2021年8月15日日曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史

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九州日報
1930年4月10日~4月20日掲載



⑦ 「犯人は?」(1)~(10)




そろそろ中盤に差し掛かり、物語もいろいろな事が少しずつ明らかになってくる。
探偵小説のマナーとして今回から、この警告を載せておかねばなるまい。
【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。



【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「犯人は?」(1)~(10

 

人目も少ない巴里郊外の別荘地にある古い館へ近頃移住してきたのは貴族紳士・千家篤麿。その館の離れにある秘密の部屋に春日花子は閉じ込められていた。館の召使いとして黒人男性の安公が仕えており、更にまた大場仙吉という手下が巴里の情報を嗅ぎ回っては篤麿に報告している。あの舞踏会の夜、花子は名越梨庵伯爵を怪しんで春日龍三氏の傍へ逃げ戻ってきていた。するとフロアーを仕切るカーテン越しに、父・龍三が見知らぬ男に強請られているのを耳にして、彼女は目の前が真っ暗に____。

 

 

自分を取り戻した時、花子は未知の人物・千家篤麿の馬車に乗せられていた。篤麿の館に着いたのは翌朝。綾小路邸で眩暈を起こした後の記憶が全く無く、それ以降彼女は囚人同様に部屋から一歩も出してもらえずにいる。篤麿は花子に舞踏会で龍三氏が白根辯造を殺めた嫌疑により警察から監視されている事を聞かせ、白根辯造が龍三氏へ何を伝えたのかを自分にすっかり話すよう命じるが、降りかかる禍々しい疑惑に混乱して彼女は涙を流すばかり。

 

                      


以下は「犯人は?」の章にて、春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。

 

 

A   彼の目前に現れないとは           (春)  1957行目

   彼の眼(がん、とルビあり)前に現はれないとは(九)

   目前(もくぜん)と眼前(がんぜん)は、似て異なる表現。

 

 

B   鬱蒼たる木立が        (春)  19610行目

   うつそう(傍点あり)たる木立が(九)

   いつも春陽文庫に「意味も無く漢字やカタカナを開くな!」と私は言っているが、

   このような逆の例もある。

 

 

C   一人の黒人が飛び出してきた (春)  19617行目

   一人の黒ん坊が飛び出して来た(九)

   この後〝黒ん坊〟はすべて〝黒人〟へ書き換えられている。

   〝乞食〟はよくても〝黒ん坊〟はダメらしい。

 

 

D   葉巻を取り上げ、さも旨そうにそれを燻らしはじめると  (春)  1979行目

       葉卷を取り上げると、さもうまそうにそれを燻らし始めると(九)

   これは底本のほうが変なので、春陽文庫が修正したと思われる。

 

 

E   さっき帰ってきたところだ     (春)  19911行目

     先刻(せんこく)歸つて来たところだ(九)

 

 

                   


 

F   おまえすぐに会うかい        (春)  19911行目

   お前直(ぢき、とルビあり)に會うかい(九)

 

 

G   はっきりさせてみせる          (春)  2018行目

         分明(はつきり、とルビあり)させてみせる(九)

   

 

H       へえ、それはもう。しかし、そいつは(春)  20212行目

   へゑ、それはもう然し・・・、そ奴は(九)

    こういう困った箇所があっちこっちにあるから、

   昔の新聞小説を校正する作業は確かにタイヘンなのだ。

   

 

I    重い鉄の扉がギーと開く。中には(春)  2066行目

     重い鐵の扉がギイと開く。中は (九)

 

 

J    篤麿は思わず顔をしかめると、ハンカチを      (春)   2067行目

         篤麿は思はず顔を顰(ひそ、とルビあり)めると手巾を(九)



                   

 

  

K    わたくしに浮きうきしろとおっしゃるのですか(春)  2083行目

    あたしに浮々しろと被仰るのですか     (九)

    〝浮きうき〟ではなく〝浮き浮き〟だと思うのだが。  

 

 

L    ありがたく思われることでしょう(春)  2096行目

    有難く思はれる事でせうよ   (九)

   

 

M   窓の外へ視線を逸らした   (春)  20911行目

         窓の外へ視線を外(そら)した(九)

 

 

N   なかなか生易しいものじゃありませんよ    (春)  20916行目

       却々(なかなか)生優しいものぢやありませんよ(九)

 

 

O   あなたのお父さまはいま、人殺しの嫌疑で(春)  2104行目

       あなたのお父様は、今人殺しの嫌疑で、 (九)

 

 

                    

 


P     茂みの中に身を隠した黒人の安公は (春)  2113行目

   繁みの中に身を隠した黒ん坊の安公は(九)

 

 

Q   千家篤麿はふとお喋りを止めて            (春)  2119行目

       千家篤麿はふとお饒舌(しゃべり、とルビあり)をやめて(九)

   

 

R   ふと先刻の続きを見つけた    (春)  2121行目

   ふと先刻の續きを發見(みつ)けた(九)

 

 

S   血に塗られた凶器(春)  2125行目

   血に濡られた兇器(九)

   〝血に濡れた兇器〟もしくは〝血塗られた兇器〟とすべきではないのか。

 

 

T   思い煩うように考え込んでいたが    (春)  2138行目

   思い患(わずら)ふ様に考へ込んでゐたが(九)

 

 

                     

 


U   お願いですから帰してください     (春)  21313行目

       お願(ねがひ)ですから歸して下さいまし(九)   

 

 

V   篤麿はうそぶいている            (春)  2144行目

   篤麿は空嘯(そらうそぶ、とルビあり)いてゐる(九)

 

 

W  深い恐怖が、まざまざと彼女の面に現れる(春)  2158行目

   深い恐怖と悔恨が、まざまざと彼女の面(おもて)に現はれる(九)


   春陽文庫は綾小路邸の舞踏会で春日花子は何も悪い事をやっていないと早合点し、

   〝悔恨〟はおかしいのではないか、と思って削除してしまったのだろう。


   だが本章(9)では、春日龍三と白根辯造が密談しているカーテンの裏で

   花子があたかも兇器を着物の下に仕込むような行動をとっていたのを

  自分がずっと目撃していたと千家篤麿が発言しており、作者横溝正史もこの後

  実際花子があの場で白根辯造を刺す意思があったかどうかはともかく

〝彼女の手にはしつかりと一個の兇器さへ握られてゐるのだつた〟と書いているのだし

   この〝悔恨〟は削除してしまっていいのか、判断に迷うところだ。

 

 

X   凶器を振るって(春)  21617行目

   兇器を揮つて (九)

 

 

Y   人も軽蔑するあの忌まわしい私生児・・・?(春)  21715行目

   人も輕蔑するある忌しい私生兒 ― ?     (九)



                     



ここまで本作を読んできた人は「あれ?」と思っただろう。前章にて綾小路浪子の目の前で何者かに拉致されたのは木澤由良子だったのに、この章で囚われの身となっているのは春日花子になっているから。もっとも〝春日花子と名越梨庵の姿が舞踏会の場から見えなくなっていた〟と書かれてはいたが、名越梨庵が花子を連れ出したという描写ではなかったので、矛盾してはいないけれど。



新たに大場仙吉〟という千家篤麿の手先が顔見せする。この名前を聞くと、本作の二年前に発表された短篇「橋場仙吉の結婚」の橋場仙吉を連想するが、横溝正史はここでは苗字を一文字変えた名前にして再利用している。



「犯人は?」の章をよく読むと家篤麿の館には、春日花子の他にもうひとり連れてこられた女性がいるという会話が交わされている。展開があまりにせわし過ぎて前後関係をつい見落としそうだが、この辺が齟齬無く回収されるのかどうか、しっかりチェックしなければならない。




(銀) 千家篤麿という新キャラクターが登場してきた訳だが、彼の周辺も含めて、この男に関する設定には突っ込みどころ満載というか、困った問題点が後でいくつか出てくる。本日の時点であえて私の突っ込めるところがひとつだけあるとしたら、「千家篤麿さんよ、この章では綾小路邸の舞踏会に参加していたってアンタ言ってるけど、前章までそんな描写は全然なかったぞ」という点である。(この疑問は終盤に無理矢理辻褄合わせがされていなくもないのだけど、今は詳しく書けない)



なにせ横溝正史が勢いにまかせて執筆しているから、こんだけ荒っぽい展開だと整合性の取れない部分が表出してしまいそうで悩ましい。



⑧へつづく。