江戸川乱歩が随筆雑誌『三十日』の第二巻第一号に「池袋雑筆」というちょっとしたエッセイを寄稿していた。その存在は「江戸川乱歩執筆年譜」昭和24年度(☜)上にて抜かりなくチェックされているのだが、中相作によればこれは乱歩本人の書いたものではないそうで、「江戸川乱歩執筆年譜」には〝偽作〟の注記が見て取れる。
その後、私も『センター通信』第17号を入手。「池袋雑筆」の全文並びに石川巧による件の論文を確認した。石川の【「ほんものが生きてゆけない世間」への憂い】を読むと、「池袋雑筆」を取り上げるにあたりwebサイト『名張人外境』の「江戸川乱歩執筆年譜」を見て、中相作がこのエッセイを〝偽作〟としているのは一応確認したようだが、論文の中で石川はこんな事を書いている。
〝中相作がどのような根拠に基づいてそのように表記したのかは不詳だが、『三十日』という雑誌の信頼性および「池袋雑筆」の内容から類推する限り、この随筆を「偽作」とする理由は見出せない。〟
さて、本日の記事を御覧になり「『センター通信』入手できないよ」という方はBlog画面左上の画像をクリック拡大し、『センター通信』第17号6ページに転載されている「池袋雑筆」の全文を読んでみて下さい。「池袋雑筆」に目を通して私が感じたのは、内容どうこうというよりも、そこで使われている言葉遣いへの違和感である。中相作には到底適わないものの、人並み以上に乱歩を読んできたつもりだし、ワタシの頭の中には〝乱歩らしい言葉遣い〟のイメージがある。しかし、「池袋雑筆」に見られる文章はどこかしら、そのイメージから逸脱しているような気がする。
例えばコチラ。旧仮名遣いになっている文字があるけれど、雑誌『三十日』の「池袋雑筆」にはこのとおり印刷されているのを石川巧が転載したのであろうから私のタイプ・ミスではないですよ。
〝みんな酔ひどれ天使を気取る兄ちゃんや姐ちゃんである。〟
〝おきのどくながら「馬鹿正直」という言葉が口え上るのだ。〟
石川巧については言いたい事がいろいろあるが、今日はそれをやっている暇が無い。興味のある方はこのBlog画面の右上のほうにある「このブログを検索」のところに石川巧と打って検索して頂ければ、彼について書いた過去の記事が読めます。
(銀) 本日の記事を書くため久しぶりに江戸川乱歩記念大衆文化研究センター公式HPを開いてみた。そこにはセンターの組織人員が掲載されていて、現体制は以下のようになっている。
センター長
金子明雄 (文学部教授)
運営委員
井川充雄 (社会学部教授)
石川巧 (文学部教授)
石橋正孝 (観光学部准教授)
尾崎名津子 (文学部准教授)
川崎賢子 (清華大学日本研究センター客員研究員)
菅谷寧 (総長室事務部長)
土居浩 (ものつくり大学教授)
野中健一 (文学部教授)
細井尚子 (異文化コミュニケーション学部教授)
水谷隆之 (文学部教授)
宮川健郎 (武蔵野大学名誉教授)
所員
後藤隆基 (助教)