⑧ 「霧の運河」(1)~(7)
【注意!】現在、連続企画としてテキストの異同を中心としたこの長篇の検証を行っていますが一部のネタバレは避け難く、「覆面の佳人」(=「女妖」)の核心部分を知りたくないという方は、本日の記事はなるべくお読みにならない事をお勧め致します。
【この章のストーリー・ダイジェスト】
▲ 「霧の運河」(1)~(7)
セーヌ河沿いの波止場近く。其処は溝鼠のように毎日を送っている者達の相寄る場所。その一角にある煙草工場の屋内に屯する荒くれ者どものところに、以前蛭田紫影検事へ春巣街死美人の過去を通報した老水夫・庄司三平が牛松の情婦お兼を探しにやってきた。その牛松とお兼は工場空倉庫の二階にじっと身を潜めている。セーヌ河に浮かぶ誰とも知れぬ水死人に安藤婆さん殺しの罪を転嫁する計画を思いついたと言い、牛松はニセの遺書をお兼に書かせる。
二人はそのニセの遺書を持って、人目を避けつつ水死人が浮かんでいるという霧深い夜の運河へ。すると不意に牛松がお兼に襲いかかってきた。そう、牛松が自分の身代わりにしたいのは水死人ではなくて実はお兼だったのだ。愛する女が邪魔になった訳ではないが、こうでもしないと彼は米国へ逃亡できない。お兼の命もこれまでか、と思われたその時・・・。
A 生活を続けている一郭がある(春) 220頁3行目
生活を續けてゐる一廓がある(九)
B 陽の目をまともに拝めない人びと (春) 220頁6行目
陽の目を真正面(まとも、とルビあり)に拝めない人々(九)
C この辺で幅を利かしているちょっとした顔役 (春) 221頁6行目
この邊で巾(はば、とルビあり)を利かしてゐる一寸した顔役(九)
D いまだに元手ができねえで (春) 222頁15行目
未だに資本(もとで、とルビあり)が出来ねゑで(九)
E そこに舫(もや)っている小蒸気の灯(春) 223頁7行目
其處に〇つてゐる小蒸気の灯 (九)
〇の部分に〝舫〟ではない別の漢字を当てて〝もや〟と読ませているのだが、
その漢字がどうしても判別できなかった・・・我ながら情けない。
F 職にあぶれた溝鼠(どぶねずみ)たち (春) 223頁11行目
職にあぶれた泥溝鼠(どぶねずみ)たち(九)
G さーてね(春) 224頁13行目
さアてね(九)
H たしかこの辺りに男と二人で隠れている (春) 224頁14行目
確(たしか)にこの邊(あたり)に男と二人で隠れてゐる(九)
I こんな所に隠れようというんですから、たいがいは(春) 225頁 1行目
こんな所に隠れ様といふんですから、大概は (九)
J 何の故があって(春) 225頁9行目
何の故あって (九)
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K 彼女はろくすっぽ外へ踏み出したこともないのだ(春) 227頁2行目
彼女は禄すつぽ外へ踏み出した事もないのだ (九)
L あとあとのために、一筆書き残し申し候 (春) 229頁12行目
後々の爲(た)め、一筆(ひとふで)書殘し申(まうし)候(九)
M そうかしら・・・(春) 230頁5行目
さうか知ら・・・(九)
N 土左衛門が見つかっちゃあどうにもならねえからな (春) 231頁1行目
土左衛門が見つかつちまやヤ何(な)にもならねゑからな(九)
O それともあくまでいやだと言うのかい?(春) 231頁16行目
それとも飽迄いやだといふのかい? (九)
P お兼は不承不承に立ち上がった(春) 232頁6行目
お兼は不承不精に立ち上つた (九)
Q 臭い溝の臭いが鼻を衝く (春) 233頁4行目
臭い泥溝(どろみぞ、とルビあり)の匂ひが鼻をつく(九)
R 何もかも深い乳色の霧の中に (春) 233頁9行目
何も彼(か)もが深い乳色の霧の中に(九)
S 芥(ごみ、とルビあり)捨て場を抜けたころ(春) 234頁14行目
埃(ルビなし)捨場を抜けた頃 (九)
T ぎょっとしたらしく息を吞み込む(春) 235頁2行目
ぎよつとしたらしく息を嚥み込む(九)
U 牛松はにんわりと笑った(春) 236頁5行目
牛松はニンワリと笑つた(九)
〝ニンマリと〟の間違いだろう。
V かわいそうだが堪忍してくれ(春) 236頁8行目
可哀さうだが勘忍してくれ (九)
このあと〝勘忍〟はすべて〝堪忍〟と表記されている。
W そうよ、おれは鬼さ。 (春) 237頁7行目
さうよ。俺や鬼さ、悪魔さ。(九)
X 黒ずんだ絵のように沈んで見えた (春) 237頁15行目
黝(くろづ)んだ繪のやうに沈んでみゑた (九)
Y それが霧の中に鈍く、いっそう物凄く (春) 238頁12行目
それが霧の中に、鈍く、それが一層物凄く(九)
Z 両の頬を強張らせる (春) 239頁13行目
兩の頬を固張(こわば)らせる(九)
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横溝正史にとって『北海タイムス』で本作の連載を始めた昭和4年(1929)初夏というのは、『文藝倶楽部』の編集長へ異動して半年が経ち、総合誌の仕事にもだいぶ慣れてきている頃だ。その時期の江戸川乱歩の動向を見ると、恩人・森下雨村からの長篇オファーを断り切れず、同年一月より雨村が手掛ける同じ博文館の新雑誌『朝日』に「孤島の鬼」の連載を始めている。
正史は前年、乱歩久しぶりの新作「陰獣」を何としても『新青年』に獲得する為、乱歩の原稿料を一枚四円から八円へ引き上げてしまった。なんと倍額である。その頃の『新青年』一冊分の編集費はすべて込みで約二千円だったと云う(増大号・増刊号はさらに千円プラス)。では雨村が仕切る新雑誌『朝日』、あるいは正史の『文藝倶楽部』における一冊分の編集費はいくらぐらいだったのか。同じ博文館の出すものだし、そんなに高くはあるまい。
正史が人気作家乱歩の原稿料を一枚八円に上げてしまった以上、『朝日』に「孤島の鬼」を連載するとなれば、いくら相手がベテランの雨村であっても、乱歩は(最低でも)同じ額を要求したと考えるのが自然だろう。のちに乱歩が『新青年』へ書けなくなるのは原稿料があまりにも高騰し、『新青年』編集部というより博文館の予算では賄いきれなくなったから、という説もある。
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乱歩とは非常に近しい間柄の正史が雨村に提案したのか定かではないけれど、もしかして『朝日』の編集予算では「孤島の鬼」の原稿料を十分払えないものだから、博文館と全然関係のない地方新聞で乱歩/正史名義の長篇を正史が一人で書く事により、そこで発生する二人分の原稿料のうち、(実際は何もタッチしていない)乱歩の分を「孤島の鬼」原稿料不足分に充当して乱歩を納得させてしまう超・荒技を正史が思いついたのでは?と想像するのはうがち過ぎだろうか?世間が思っているほど乱歩と正史の関係は綺麗事ばかりではない。
なにしろ正史は自分の『文藝倶楽部』にて「猟奇の果」を乱歩に連載させる際にも、その第一回を掲載する昭和5年1月号では、少しでも乱歩の収入が増えるよう画策して、旧作「人間椅子」を再録しているではないか。いや、それだけではない。乱歩/正史の連名クレジットとなった本作「覆面の佳人」はもともと北海道の新聞である『北海タイムス』一度っきりの連載にするつもりだったのかもしれない。それは雨村の新雑誌に必要な「孤島の鬼」原稿料を補填するマネーを作る事だけが目的だった。
ところが「孤島の鬼」に次いで、正史は自分の雑誌にも乱歩の新連載が必要になった。だから「人間椅子」の再録だけでなく「覆面の佳人」を「女妖」というタイトルに変えて、今度もなるべく遠い福岡の『九州日報』に連載すれば、都会の読者にそれほど知られもせず、乱歩分の「女妖」原稿料を『文藝倶楽部』の予算では足りない「猟奇の果」原稿料への補填に充てる事が可能になる。実に涙ぐましい努力ではあるが、「猟奇の果」が前半で行き詰ってしまい乱歩はやる気を失くしているのに、正史はあきらめず後半ムリヤリ明智小五郎を登場させ、前半とのバランスが崩れてでも一年間完走させたのは、ここまで述べてきたような後には引けぬ経緯があったからではないのか?
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まるで乱歩が金にがめつい人間に思われるかもしれないが、こう考えてゆくと乱歩も正史も本作について何も語らなかった訳が見えてくる気がする。こんな原稿料の補填のやり方がもし本当にあったとしたら、乱歩/正史だけでなく博文館にとっても決して名誉な事ではない。二人が意図的に完黙を貫く理由が存在するのなら、これこそ、その理由だとは言えないだろうか。昭和6年(1931)、乱歩にもう一度『朝日』で(「盲獣」を)連載させる時にも、博文館サイドは『猟奇の果』『吸血鬼』の初刊本を自社から出す事で乱歩を納得させた可能性も無いとはいえぬ。
(銀) 春巣街で謎の女が殺され、その母親である安藤婆さんも殺され、白根辯造が殺されて、木澤由良子は行方不明、春日花子は囚われの身となって、それらすべて進展が無いのにお兼までもが殺されそうになって、この物語はいつになったら謎の回収モードに入るのやら。その鍵を握っているのはオペラ座の女優・綾小路浪子だ。彼女はいつの間にか牛松とお兼を合流させていたみたいで。
この章を読むと、お兼は年齢が二十四、五でよく見ると〝どこかあどけないところがあるちょっとした美人〟、牛松の年齢は三十五、六ぐらいだとわかる。牛松と春巣街の死美人は殆ど年の離れていない姉弟らしい。
⑨へつづく。