害者(○)  21ページ上段16行目/36ぺージ下段4行目


等々力野部(×) →  等々力警部(○)   102ページ下段2行目


第二の設人者(×) →  第二の殺人者(○)  113ページ上段4行目


黒かったが者、学者らしい(×) → 黒かったが、学者らしい(○) 155ページ下段3行目


コンクリートの(×) → コンクリートの(○)  159ページ上段13行目




編纂なされる本のテキストの入力作業は貴方ご自身ですべてやっておられるのか、もしくはクレジットされている協力者の方がやっておられるのか、はたまたキツキツの突貫スケジュールを強いられていらっしゃるのか、どちらにしても人間のやることですから、時には間違いがあっても仕方無いとは思いますし、校正業が専門でない方が作業をすると、こういうミスは避けられないのかもしれません。そうは言っても盛林堂書房から出ている新刊のうち貴方が手掛けるものまで望ましからぬ誤りが常に発生しているのはとても残念でなりません。



〝凡例〟のページに記しておられるとおり、多少変に見えてもそれが作者の意図であるならば、書き換えずにそのまま残す手法はとても良い、というかそれが当り前だと私は考えます。ただ上記に並べた五つの誤字は明らかに作者・鷲尾三郎の書き癖ではなく、テキスト入力する際のミスとしか見えないので、こういうものはやはり正しい表記に訂正するか、あるいは底本の誤字でさえ極力いじりたくないなら〝ママ〟と入れるべきではないでしょうか?(本書にはルビを振っている箇所もあるのですから)


                   


こういうことをお伝えしてもSNSで「悪意がある」「ケチをつけられた」などと逆ギレするような人間には言ってもムダなので、かかわる気など毛頭ありません。しかし貴方の事を詳しく存じ上げてはいませんが、少なくとも善渡爾宗衛という人は本作りの仕事をほったらかしてネット・ジャンキーと化すような方ではないと私は思っているので一筆したためました。



気を悪くされたかもしれませんが貴方の編纂する本を楽しみにしている一読者の声として、どうかポジティヴに受け取って頂けましたら幸いです。今後も益々の御活躍をお祈り申し上げます。敬具



銀髪伯爵拝



(銀) 〈鷲尾三郎傑作撰 貳〉はどのような作品が収められるのか、またその先の〈參〉以降はあるのか、発売が待たれる。今日の「女妖」はお休み。


 


2021年8月10日火曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史⑥

NEW !

九州日報
1930年4月1日~4月9日掲載



■「奇怪の曲者」(1)~(7)




【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「奇怪の曲者」(1)~(7

 

招待客のうち、名越梨庵伯爵と春日花子の姿だけがいつの間にか見えなくなっていた。警察の捜査もむなしく白根辯造殺しは何ひとつ解明せぬまま舞踏会は終了。綾小路邸の自室で木澤由良子は、春日龍三を脅かす書類を見つめながらひとり泣いている。由良子が何故に、消えたこの書類を持っているのか?

一方、母親である安藤婆さんの殺害容疑で蛭田紫影検事に追われている牛松は綾小路浪子の部屋に匿われていた。浪子はどうやら牛松までも手懐けているらしい。牛松は浪子に安藤婆さん殺しの犯人は自分ではないと否定する。その時、別室にいる由良子を拉致せんと忍び込んできた者がいた。

 

 

物音で異変を知った浪子は、由良子を抱えて庭園へ逃げる曲者と小型短銃で撃ち合う。相手に命中した手応えはあったけれど、躓く拍子に彼女は足の生爪を剥がしてしまった。邸の外からは馬車の走り去る音が。裏木戸の外で浪子が出くわしたのは蛭田検事。

浪子は事の次第を説明するが、蛭田は曲者追跡なら見張っている部下達に任せると言って、連れ去られた由良子の部屋を調べる。そこにあった肖像画と春巣街で殺されたあの女が同一人物である事に気付いた蛭田は浪子に詰問する。浪子は以前から気になっていた肖像画の中の女が春巣街の死美人だという事実を、この時初めて知るのだった。

 

                     


以下は「奇怪の曲者」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。
この章における『九州日報』のマイクロフィルムは46日そのものが欠号のため、第60回「奇怪の曲者」(4)の比較検証はできなかった。



A  『九州日報』ではこの章のタイトルが(5)までは誤って「奇怪曲の者」となっており

      (6)からやっと「奇怪の曲者」に落ち着く。

 

 

B    いままで静まり返った部屋の中に(春)  1765行目

    今迄静もり返った部屋の中に  (九)

 

 

C    目ばかりがぎろりと物凄く光っている(春)  1772行目

      眼ばかりがギロリと物凄く光つている(九)

    こういう〈カタカナ〉での形容を悉く〈ひらがな〉にすると、

    小説の味わいが薄まってしまう。

 

 

D       出し抜けに飛び込まれちゃ  (春)  17711行目

    だしぬけに飛び込まれて来ちや(九)

 

 

E    気をつけてくれなきゃ困るよ(春)  1783行目

    氣をつけて呉れなきや困るよ(九)



                  


 

F    疑いを解くのはわけねえんですが(春)  17914行目

         疑ひを解くのは譯はねゑんですが(九) 

 

 

 

G    小型のピストルを化粧箱の抽斗から          (春)  1845行目

        小型の短銃(ピストル、とルビあり)を化粧臺の抽斗から(九)

    この部分の『九州日報』マイクロフィルムの文字は掠れて読み取りにくいのだが、

    〝箱〟ではなく〝臺〟のように私には見える。

 

 

H     側にぼんやり立っている牛松          (春)  1846行目

           傍(そば、とルビあり)にぼんやり立つている牛松(九)

   

 

I      廊下を突っ切ると(春)  1849行目

       廊下を突き當ると(九)

 

 

J   彼は立ち上がると、それでもどこか負傷したとみえて(春)  1853行目

        彼は立ち上がるとそれでも何處か負傷したと見ゑて (九)

          両テキストの異同指摘ではないのだが、

      この時点では侵入した賊が男か女かまだ判らないのだから〝彼〟と書いてはマズイ。

 

 

                  



K     あ痛っ!(春)   18515行目

    アイタ!(九) 

 

 

L     な、なんですの、何か見つかりまして?         (春)  1899行目

     ナ、何ですの、何か發見(みつ、とルビあり)かりまして?(九)

 

 

M     胸を波打たせ、遠回りをしながら  (春)  18910行目

           胸を浪打たせながら遠廻りをしながら(九)

     この章は特に『九州日報』テキストを見ると横溝正史らしくもない、

         素人がやるような同じ言葉の無駄な繰り返しが散見される。

 


N     一部始終の話を物語った(春)  19015行目

     一伍一什の話を物語つた(九)

 

 

O     強く追及しようとはしなかった          (春)  1913行目

         強(しひ、とルビあり)て追及しやうとはしなかつた(九)


                     


綾小路邸で白根辯造殺しが起きてから息つく暇も無く、もう次の事件(木澤由良子拉致)が発生するという慌ただしい展開は、毎回のようにヤマ場を求められる戦前の新聞連載長篇探偵小説にありがちな事情。もう少し〝静〟のシーンをじっくり書かせてあげればいいのに、なんて私は思うのだが、それを許容すべき編集部の理解しかり、作家横溝正史しかり、まだまだモラトリアムな時代。



本作を『北海タイムス』にて執筆開始する二年前に横溝正史が大人向け長篇として着手した「女怪」。その【作者の言葉】の中で、正史はこのような事を述べている。掲載は「探偵趣味の会」機関誌『探偵趣味』。『横溝正史探偵小説選Ⅴ』より引用する。

〝 続き物の長篇小説は、どう考へて見ても、僕には不向きのやうな気がする。

  倦きつぽくてずぼらな僕は、きつと途中で厭気が差すだろう。〟

ご覧のとおり、あの正史でさえ最初は長篇を書くのを躊躇していた様子がわかる。
「女怪」は五回連載して中絶した。本格長篇に至る道程はかくも長く遠かったのだ。




(銀) 事件の中心人物でこそないけれど華やかな立場にある女性キャラに、アクティヴに物語を搔き回させたり鍵を握る重要な役割を与えたりすることが横溝正史作品にはままある。本作でいう綾小路浪子や、他にも由利・三津木シリーズ「夜光蟲」の諏訪鮎子とか。



正史作品におけるこの種の女性キャラのオリジンといったら、なんとなく私は本作と同時期に書かれた短篇「赤い水泳着」の芳子を頭に思い浮かべてしまうのだが、「赤い水泳着」のもっと興味深い点は芳子の他に木澤浪子という、本作の木澤由良子と綾小路浪子の双方に共通する名前を持たされた登場人物がいるという事。



登場人物の共通する名前といえば成瀬珊瑚もそう。改めて申すまでもなく成瀬子爵は男性だが、本作「覆面の佳人」(=「女妖」)連載の七年後に書かれた「蠟人」の主人公で17歳の半玉にも〝珊瑚〟という名前が与えられている。正史という人は自作の登場人物に同じ名前を使う事が他の作家よりは多くて、ここに紹介したいくつかの名前も、何かしらの理由で馴染みがあり気に入っていたのかも。こういうのは所詮読み手側の逞しい想像に過ぎなくて、作者本人としては実際のところたいした意味なんて無いんだろうけどね。


⑦へつづく。