「一 たてがみのある女」
「二 女は夜来る」
「三 面をかぶった女」
「四 女をゆすれ」
「五 鍵と女」
「あとがき」
〝一話完結エピソード〟が五篇並び、それぞれ発表誌はバラバラみたいだし、形としては短篇集扱いになるのだろう。すべてメイン・キャラクター滝田行雄が登場、彼の境遇は薄ぼんやり連続していると思われる。作者が「あとがき」で語っているように選び抜いた言葉とその配置の仕方など、文章にこだわりを持って書いているのは読んでいてもはんなりと伝わってくる。しかし私がどうにも閉口するのは滝田行雄がどんな女でもあわよくば一発ヤリたいだけの男で、一応働いてはいるみたいなんだが常に描かれているのは競輪にのめり込むシーンという〝煮しめたような小市民感〟。明瞭にユーモア調を選択していないぶんサスペンスは織り込みやすいはずだけど、このビンボー臭さはイヤだな。
次々出会う女たちと滝田とののっぴきならぬ〝モメ事〟がストーリーの根幹。〝犯罪〟と呼ばず〝モメ事〟と表現している点からして、本書に見られるサスペンスの特徴がどれだけ日常範囲のドメスティックなものか察して頂けるだろう。彼女らは『ガールフレンド』という書名から想像したくなる身綺麗な存在とは全然違って、例えば三十過ぎの毛深くてあから顔の粗野な女医だったり、まだ正式に前夫と離婚してもいないのにダラダラ滝田の遊びの相手になっている中井晋子だったり、吃音かつ兎口で冴えぬ男の細君・高段マサ子だったり、皆なにかしら泥臭さを纏っている。「一 たてがみのある女」に登場する畑中幸恵だけ唯一まともだが、ふらふらしてばかりのC調な滝田が幸恵と結ばれる・・・てなことは無い。
〝のほほん〟とした空気が流れているのは三橋一夫っぽくもある。そういえば日下三蔵が推していて中間小説みたいな趣きが流れているところなど共通点は多いかも。龜鳴屋が勧めるものなら素直に受け入れもできるが、盛林堂と日下がやれ「伊藤人誉の著書は激レア」だの、「『ガールフレンド』の元本(東京出版センター版)には遭遇する機会がない」だの、古本乞食を釣らんとするセリフをちらつかせるので不快感しか湧かない。それしか言うことはないのか?龜鳴屋とは対照的な心根をもつ連中の標的にされた物故作家はまことに不幸なり。
(銀) 伊藤人誉のこの文章の感じって、小沼丹が好きだった久世光彦がもし生きていたら喜びそう。それは私も理解できるけれど、色川武大じゃあるまいし本書における滝田行雄の競輪狂いには辟易。最近とみに、従来よく知られている日本探偵作家そっちのけで「これってミステリの範疇なの?」と思われるような作家や作品を「これこそミステリである」と押し切って売り出す新刊が多い。この傾向しばらく続きそうな気がするが、なんだかなあ。
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