『Q夫人と猫』『葬られた女』よりも収録ボリュームを増量したというが、本の厚みは上記の既刊二冊とあまり変わりなくて、フォント・サイズを縮小することにより文字数を多く詰め込んでいる。改めて説明するまでもなく★1つの根拠は前回前々回と同様、本書編纂者の制作姿勢に対して。今回収録された四作の底本には全て初出誌テキストを採用、それぞれの作が当時の単行本に収録された時には以下のようなタイトル変更がされていた。
警察を辞め私立探偵になった男が敗戦後の混乱に乗じ私腹を肥やしてきた犯罪一味に立ち向かう暴力と性を売りにした中篇。初出誌『探偵倶楽部』の編集部は和製スピレーンと謳って本作をプッシュしていたようだ。戦後になって日本でも一気に流行りだしたこの手のハードボイルド/アクション小説はさまざま映画化されていたから、大衆の注目とニーズがあったことは間違いない。ただ残念ながら探偵趣味の魅力を湛えているとは私にはあまり思えないし、江戸川乱歩もこういったものを新時代の探偵小説の潮流として認め支援はしていたろうが、内心きっと「自分の愛する探偵小説とは違う」みたいな複雑な気持だったのでは?と想像する。
金が欲しい地方出の大学生・内田真吉は偶然鉢合わせた事件現場に残されていた大金に目が眩み、つい自分のものにしてしまったことから行き当たりばったり連続して人を殺めてしまって、その大金を狙う悪漢そして彼の周辺を嗅ぎ回る警察と、ふたつの敵に対峙せねばならない状況へ追い詰められてゆく。戦後派のケツの青い若者が引き起こす無軌道さばかりが目立ち、謎のインプットは一切無い中篇クライム・ストーリー。本書巻末解説で初刊本収録時の改題タイトルを「蒼の恐怖」と書いているが〈蒼〉じゃなく〈青〉では?
短篇。戦災で両親を失った女学生の〝わたし〟は神戸でひとり生きてゆくだけで精一杯だった。そんな時、彼女は逸見信祐という男に「楽な、いい金もうけができる」と誘われるが、実は逸見は麻薬密売に関わっており警察から目を付けられていた。〝わたし〟の申告で逸見は獄にブチこまれ、その後東京に出た彼女はある男性に見初められて社長夫人となり、誰よりも倖せな年月を過ごしてきた。
八年の時が過ぎ、出所して彼女の居場所を突き止めた逸見はかつての神戸時代の写真をネタに彼女を恐喝する。悪人の飼い犬である筈のドーベルマン/ネロと〝わたし〟の心の交流が犬好きにはグッとくる。鷲尾三郎には「影を持つ男」という作品もあってまぎらわしい。
〈鷲尾三郎傑作撰〉も三冊目だし、テキストの入力ミスが無くなっているのを心から願ったが、今回も入力後のチェックは一切されていないようで、上記にて挙げた傍線部分の巻末解説における誤りだけでなく本文中も入力ミスは多し。(下記に数えたものが全てではない)
「ペンシャコ」(36頁下段) ✕ → 「ペシャンコ」 ○
「しかしったい」(49頁上段) ✕ → 「しかしいったい」 ○
「血まみの腸」(50頁上段) ✕ → 「血まみれの腸」 ○
「美くしいものはすぐに」(68頁下段) ✕ → 「美しいものはすぐに」 ○
本書は変な送り字が非常に目に付くが、それはみな初出誌編集部のせいかもしれないので、一応この例だけ挙げておく。
「瞞されてい車輪の下敷に」(87頁上段) ✕ → 「瞞されて車輪の下敷に」 ○
♢
「それはいった誰だね?」(92頁上段) ✕ → 「それはいったい誰だね?」 ○
「そいつなナイフの刃を」(100頁下段) ✕ → 「そいつはナイフの刃を」 ○
「邪魔物」(103頁上段) ✕ → 「邪魔者」 ○
「また新の記事へ目を」(156頁上段) ✕ → 「また新聞の記事へ目を」 ○
「僕にどしろというんだ?」(168頁上段) ✕ → 「僕にどうしろと言うんだ?」○
古本ゴロどものせいで、ただでさえ古書としての残存数が少なく読むのが困難な鷲尾三郎を同人出版とはいえこうやって新刊で読みたい人が読めるようにするのはとても良い事なのに、なぜ善渡爾宗衛は不正確な入力のままテキストを見直すこともせずに本を発売するのか、そこがワカンナイんだよなあ。一冊にもっとゆっくり時間を掛けて制作するのは嫌なのか?そんなに慌てて次々新刊を連発しなければならない事情って何?もしかして善渡爾自身は毎回打ちあがったテキストを逐一確認しているつもりなのかもしれんが、間違いの存在に一向気が付けてないのか。
(銀) こんなテキスト入力ミスだらけの新刊を三冊も出しながら、来春にはまた鷲尾三郎の新刊を出すと善渡爾宗衛は予告している。鷲尾だけじゃなく、近々盛林堂から出そうな善渡爾の手掛ける新刊が同様の酷いことにならないといいのだけど。