2021年8月8日日曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史⑤

NEW !

九州日報
1930年3月17日~3月31日掲載



■「富豪の秘密」(1)~(14)




【この章のストーリー・ダイジェスト】


▲ 「富豪の秘密」(1)~(14

 

前章のラストにて重要参考人の安藤婆さんも殺害された。場面変わって綾小路浪子の邸宅では、各界の名士を集めた、年に一度の舞踏会を開催。浪子は美しく着飾った木澤由良子を伴い、客を饗している。名越梨庵伯爵になりすました成瀬珊瑚はフィアンセの春日花子と再会するが、悲しいかな、まだ本当の事を打ち明けられる状況にはない。彼は「友人の成瀬子爵を救いたい」というふりをして、彼女に贈ったイニシャル入りのナイフが春巣街の殺人に使われた経緯を問い質すが、自分があのナイフをプレゼントした相手は父・春日龍三だと言って花子は激昂する。

 

 

その龍三氏は花子から離れた場所に居り、大使館付き武官・白根辯造と称する人物から古い書類をネタにゆすられ愕然としていた。齢五十を過ぎた龍三氏の前妻が豪州で死んだというのは実は誤りたる話で、春巣街で先日殺されたあの女こそが前妻その人だったという驚天動地の事実を告げられる。もしもそれが本当なら、龍三氏は先妻との離婚手続きをしないまま現在に至っている以上、花子の母(こちらも故人)とは二重結婚罪となり、花子はただの私生児になってしまう。

と、突然広間の電燈が消え来客達がざわめく暗闇の中、白根辯造は何者かに刺殺され、例の書類はどこかへ消えてしまった。一瞬にして白根を屠った下手人は誰ぞ?

 

                      


以下は「富豪の秘密」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。
この章における『九州日報』のマイクロフィルムは 3月18日44回「富豪の秘密」(2)の1/3程度が欠落しているため、その部分の比較検証はできなかった。

 

 

A   比類を見ないと言われている(春)  1325行目

       比類を見ないと言はれる  (九)

 

 

B   政界要路の大立者(春)  1327行目

   政界要路の立物 (九)

   これは春陽文庫のほうが正しいけれど〝立者〟でよかったのではないか。

 

 

C   これはこれ、英国大使館付の武官(春)  13410行目

       こはこれ、某國大使館附の武官 (九)

    某國 → 英国?       

 

 

D   令嬢の花子もまた黒っぽい衣服に(春)  1364行目

         令嬢の花子は又、深い衣服に  (九)

 

 

E   慌てて返事をしたが、ただちにそのあとへ(春)  1418行目

     周章て返事をした、が直にその後へ   (九)

 

 

                   

 


F    かえって無気味でもあり不安でもあった(春)  1441行目

    却て無意味でもあり、不安でもあった (九)

 

 

G    子爵の無実の罪を晴らすのです        (春)  14417行目

        子爵の冤(むじつ、とルビあり)を晴らすのです(九)

    春陽文庫では〝冤〟を一律〝無実〟と書き換えていながら、

    1504目では冤のままで、しかもルビは〝えん〟と表記している。

 


H        陰気だった。伯爵は相手の疑惑をはっきりと意識した。 (春)1455行目

 

    陰気だつた。突然、伯爵が體を乗り出すやうにして訊ねた。

 「さあ・・・あれは・・・」伯爵は相手の疑惑をはっきりと意識した。(九)

 

  ここに示した春陽文庫に抜けている箇所が、

    どういう訳か14634行目へ移動してしまっている。

 

 

I         しかしでは、その人が犯人だと(春)  14615行目

     然し、ではその人が犯人だと (九)

 

 

J     その人があの凶器で本の頁を (春)  1486行目

          その人があのナイフで本の頁を(九)

          この場面で花子が〝あの凶器〟と口にするのはおかしい。

 

 

                      

 


K    十も年齢(とし、とルビあり)を余計に取った(春)  1557行目

    十も年(ルビ無し)を餘計にとつた     (九)

 

 

L        それで、あれはいつ亡くなったのだね?          (春) 15510行目

      それで、彼女(あれ、とルビあり)はいつ亡くなつたのだね?(九)

 

 

M    あのか弱い花子はどうして           (春)  15610行目

          あの繊弱(かよわ、とルビあり)い花子はどうして(九)

 

 

N    秘密が一度に暴露したら(春)  15616行目

        秘密が一度で暴露したら(九)

 

 

O       どんな家庭の伜だって (春)  1572行目

         どんな豚殺しの伜だつて(九)

         これも差別用語としての言葉狩り。


 

                     

 

 

P   目下成瀬子爵を厳探中なのです。春巣街で殺されたあの女、(春)  15715行目


   目下成瀬子爵を厳探中なのです。

   御存知ではありませんか。春巣街で殺されたあの女、   (九)

 

 

Q   困難を感じた(春)  1588行目

         困惑を感じた(九)

         明らかに春陽文庫のミス。


 

R   十年以上も生きていたのです (春)  1598行目

   二十年近くも生きてゐたのです(九)

   本作冒頭にて、春巣街で殺されていた女の年齢描写は三十代半ばと書かれていた。

   あの描写を優先するとなると、春日龍三と結婚した当時の死美人の年齢を考えた場合に

   辻褄が合わなくなるから春陽文庫はこのように書き換えたのだろうが

〝十年以上〟としても、やはり彼女はかなりの早婚になってしまうのでは?

 

 

S    と、そこには夜会服を着た   (春)  1663行目

    と、見る、其處には夜會服を着た(九)

 

 

T    いったい、いつごろまで(春)  17014行目

    一體何時頃迄     (九)

 

 

                      

 


U    ところが突然、恐ろしい悲鳴が(春)  17116行目

   突然ところが、恐ろしい悲鳴が(九)

   これは『九州日報』のミス。

 

 

V   浪子はそれを聞くと、少なからず顔色を変えた(春)  1731行目

   浪子はそれをきくと、尠からず顔色を變へた (九)


                       


本作の元ネタはアメリカの女性作家 A・K・グリーンだと云うが、彼女の何という作品を横溝正史は翻案したのか、いまだ不明とされている。となると本作を『北海タイムス』上で連載する前年(1928)の『新青年』、その昭和3年6月臨時増大号と7月号に正史が執筆したふたつの作品が気になる。



ひとつは6月臨時増大号に坂井三郎名義で翻訳したファーガス・ヒュームの「二輪馬車の秘密」。黒岩涙香のオールドスクール感を打ち出し江戸川乱歩を喜ばせた逸話はよく知られており、英国が舞台なので、全体的な雰囲気は本作に通じるものが確かにある。ゴービーという鬼刑事が蛭田紫影鬼検事へ、グッター婆さんが安藤婆さんへ発展したかどうかは読む方々の判断にお任せしたい。



もうひとつは、7月号に川崎七郎名義で発表した創作もの「桐屋敷の殺人事件」。これは二話分載すると思われたが、一話きりで中絶した。この作品の冒頭を見てみると、夜の街頭を警官が巡回していて、ある建物に異変を感じ室内に入ってゆく。このあと警官はアッパーカットを喰らって賊に逃げられるのだが、それまでの導入部分は非常に短いシークエンスであれ、本作(「覆面の佳人」「女妖」)と酷似している。



「二輪馬車の秘密」と「桐屋敷の殺人事件」の延長線上に本作があったのだろうか?



(銀) A・K・グリーンに近い世代で探偵小説を書いていた海外作家といったら、ヒュームの他にボアゴベ/ウィルキー・コリンズ/ガボリオ/ウィリアム・ル・キューがいる。要するにドイルが登場してくる前の世代だ。 



⑥へつづく。


                     


2021年8月5日木曜日

『人造人魚』大河内常平

NEW !

盛林堂ミステリアス文庫 善渡爾宗衛(編)
2021年7月発売



★★★★   妖怪博士 蛭峰幽四郎ふたたび




ここ数年、ようやく大河内常平の新刊本がポツポツ出るようになった。
今回は十作品すべて単行本未収録作のみで一冊仕上げた短篇集。有難い。

 

 

白い蛇は昔から縁起のいいものと言われているが、
「黒い小蛇」は、小さな生き物を手荒に殺した男が皮肉にも祟られてしまう怪談。
「海底の情鬼」は、海の底に横たわる女の屍体をなぐさみ、
自分を裏切った若妻とその不倫相手に復讐せんとする情痴のマリン・スリラー。
「情事に報酬はない」は、結核患者という大河内らしくない療養所のシチュエーションで、
性交こそ最も身体に悪い行為だと言われていたのに、
夜毎病室に忍んでくる妖しい女の魔力にどうしても抗えぬ男の独白。

 

 

そういえば初めて大河内や楠田匡介を読んだ時、ヤクザ・チンピラ・パンパンが入り乱れるやさぐれた内容が多かったものだから、「戦争に負けて探偵小説もこういうのが題材になるほど世の中貧しくなってしまったんだな」という拒否反応があって、この手の風俗に慣れるまでに、少し時間がかかったのをふと思い出した。
「桃色の替え玉」など、まさしく下賤なパンパンを描く一品。
「進行性痴呆症」は、あまとりあ社の単行本に入っていてもおかしくない艶笑譚。

 

 

「呪われたテント」は傴僂の小男ゆえサーカス団の中で虐められているピエロ・徳治の、
まあなんというか、いわゆる「踊る一寸法師」みたいな逆襲劇。力の無い者が如何にして、五人の大人を一列に並べて首吊り刑にする事ができたか、という馬鹿馬鹿しくて笑えるトリック。
「三人目の女」も、大河内節が飛び交う与太公ミステリ。
「仮面の獣人」〝推理探偵小説〟と角書きがあるのは、クライマックスに子供っぽい理科の実験みたいなトリック(?)が使われているからか。

 

 

大河内には〝クルス速水〟という別名義があるが、「闇に笑う影」に登場する私立探偵の名前は速水恒太郎といって、シリーズ・キャラ探偵の来栖谷一平とは異なる。その来栖谷一平とも共演していた怪人物・蛭峰幽四郎博士は『大河内常平探偵小説選 Ⅰ 』収録の「25時の妖精」で助手の江波貞雄と共に死んだはずだったが、「人造人魚」にてまたしても登場。そういえば「25時の妖精」ラストシーンとそっくりの情景が、「人造人魚」以外の本書のある作品にて描かれているのに気が付かれただろうか?


 

 

(銀) 文庫サイズだし、内容的にも大満足の大河内本なんだが、
私の買った『人造人魚』は文字が擦れ、中には読み取れない箇所がいくつかあったため減点。
印刷が上手くいってなかったのだろうが、こういうのは困るよ。



「25時の妖精」最終エピソードが雑誌に発表されたのが昭和36年2月。
単行本『25時の妖精』(浪速書房)が刊行されたのが昭和35年12月(奥付による)。
すると単行本は最終エピソードよりも先行して発売、あるいはほぼ同時に発表された?
それはともかく「人造人魚」が雑誌発表されたのは昭和36年8月のこと。
蛭峰幽四郎博士が好評にてアンコール執筆したのか、それとも軽い気持で再登場させたのか、
真相を知る手掛かりがどこかに残っていればいいけど。



先程書いたとおり、最初は大河内や楠田匡介のようなヤクザやチンピラの跋扈する探偵小説は嫌だったが、今ではこうして抵抗なく読んでいるのだから、我ながら現金なものだ。大河内の著書は入手難なので、単行本未収録作だけでなく既刊収録作も続々再発してほしい。
今日の「女妖」はお休み。
 

 

 


2021年8月3日火曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史④

NEW !

九州日報
1930年3月6日~3月16日掲載



■「時計の中」 (1) ~(11)




【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

▲ 「時計の中」(1)~(11

 

春巣街事件の鍵を握っているのは牛松と睨み、蛭田紫影検事は変装して酒場で張り込んでいる。牛松の情婦・お兼が買物に出かけたと聞き、蛭田検事は誰もいないお兼の部屋に単身踏み込み、もうひとりの部下は外の監視に回った。誰かが帰ってきた様子に気付いた蛭田検事は部屋の隅に立てかけてある大時計の中に身を潜める。すると女の声でお兼を呼ぶ声が。それはあの雪の日の春巣街で、蛭田から成瀬珊瑚を奪っていった女だったではないか。

 

 

だが些細なミスから隠れているのがバレてしまった蛭田検事は大時計の中に閉じ込められ、一枚上手だった女は、その場へ帰ってきたお兼を連れて裏道から姿をくらます。屈辱で怒り心頭の蛭田が検事局へ戻ると、庄司三平という豪州通いの老水夫が訪ねてきていた。老人は春巣街の死美人を知っており、彼女の名は白根星子だと述べる。そして安藤婆さんがあの死美人と牛松の母親だったことも分ってきた。

 

                     


以下は「時計の中」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが、明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。 

 

 

A   おれアな、今日は成金だぜ(春)  1005行目

   俺ア今日は成金だぜ   (九)

 

 

B   よく探ると、彼らはそこで   (春)  1015行目

   そこでよく探ると、彼等は其處で(九)

 

 

C   辺りに気を配りながら小声で         (春)  1024行目

   邊(あたり)に気を配りながら低聲(こごえ)で(九)

 

 

D   なお余りある恋敵なのだ(春)  10216行目

       尚餘りある戀敵なのだ (九)

 

 

E       ドアのノブを回す音が            (春)  10910行目

       扉(とびら、とルビあり)のハンドルを廻す音が(九)

   校正者はどうしても〝ハンドル〟ではなく〝ノブ〟にしないと気が済まないらしい。



                      

 


F     じっと息を殺して(春)  1107行目

   凝つと息を殺して(九)

   この変換も、ここだけに限ったことではないのだけれど。

 

 

G      生憎なことに向こうを向いていたので(春)  1109行目

   生憎な事には、向ふを向いていたので(九)

 

 

H   大きなくしゃみをした        (春)  1113行目

   大きな嚔(くさめ、とルビあり)をした(九)

   昔は〝くしゃみ〟の事を〝くさめ〟と表記していた。

 

 

I   「しまった」    (春)  1116行目

    「失敗(しま)った」(九)

 

 

J    拳を振るう(春)   11211行目

 拳を揮う (九)

 

                       



K   もがけばもがくほど身体の節々(春)  11212行目

   藻掻けば藻掻く程體の節々  (九)

 

 

L   大時計からの無様な格好でようやく(春)  11414行目

   大時計から無様な恰好で漸く   (九)

 

 

M   赤いハンカチを巻いた          (春)  1151行目

         赤い手巾(ハンカチ、とルビあり)を捲いた(九)

 

 

N       しかしあの敏捷さ、そしてあの機知     (春)  1161行目

       然しあの大膽さ、あの敏捷さ、そしてあの機智(九)

   〝大膽さ〟はどこに消えてしまったのだろう?

 

 

O   伝言を頼まれているのだ            (春)  11614行目

     傳言(ことづけ、とルビあり)を頼まれているのだ(九)


 

                       



P   不思議そうにまじまじと(春)  1189行目

   不思議にまじまじと  (九)

 

 

Q  じっと見守っている (春)  1212行目

        凝つと打見守ってゐる(九)

 

 

R   船着場の酒場かなんかで(春)  12110行目

   船着き場の酒場なんかで(九)

 

 

S      わたしがいろいろと介抱してやった        (春)  1223行目

        私が種々(しゅしゅ、とルビあり)と介抱してやつた(九)

 

 

T  「はい、マルセーユの安宿で」              (春)  1235行目

       「ハイ、マルセーイユでございます。マルセーイユの安宿で」(九)

   重要じゃない一節とはいえ、また春陽文庫は勝手に削除している。

 


                    


U   それにドックへ入っておりました          (春)  12315行目

   それに船渠(ドック、とルビあり)へ入って居りました(九)

 

 

V       名越梨庵に変装している(春)  1257行目

       名越梨庵と變裝してゐる(九)

 

 

W   蛭田検事は夢にも思わなかったのである(春)  1259行目

    蛭田検事夢にも思はなかつたのである (九)

 

 

X   おまえさんのほうから来てくれと(春)  12514行目

   お前さんの方から来てくれろと (九)

 

 

Y    お袋さんの居所が分っておりますので?・・・(春)  1276行目

    お袋の居所が分って居りますので?・・・  (九)

    ここも無理に〝さん〟を挿入する必然性が無い。

 

 

Z    何事が起こったのだ(春)  1302行目

    何事か起こったのだ(九)


                     


今日の記事の左上にupした挿絵は、牛松が酒場に立ち寄るのを捕らえるため張り込んでいる変装した蛭田紫影検事とその部下の図。ここらへんは蛭田検事の捜査によって少しずつ謎が解明しているが、それが後半どう変わっていくかに注目。



(銀) 序章では春巣街で殺された女の名を満璃子と呼んでいたが、それっきりだったもんで、てっきり横溝正史が初期設定をド忘れしたのかと思われたが、ここへ来て、あれは安藤婆さんの意図的な口から出まかせだったと判明する。

⑤へつづく。




2021年8月1日日曜日

『女妖』江戸川乱歩/横溝正史➂

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九州日報
1930年2月23日~3月5日掲載



■「古びたる肖像畫」 (1) ~ (11)




【この章のストーリー・ダイジェスト】

 

   「古びたる肖像」(1)~(11

 

老伯爵・名越梨庵に声を掛けられた女の名は木澤由良子といい、貧しいながらも裁縫師として働いている。その由良子のアパアトメントへオペラ座の名女優・綾小路浪子が訪ねてきた。浪子は名越梨庵の命を受けて由良子の後を尾けてきたのだが、その事を由良子は知らない。浪子は由良子に自分お抱えの裁縫師になってくれないかと申し出、由良子は戸惑いながらも断る理由はなく浪子の家に住み込む事を受諾する。

 

 

由良子との対面を済ませた浪子は、ある一流ホテルの部屋で待っている名越梨庵伯爵の部屋へ。彼は警察に追われる身である成瀬珊瑚子爵の世を忍ぶ仮の姿だった。綾小路浪子と成瀬子爵の間にはどんな繋がりがあるのだろう? そして春巣街で殺された女は計り知れない遺産の相続者だと浪子は言うが、その事と成瀬子爵にはどういう因縁が?

 

                    


以下は「古びたる肖像畫」の章にて春陽文庫(上段)と『九州日報』(下段)のテキストが、
明らかに一致しない箇所を拾い出したもの。 

 

 

A  セーヌ河に面したパリの裏町で (春)  6411行目

      セイヌ河口に面した巴里の裏町で(九)

 

 

B   忙(いそが)わしく帰ってきた(春)  658行目

   急がはしく歸つてきた    (九)

 

 

C   ポケットから鍵を取り出すと     (春)  6612行目

     かくし(傍点あり)から鍵を取り出すと(九)

 

 

D   中からノブを捻って            (春)  6811行目

       中から把手(ハンドル、とルビあり)を捻って(九)

 

 

E   大理石を磨いたように清く肌理細かく(春)  6817行目

   大理石を磨かしたやうに清く細く  (九)

   『北海タイムス』では〝肌理細かく〟となっていたのだろうか?


 

                    



F       あらためて見直した                (春)  709行目

   改めて見直したが、直(すぐ)その眼を床の上へ落した(九)

   なぜ春陽文庫はこんな一節まで乱暴に削除するかな?

 

 

G       格好のいい足下が覗いている    (春)  7111行目

         格好のいい踵(きびす)が覗いている(九)

         この本の校正者は現代の読者が〝踵〟という言葉さえ、

    理解できないとでも思っている?

 

 

H   「それで・・・どんな急なご用事でございますか。お知らせくださいますれば、

    あたくしのほうからお訪ねしましたのに」(春)7211行目

 

   「實は、今日參つたといふのも、

     あの輕部呉服店でお訊ねしてやつて来たのでございますよ」

  「まあ、それは・・・そんな急な御用事でございますか。

   お報らせさへ下さいますれば、

   あたしの方からお訪ひしましたのに」(九)


   確かに綾小路浪子は輕部呉服店で由良子の評判を聞いたという旨のセリフを

   数行前でも口にしている。だからといってここまで文章をいじっていいのか?

 

 

I    貧しい陋屋(ろうおく、とルビあり)を訪れて(春)  735行目

       貧しい陋屋(あばらや、とルビあり)を訪れて(九)

 

 

J      なんですのよ(春)  751行目

         なんですよ (九)

 

                     



K   (春)7313行目「浪子の裁縫師にさえなれれば」と「由良子には何よりも」の間

      753行目「あたしの裁縫師になるとなれば」と「ここを引き払って」の間

 

     (九)「浪子の裁縫師にさへなれば」の後、幾つかの文字が欠けていて不明

      「あたしの裁縫師にな」の後、幾つかの文字が欠けていて不明


    『九州日報』の字組ミスによるもの。なんだかなあ、もう。

 

 

L       彼女はその絵の前に立ちはだかって (春)  7914行目   

   彼女にその寫眞の前に立ちはだかって(九)

   『九州日報』ではここからしばらく肖像画を寫眞と間違えてしまっている。

   「古びたる肖像畫」と章題にある以上、寫眞にしてしまっちゃいかんだろ。

 

 

M   あの写真を取り外した(春)  8114行目

         あの寫眞を取り外した(九)

    春陽文庫はせっかく『九州日報』が間違えている〝寫眞〟をずっと

        〝絵〟と訂正してきたのに、ここでは訂正するのを忘れている。

 

 

N   それとこの肖像画の女との間に(春)  824行目

       それとこの肖像畫の女の間に (九)

   『九州日報』ではしばらく〝寫眞〟と書かれていたが再び〝肖像畫〟へ戻された。

     やっと横溝正史は〝肖像畫〟が正しかった事を思い出したと見える。

 

 

O    一昨日の朝悠然とやって来たばかり(春)  8315行目

      一昨日の朝飄然とやつて来たばかり(九)

 


                       



P    この二人、いったいどんな関係が           (春)  8513行目

    仰(そもそも、とルビあり)この二人、一體どんな関係が(九) 



Q   そこまでは分からないけど  (春)  8710行目

       其處まではまだ分からないけど(九)

 

 

R   ああいまごろ、花子はどうしているんだろう(春)  8914行目

   あゝ今頃花子はどうしてゐるだろう    (九)

   このあたり、春陽文庫は余計な一文字を付け加えている事多し。

 

 

S   別に手掛かりにもならないような          (春)  919行目

   別に端緒(てがかり、とルビあり)にもならないやうな(九)

 

 

T   分からなくなってくるのですねえ。伯爵、あなたは(春)  9314行目

   分らなくなって来るのです。ねゑ、伯爵、あなたは(九)

   『九州日報』の〝です〟と〝ねゑ〟の間に句読点の 〈  。〉は実際無いのだが、

   この連載にてそういうのは当り前のようにあり、ここで〝ですねぇ〟とするのは ✕ 。

 

                       



U   あの女が殺されたのは(春)  9515行目

   あの女は殺されたのは(九)

   この後、春陽文庫962行目上半分と9711行目下半分に該当する文字が

 『九州日報』では欠けている。要するに と同じミス。


 

V   冤(えん、とルビあり)が晴れようとは (春)  9714行目

   冤(むじつ、とルビあり)が晴れやうとは(九)

   正しいのはどっちか、あえて説明の必要もあるまい。

   春陽文庫は981行目では、冤(むじつ)を無実と表記している。

 

 

W   分りまして?  (春)  983行目

    ね、分りまして?(九)


                    



春陽文庫の校正は方針がムチャクチャゆえ、黒岩涙香調の文章の理解が欠けている以前の問題であって、「昔の小説の在り方を解った上で校正しているんだろうか」と呆れさせられる。アタマの悪い上司に「中学生でも読めるようにしろ」とか指示されて、こんなテキストに改変しちゃったのかもしれないけど。



でも春陽文庫ばかりも責められぬ。昔の新聞小説にはありがちとはいえ、『九州日報』の欠字ミスしかり全体にわたる粗い仕事、なんなんだ?元『九州日報』記者で、この頃福岡住まいだった夢野久作も本作を目にした可能性は高いが、おそらく「こぎゃんもん、つまらん」と鼻にもかけなかったんだろうなあ。そもそも「女妖」みたいなのは久作の好みじゃないと思われるし。




(銀) 春陽文庫『覆面の佳人―或は「女妖」―』のカバー表紙絵の美人は、この記事の左上にupした挿絵と同じ綾小路浪子である。春陽文庫だけ読んでも解らないので一言添えておく。



この長篇が最初に『北海タイムス』にて連載が始まった1929年5月という時期を考えると、江戸川乱歩は「孤島の鬼」の連載を初めて、まだ数ヶ月。あれだけ避けてきた講談社の雑誌に「蜘蛛男」の連載をスタートさせるのは同年8月。この頃というのは乱歩の名義を借りた代作が本作以外にも非常に多く見受けられる年代だ。


片や横溝正史といえば、『文藝倶楽部』の編集長に勤しむ傍ら自分の創作短篇をチョロチョロ書いてはいるものの、まだ海外ミステリの翻訳のほうが多かったりする。長篇にこなれていないのもあるし、何より腰を据えて本作の執筆に取り組んでいないから、この後、長篇における辻褄合わせがあれだけ得意な正史とは思えないようなボロが出てきてしまうのだが、それはもう少し先のお話。



乱歩や正史のよき先輩格だった小酒井不木が病死したのも、『北海タイムス』で「覆面の佳人」連載が始まる直前の1929年4月1日だった。『子不語の夢』によれば、不木の死が乱歩に通俗長篇執筆の踏ん切りをつけさせるキッカケになったというが、正史の本作連載にも何らかの影響はあったろうか。 


④へつづく。