「誤植や誤情報につきましては読者様からご指摘を受ける事もございますので参考とさせていただいております。」って、まるっきり自覚の無い他人事みたいな物言いだな。この論創社のツイートを見て、数日前に会見を開いた旧統一教会の勅使河原秀行本部長と福本修也弁護士の白々しさを思い出した。あのさあ~「一箇所たりともミスすんな」なんて無茶は言わんから、せめて私の気付かないようなところでミスするとか、一冊の本で五箇所以内のミスに収めるぐらいの仕事はできんものかね?論創社の本造りの粗さに気が付いている人はただ沈黙しているだけで、上段にて紹介したazzurroさん以外にもきっといる筈だぞ。
2022年9月26日月曜日
『川野京輔探偵小説選Ⅲ』川野京輔
2022年9月20日火曜日
『影なき女』大倉燁子
B 『復讐鬼綺譚』(柳香書院 昭和12年11月発行)
C 『女の秘密』(永和書館 昭和22年12月発行)
(銀) ただでさえ少ない女流探偵作家、その上、戦前から活動していて長篇創作探偵小説を発表している女性は貴重なんで、その点は評価したいのだけど、「殺人流線型」の出来はどうにもいただけない。でも二短編はそれほど疵瑕を感じず読むことができるので相殺してようやく★3つといったところ。
2022年9月19日月曜日
書店では売られてこなかった三上於菟吉の研究文献
え? さっき「三上於菟吉を知る為の手引きとなる本は無いって言ったばかりじゃん」って?いやいや、それは一般商業書籍の話であって、過去には於菟吉の故郷・埼玉県春日部方面から有志たちによる四冊の資料が世に放たれているのだ。
① 『三上於菟吉讀本 生涯編/作品編』 春日部高 文學部/庄和高 地理歴史部

ただ単純に原稿を書いているだけではなく、於菟吉著書の書影/於菟吉作品の挿絵/当時の関連記事など図版がたくさん転載されていて参考になるし、さすがに30年前のアマチュアの手になるものだからプロの編集技術には及ばないけれど、材料を収集する手掛かりも少なかったろうに、よくここまでの本を作り上げたものだと感心する。情報量だけでいうなら、この二冊を超える三上於菟吉研究文献はいまだ世に出ていない。価格が書いてないところを見ると、図書館や文学館や学校へ配布する目的で作られた非売品らしく、古書として入手するのは大変そうだから、埼玉エリアの図書館蔵書を探して読むほうが早いかもしれない。
② 『図録 三上於菟吉と長谷川時雨』 埼玉県庄和町教育委員会

③ 『生誕一三〇周年記念誌 三上於菟吉再発見』 三上於菟吉顕彰会

といった具合に、この作家の研究文献は皆無ではなく、春日部の人々がなんとかして三上於菟吉を忘れないよう尽力しているのが泣かせるじゃないの。でも残念ながら於菟吉が探偵小説に関係している部分については①~③のどれも抜けがあるのは惜しい。例えば①の『作品編』には多くの於菟吉作品がずらっと紹介されているのだけど、探偵小説として雑誌『キング』に連載された「幽霊賊」は漏れている。この長篇、戦前の初刊は大人ものとして、戦後はジュヴナイル扱いとして単行本化されているが、両方ともレアでなかなか見つからないから仕方ないんだけどね。
その「幽霊賊」が③では「幽霊城」とされていたり、また探偵小説読者の間では江戸川乱歩/直木三十五ら大物作家の翻訳は名義貸しだと認識されている平凡社版「世界探偵小説全集」のドイル/三上於菟吉(訳)『シャーロック・ホームズの帰還』(1929年)『シャーロック・ホームズの記憶』(1930年)も、やはり於菟吉自身の訳ではなく代訳である可能性が大なのだが、③にて堂々と「見事な翻訳」などと書いているのはどんなもんか。もっとも、本当に於菟吉本人がドイルを翻訳したという証拠を掴んだ上で発言しているのであれば、私のほうが詫びなければならないが。
③の冒頭には於菟吉と同じ高校卒業生というので北村薫が「三上於菟吉先輩のこと」という短文を寄せており、その中で長年伝えられてきた某於菟吉作品の粉本がサッカレー「双生児の復讐」だと放言するのは恥ずかしい間違いだと指摘してくれている。①~③の中で、ある程度以上探偵小説に詳しい書き手は北村薫ただひとりだし、少なくとも③全体の監修も北村に頼んでおけば、いくつかのミスも避けられたのに。いずれにしても、そんな探偵小説に関する不備を解消するような三上於菟吉研究本が(できれば一般商業書籍の形で)いつの日か作られるといいけど、力量と熱意を持った適任者が果して存在するかどうか・・・。
(銀) 三上於菟吉の作品で探偵小説の角書きが付いた中長篇と言ったら、上記に挙げた「幽霊賊」以外に「銀座事件」がある。あと探偵小説とはいえないかもしれないが『日本幻想文学大全Ⅲ 日本幻想文学事典』(ちくま文庫)の三上於菟吉の項にて東雅夫が紹介していた「黒髪」、ミステリ専門古書店落穂舎の古書目録『落穂拾い通信』にて巻頭のカラー・ページ上に掲載されていた「美女地獄」など、探偵小説のテイストに近い作品が存在する。湯浅篤志が『三上於菟吉探偵小説集』にどんな作品を収録するつもりなのか楽しみだ。
2022年9月15日木曜日
『松本清張推理評論集1957-1988』松本清張
❆ 私のBlogで扱っているような探偵小説、そして私のBlogではまず扱わない社会派推理小説、この二つのビミョーな関係について松本清張が大なり小なり言及している評論/エッセイの類いを一冊に纏めた、今迄ありそうでなかった単行本が上梓された。私のように清張/社会派推理小説が全く好きではない人間にも改めて発見を与えてくれるし、これを読んだからって清張派に乗り替える・・・なんてことはまず無いにせよ、中央公論新社のGoodな企画には拍手を送りたい。
この両名には不思議な共通項がある。正史は友人こそ多いけれど病気持ちゆえに外出できる機会がかなり制限され、一方の清張は宿痾みたいなハンデは無かったが、下戸だし友人と呼べる人もいなかった。状況こそ違えど余計な人付き合いをしなくていいぶん、二人は創作に専念することができたのだ。
でも、探偵小説オタクみたいな卑しい人種が発生するぐらいなら、今の状態のほうが健全でいいのかもしれない。なんたって探偵小説のギョーカイはどんだけテキストが誤字脱字だらけでも、作り手も買い手も一向に危機感を抱かない老害ばかりだからね。
2022年9月10日土曜日
『悪男悪女』渡辺啓助
ここに収められている五短篇はいずれも戦後に書かれ発表されたもの。本書における収録順ではなく、初出誌発表順に見ていくとしよう。
♯ 「盲目人魚」 『宝石』昭和21年10~11月号掲載
敗戦にて悲惨な傷を負わされた者達がひっそり湯治している人里離れた奥上州温泉の風情がよく伝わってくる(もう長いこと行ってないけど、温泉はイイよね~)。
なにげに鉱毒に関する記述があって、浜田雄介は「盲目人魚」を再録した『渡辺啓助探偵小説選Ⅰ』解題の中で遠慮気味に本作を「社会派の先駆け?」と評しているが、その部分は単なる枝葉にすぎない。話の後半になると、主人公は本所向島という東京都内でも(昔は)ガラのよろしくなかった地区に探りを入れるため足を運びもするが、この作品はシンプルに〈温泉ミステリ〉と捉えて差し支えないと思う。
初出誌からテキストを起こした『渡辺啓助探偵小説選Ⅰ』では「インテリの刺青」までを前篇、「矢毒とイマジネエション」以降を後篇と銘打っているが、この『悪男悪女』では前篇後篇表記は省かれている。本作が『悪男悪女』の前にも単行本に三度収録されている点は注目していい。
♯ 「ミイラつき貸家」 『宝石』昭和24年7~8月号掲載
このタイトルを見て読者は「ハハ~ン、取り憑かれてミイラを自分で製造する奇人の話か」と想像されることであろう。なんだろうなあ、〈ミイラ製造の狂気〉それと〈美しきファム・ファタールへの執着〉、このふたつの素材は実に魅力的ながら、偏愛対象を二代にしてしまったせいで彼女たちの妖しい美のアピールが片手落ちになっていたり、芦名邸の同居人・瀬渡桂彦の動かし方がいまひとつだったりで、残念ながら満腹感は得にくい。本作は戦時下~戦後の渡辺啓助作品から良作を選りすぐったという平成13年の単行本『ネ・メ・ク・モ・ア』(東京創元社)に再録されたけれども褒め称えるにはもう一息。
♯ 「黒い扇を持つ女」 『宝石』昭和24年12月号掲載
自分の保身のため恋仲になった女を実に酷い目に遭わせる教師時代の千崎仙助はサイテーな男。しかも片輪になるぐらいの被害を受ける女性というのが、外見は美しく資産家の娘でありながら特殊部落出身の一家という理由で、周りから差別的な目で見られている不幸な娘。文中に何度か出てくる〝ちょうりんぼ〟という言葉は長吏(ちょうり)、つまり賤民を意味する。
書き方によっては前述の「盲目人魚」よりもむしろこちらのほうが社会派というか問題提起作になりそうな気がするが、渡辺啓助の美意識はそのようなシリアスなテーマをプロットの軸に選ぶことを良しとはせず、黒い扇を持つ女/女スパイ・陳萬珠の登場(?)によって話がちとゴチャゴチャしてしまった感あり。全体を俯瞰すると決して成功しているとは言えぬ内容なのに、メインキャラ千崎仙助と納戸まさ子の二人が読者に残す印象はなかなかに鮮烈で、下段にて紹介する昭和30年代の渡辺啓助作品よりもずっと心に残る。『渡辺啓助探偵小説選Ⅱ』に再録。
♯ 「素人でも殺せます」 『新生』昭和33年7~8月号掲載
2022年初夏に皆進社から発売された『空気男爵』(渡辺啓助)に再録。この新刊に収録されていた啓助作品は連作長篇「空気男爵」をはじめ殆どのものが〈コメディ〉と呼ぶレベルではないにせよ明るめの演出が施され、「盲目人魚」のようにネットリとした感触のアトモスフィアーは避け、作者自身とは年齢が離れた(1950年代以降当時の)現代的な若者(特に女性)を題材の中心にしている印象を受けた。
よくこのBlogで指摘している事だが、戦前に青春時代を送った作家からしたら(仮にその人の作家デビューが戦後であったにせよ)彼らが若さを謳歌していた時期というのは、どう足掻いても戦前という過ぎ去りし昔の話で。敗戦の混乱が徐々に落ち着き、国内の世情が明るさを取り戻してきていたとしても、戦前世代の作家達が小説の中で描く戦後の若者像には、中高年が無理して若者の素振りを真似ているようなズレが生じてしまうのが哀しい。本作を書いた昭和33年、啓助は既に58歳。昭和の58歳は令和の58歳と違ってはるかに老齢である。「ハイティーン」と書くべきところ本作で「ハイテーン」と表記しているのを見たら、昭和30年代であっても当時のティーンはやっぱり年寄り臭く感じたのではないかな。
国破れ灰燼と化すという、それまでの歴史上前例の無い悲劇が日本に降りかかってきて、昭和20年8月15日の前と後では凄まじい程の文化の分断が生まれた。敗戦前に十代~二十代を送ってきた作家が敗戦後に青春期を迎える若者像をビビッドに描こうとしたところで、そこにはPC/携帯の出現以前に青春期を迎えた今の中高年に対するどっぷりスマホに洗脳された若者世代以上の、どうにも埋め難いジェネレーション・ギャップがあったに違いないのだ。だってそれまで学校で〝白〟だと教えてきたものを、戦争に負けて天皇が玉音放送を流した途端に手のひら返しで〝黒〟だと教えるんだもの。そりゃショックで日本人の人間性も変わるわな。
戦前探偵作家が戦後に書いた作品の問題点について取り留めもなく書き連ねてしまったが、渡辺啓助だけでなくほぼ全ての戦前探偵作家にとっては1950年代から、江戸川乱歩逝去後やっと社会派ミステリが飽きられ、ディスカヴァー・ジャパンの波に乗って乱歩・横溝正史・夢野久作のリバイバルが台頭してくる1960年代半ばまでの数年間というのは、どんなカードを切ってもうまくいかない不幸な時代であり、「素人でも殺せます」のような作品もそんな時代の産物だという事を私は述べたかったのである。
♯ 「一日だけの悪魔」 『大衆読物』昭和33年10月号掲載
この作品、『悪男悪女』以降の単行本には再録されたことがないのでは?(違ってたらゴメン)某新聞にて「身の上相談」欄を担当している宇原清志のもとに、直接対面で「意見を伺いたい」と妙な男がやってきて、その男が語る強盗事件にいつのまにか宇原が巻き込まれてしまうというストーリー。『宝石』とは異なり『大衆読物』という雑誌はチープなカストリ・マガジンらしく上品ではないエロ・テイストがあり、事件発覚のオチもあるものの特段付け加えることは無い。
(銀) 皆進社版の水谷準『薔薇仮面』しかり次に出た渡辺啓助『空気男爵』も、誰でも気軽に読めるようになった事は素晴らしいが内容的には褒めたい箇所が見つからず、『空気男爵』収録作と発表時期が近いものが半分を占めているこの『悪男悪女』を取り上げた。〝悪男悪女〟というのはあくまで書名であって「悪男悪女」という作品がこの本に入っている訳ではない。ここで『悪男悪女』を★4つにしたのは矢張「盲目人魚」と「黒い扇を持つ女」が載っているからかな。
渡辺啓助は2002年永眠、101歳。もともと戦後の啓助は若い世代と接する機会が多く、「新青年」研究会の古いメンバーなどは啓助と親しい交流があった。戦前から活動していた探偵作家と会うことができたのだから、既に亡くなってしまっていた他の探偵作家に比べて、自然に彼らは啓助への親愛の情を深めたことだろう。そういう理由もあり「新青年」研究会において渡辺啓助(そして弟の渡辺温)は、他の探偵作家よりも幾分か贔屓の度合が強いような気がする。若く新しい読者はこの辺の内部事情を押さえた上で日本探偵小説の世界に踏み込んでいった方がいい。