⑥ 「奇怪の曲者」(1)~(7)
【この章のストーリー・ダイジェスト】
▲ 「奇怪の曲者」(1)~(7)
A 『九州日報』ではこの章のタイトルが(5)までは誤って「奇怪曲の者」となっており
(6)からやっと「奇怪の曲者」に落ち着く。
B いままで静まり返った部屋の中に(春) 176頁5行目
今迄静もり返った部屋の中に (九)
C 目ばかりがぎろりと物凄く光っている(春) 177頁2行目
眼ばかりがギロリと物凄く光つている(九)
こういう〈カタカナ〉での形容を悉く〈ひらがな〉にすると、
小説の味わいが薄まってしまう。
D 出し抜けに飛び込まれちゃ (春) 177頁11行目
だしぬけに飛び込まれて来ちや(九)
E 気をつけてくれなきゃ困るよ(春) 178頁3行目
氣をつけて呉れなきや困るよ(九)
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F 疑いを解くのはわけねえんですが(春) 179頁14行目
疑ひを解くのは譯はねゑんですが(九)
G 小型のピストルを化粧箱の抽斗から (春) 184頁5行目
小型の短銃(ピストル、とルビあり)を化粧臺の抽斗から(九)
この部分の『九州日報』マイクロフィルムの文字は掠れて読み取りにくいのだが、
〝箱〟ではなく〝臺〟のように私には見える。
H 側にぼんやり立っている牛松 (春) 184頁6行目
傍(そば、とルビあり)にぼんやり立つている牛松(九)
I 廊下を突っ切ると(春) 184頁9行目
廊下を突き當ると(九)
J 彼は立ち上がると、それでもどこか負傷したとみえて(春) 185頁3行目
彼は立ち上がるとそれでも何處か負傷したと見ゑて (九)
両テキストの異同指摘ではないのだが、
この時点では侵入した賊が男か女かまだ判らないのだから〝彼〟と書いてはマズイ。
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K あ痛っ!(春) 185頁 15行目
アイタ!(九)
L な、なんですの、何か見つかりまして? (春) 189頁9行目
ナ、何ですの、何か發見(みつ、とルビあり)かりまして?(九)
M 胸を波打たせ、遠回りをしながら (春) 189頁10行目
胸を浪打たせながら遠廻りをしながら(九)
この章は特に『九州日報』テキストを見ると横溝正史らしくもない、
素人がやるような同じ言葉の無駄な繰り返しが散見される。
N 一部始終の話を物語った(春) 190頁15行目
一伍一什の話を物語つた(九)
O 強く追及しようとはしなかった (春) 191頁3行目
強(しひ、とルビあり)て追及しやうとはしなかつた(九)
綾小路邸で白根辯造殺しが起きてから息つく暇も無く、もう次の事件(木澤由良子拉致)が発生するという慌ただしい展開は、毎回のようにヤマ場を求められる戦前の新聞連載長篇探偵小説にありがちな事情。もう少し〝静〟のシーンをじっくり書かせてあげればいいのに、なんて私は思うのだが、それを許容すべき編集部の理解しかり、作家横溝正史しかり、まだまだモラトリアムな時代。
本作を『北海タイムス』にて執筆開始する二年前に横溝正史が大人向け長篇として着手した「女怪」。その【作者の言葉】の中で、正史はこのような事を述べている。掲載は「探偵趣味の会」機関誌『探偵趣味』。『横溝正史探偵小説選Ⅴ』より引用する。
〝 続き物の長篇小説は、どう考へて見ても、僕には不向きのやうな気がする。
倦きつぽくてずぼらな僕は、きつと途中で厭気が差すだろう。〟
(銀) 事件の中心人物でこそないけれど華やかな立場にある女性キャラに、アクティヴに物語を搔き回させたり鍵を握る重要な役割を与えたりすることが横溝正史作品にはままある。本作でいう綾小路浪子や、他にも由利・三津木シリーズ「夜光蟲」の諏訪鮎子とか。
正史作品におけるこの種の女性キャラのオリジンといったら、なんとなく私は本作と同時期に書かれた短篇「赤い水泳着」の芳子を頭に思い浮かべてしまうのだが、「赤い水泳着」のもっと興味深い点は芳子の他に木澤浪子という、本作の木澤由良子と綾小路浪子の双方に共通する名前を持たされた登場人物がいるという事。
登場人物の共通する名前といえば成瀬珊瑚もそう。改めて申すまでもなく成瀬子爵は男性だが、本作「覆面の佳人」(=「女妖」)連載の七年後に書かれた「蠟人」の主人公で17歳の半玉にも〝珊瑚〟という名前が与えられている。正史という人は自作の登場人物に同じ名前を使う事が他の作家よりは多くて、ここに紹介したいくつかの名前も、何かしらの理由で馴染みがあり気に入っていたのかも。こういうのは所詮読み手側の逞しい想像に過ぎなくて、作者本人としては実際のところたいした意味なんて無いんだろうけどね。
⑦へつづく。