2021年8月10日火曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史

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九州日報
1930年4月1日~4月9日掲載



⑥ 「奇怪の曲者」(1)~(7)




【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「奇怪の曲者」(1)~(7

 

招待客のうち、名越梨庵伯爵と春日花子の姿だけがいつの間にか見えなくなっていた。警察の捜査もむなしく白根辯造殺しは何ひとつ解明せぬまま舞踏会は終了。綾小路邸の自室で木澤由良子は、春日龍三を脅かす書類を見つめながらひとり泣いている。由良子が何故に、消えたこの書類を持っているのか?

一方、母親である安藤婆さんの殺害容疑で蛭田紫影検事に追われている牛松は綾小路浪子の部屋に匿われていた。浪子はどうやら牛松までも手懐けているらしい。牛松は浪子に安藤婆さん殺しの犯人は自分ではないと否定する。その時、別室にいる由良子を拉致せんと忍び込んできた者がいた。

 

 

物音で異変を知った浪子は、由良子を抱えて庭園へ逃げる曲者と小型短銃で撃ち合う。相手に命中した手応えはあったけれど、躓く拍子に彼女は足の生爪を剥がしてしまった。邸の外からは馬車の走り去る音が。裏木戸の外で浪子が出くわしたのは蛭田検事。

浪子は事の次第を説明するが、蛭田は曲者追跡なら見張っている部下達に任せると言って、連れ去られた由良子の部屋を調べる。そこにあった肖像画と春巣街で殺されたあの女が同一人物である事に気付いた蛭田は浪子に詰問する。浪子は以前から気になっていた肖像画の中の女が春巣街の死美人だという事実を、この時初めて知るのだった。

 

                     


以下は「奇怪の曲者」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。
この章における『九州日報』のマイクロフィルムは46日そのものが欠号のため、第60回「奇怪の曲者」(4)の比較検証はできなかった。



A  『九州日報』ではこの章のタイトルが(5)までは誤って「奇怪曲の者」となっており

      (6)からやっと「奇怪の曲者」に落ち着く。

 

 

B    いままで静まり返った部屋の中に(春)  1765行目

    今迄静もり返った部屋の中に  (九)

 

 

C    目ばかりがぎろりと物凄く光っている(春)  1772行目

      眼ばかりがギロリと物凄く光つている(九)

    こういう〈カタカナ〉での形容を悉く〈ひらがな〉にすると、

    小説の味わいが薄まってしまう。

 

 

D       出し抜けに飛び込まれちゃ  (春)  17711行目

    だしぬけに飛び込まれて来ちや(九)

 

 

E    気をつけてくれなきゃ困るよ(春)  1783行目

    氣をつけて呉れなきや困るよ(九)



                  


 

F    疑いを解くのはわけねえんですが(春)  17914行目

         疑ひを解くのは譯はねゑんですが(九) 

 

 

 

G    小型のピストルを化粧箱の抽斗から          (春)  1845行目

        小型の短銃(ピストル、とルビあり)を化粧臺の抽斗から(九)

    この部分の『九州日報』マイクロフィルムの文字は掠れて読み取りにくいのだが、

    〝箱〟ではなく〝臺〟のように私には見える。

 

 

H     側にぼんやり立っている牛松          (春)  1846行目

           傍(そば、とルビあり)にぼんやり立つている牛松(九)

   

 

I      廊下を突っ切ると(春)  1849行目

       廊下を突き當ると(九)

 

 

J   彼は立ち上がると、それでもどこか負傷したとみえて(春)  1853行目

        彼は立ち上がるとそれでも何處か負傷したと見ゑて (九)

          両テキストの異同指摘ではないのだが、

      この時点では侵入した賊が男か女かまだ判らないのだから〝彼〟と書いてはマズイ。

 

 

                  



K     あ痛っ!(春)   18515行目

    アイタ!(九) 

 

 

L     な、なんですの、何か見つかりまして?         (春)  1899行目

     ナ、何ですの、何か發見(みつ、とルビあり)かりまして?(九)

 

 

M     胸を波打たせ、遠回りをしながら  (春)  18910行目

           胸を浪打たせながら遠廻りをしながら(九)

     この章は特に『九州日報』テキストを見ると横溝正史らしくもない、

         素人がやるような同じ言葉の無駄な繰り返しが散見される。

 


N     一部始終の話を物語った(春)  19015行目

     一伍一什の話を物語つた(九)

 

 

O     強く追及しようとはしなかった          (春)  1913行目

         強(しひ、とルビあり)て追及しやうとはしなかつた(九)


                     


綾小路邸で白根辯造殺しが起きてから息つく暇も無く、もう次の事件(木澤由良子拉致)が発生するという慌ただしい展開は、毎回のようにヤマ場を求められる戦前の新聞連載長篇探偵小説にありがちな事情。もう少し〝静〟のシーンをじっくり書かせてあげればいいのに、なんて私は思うのだが、それを許容すべき編集部の理解しかり、作家横溝正史しかり、まだまだモラトリアムな時代。



本作を『北海タイムス』にて執筆開始する二年前に横溝正史が大人向け長篇として着手した「女怪」。その【作者の言葉】の中で、正史はこのような事を述べている。掲載は「探偵趣味の会」機関誌『探偵趣味』。『横溝正史探偵小説選Ⅴ』より引用する。

〝 続き物の長篇小説は、どう考へて見ても、僕には不向きのやうな気がする。

  倦きつぽくてずぼらな僕は、きつと途中で厭気が差すだろう。〟

ご覧のとおり、あの正史でさえ最初は長篇を書くのを躊躇していた様子がわかる。
「女怪」は五回連載して中絶した。本格長篇に至る道程はかくも長く遠かったのだ。




(銀) 事件の中心人物でこそないけれど華やかな立場にある女性キャラに、アクティヴに物語を搔き回させたり鍵を握る重要な役割を与えたりすることが横溝正史作品にはままある。本作でいう綾小路浪子や、他にも由利・三津木シリーズ「夜光蟲」の諏訪鮎子とか。



正史作品におけるこの種の女性キャラのオリジンといったら、なんとなく私は本作と同時期に書かれた短篇「赤い水泳着」の芳子を頭に思い浮かべてしまうのだが、「赤い水泳着」のもっと興味深い点は芳子の他に木澤浪子という、本作の木澤由良子と綾小路浪子の双方に共通する名前を持たされた登場人物がいるという事。



登場人物の共通する名前といえば成瀬珊瑚もそう。改めて申すまでもなく成瀬子爵は男性だが、本作「覆面の佳人」(=「女妖」)連載の七年後に書かれた「蠟人」の主人公で17歳の半玉にも〝珊瑚〟という名前が与えられている。正史という人は自作の登場人物に同じ名前を使う事が他の作家よりは多くて、ここに紹介したいくつかの名前も、何かしらの理由で馴染みがあり気に入っていたのかも。こういうのは所詮読み手側の逞しい想像に過ぎなくて、作者本人としては実際のところたいした意味なんて無いんだろうけどね。


⑦へつづく。