2024年9月16日月曜日

『みすてりいno.4/夢野久作研究号』

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推理小説研究会
1964年10月頒布



★★★★    リバイバル前夜





急死して三十年の間、夢野久作は大衆の記憶から忘れ去られていた。
それが再び脚光を浴びるきっかけとなったのは昭和37年、『思想の科学』へ発表された鶴見俊輔による評論「ドグラ・マグラの世界」だ。そして三一書房が『夢野久作全集』の刊行を開始するのは昭和44年のこと。本日取り上げる約100頁の同人誌『みすてりいno.4/夢野久作研究号』はごく一部の好事家のための頒布ではあるけれど、鶴見俊輔評論と三一書房版全集を繋ぐ橋渡しのような文献だった。

 

 

 

編集後記には夢野久作に対する当時の見方が、次のように述べられている。

〝戦前は、「鬼才」と高く評価されていながら、戦後は幾つかの定評ある作品を除いて、ほとんど返り見られ(ママ)なくなっている。同時代の作家より不遇の感がある。これは、おそらく作品の非本格性であろうし、夢野が中道にして斃れたことにもその原因があろう。ここに夢野の秘めた可能性に再評価の価値がある(ママ)。

『みすてりい』は島崎博を中心に発行された推理小説研究会の機関誌で、上記の編集後記を執筆したのもおそらく彼。のちに雑誌『幻影城』を手掛ける識者の島崎をして、夢野久作が知る人ぞ知る作家扱いされていたその理由を「作品の非本格性」と言っていることにちょっと驚く。

 

 

 

同業作家の復刊に最も力を貸してくれそうな江戸川乱歩は、戦後になると本格物に執心。
仮に久作が本格系の作家だったら乱歩や本格推しの連中がもっと早く久作復古を打ち出してくれたかも・・・と想像することもできるけれど、実際のところ戦争に負けたあの頃の日本人は、(比較的裕福な乱歩は例外として)誰もが自分の生活に必死。何年も前に亡くなっている作家の業績を見直して、新たに作品集を出すべく働きかける余裕など無い。

探偵小説のフィールドで活動していたとはいえ、その作品内容は著しくオルタナティヴ。本格と変格、本格派と文学派の二項対立にも久作は当て嵌めにくい。島崎の言わんとする事も分からんではないが、「本格じゃないからスポットが当たらなかった」ってのはどうだろう?戦争が終わっても久作が蚊帳の外に置かれていた理由は、業界の中に夢野久作を強くプッシュする人がいなかったのと、出自が福岡を拠点としたローカル作家であるハンデ、この二つが大きな要因になったんじゃないか?

 

 

 

ここで読める権田万治(ママ)「宿命の美学」は、のちに『日本探偵作家論』に収録される夢野久作論の初出バージョン。久作論はもうひとつあって「昭和初期における忠君愛国的思想の典型的日本人である。政治思想における限りは、彼は常識的であり、常軌を逸しているとは思えないのである。」と語る仁賀克雄の指摘は、久作に〝主義〟を背負わせようとするヘンな研究者の言とは異なり、すんなり受け入れられる。

 

 

 

その他の収録内容は以下のとおり。


作品論

【浪漫の花-「押絵の奇蹟」論-小村寿】

【脳髄の地獄絵-「ドグラ・マグラ」論須永誠一】

【狂った美学-「瓶詰地獄」論-曾根忠穂】


エッセイ【社会派の先駆-白石啓一】

アンケート【夢野久作とその作品について-諸家】

資料【夢野久作、著作・文献リスト-島崎博】

 

間羊太郎が書いた【夢野久作・作品ダイジェスト】は本編とは別枠で、40頁ものスペースが取られている。今でこそ久作の作品リスト・著書リストは手軽に得ることができるけれど、三一書房版全集が出る前は本誌の書誌情報に頼らなければ、久作を読むための本を探す指標は殆ど無いに等しかった。

 

 

 

現役探偵作家が寄せたアンケートを見ても、昭和30年代に夢野久作の作品を読むことの困難さが伝わってくる。「全部読んでるぞ」と豪語しているのは乱歩と萩原光雄(黒部龍二)と楠田匡介のごくわずか。そんな彼らでも、この時点ではまだまだ未読作品がかなり多く存在していた筈。産声を上げたばかりの久作研究、しかし三一書房版全集が形になるまで、あと五年待たなければならない。

 

 

 

(銀) 本誌28頁には、『みすてりいno.5』の内容予告も載っていて、小酒井不木特集が予定されていた。しかし次号は刊行されず、『みすてりい』は本誌no.4までしか残存していない。

 

no.4で終わってしまったその理由が分かる資料がなかったか思い出そうとしたけれども、これといったものが頭に浮かばない。雑誌『幻影城』の盛衰に関する資料はいくつかあるが、『みすてりい』についての情報が無いのはちょっと残念。





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