⑤ 「富豪の秘密」(1)~(14)
【この章のストーリー・ダイジェスト】
▲ 「富豪の秘密」(1)~(14)
前章のラストにて重要参考人の安藤婆さんも殺害された。場面変わって綾小路浪子の邸宅では、各界の名士を集めた、年に一度の舞踏会を開催。浪子は美しく着飾った木澤由良子を伴い、客を饗している。名越梨庵伯爵になりすました成瀬珊瑚はフィアンセの春日花子と再会するが、悲しいかな、まだ本当の事を打ち明けられる状況にはない。彼は「友人の成瀬子爵を救いたい」というふりをして、彼女に贈ったイニシャル入りのナイフが春巣街の殺人に使われた経緯を問い質すが、自分があのナイフをプレゼントした相手は父・春日龍三だと言って花子は激昂する。
A 比類を見ないと言われている(春) 132頁5行目
比類を見ないと言はれる (九)
B 政界要路の大立者(春) 132頁7行目
政界要路の立物 (九)
これは春陽文庫のほうが正しいけれど〝立者〟でよかったのではないか。
C これはこれ、英国大使館付の武官(春) 134頁10行目
こはこれ、某國大使館附の武官 (九)
某國 → 英国?
D 令嬢の花子もまた黒っぽい衣服に(春) 136頁4行目
令嬢の花子は又、深い衣服に (九)
E 慌てて返事をしたが、ただちにそのあとへ(春) 141頁8行目
周章て返事をした、が直にその後へ (九)
F かえって無気味でもあり不安でもあった(春) 144頁1行目
却て無意味でもあり、不安でもあった (九)
G 子爵の無実の罪を晴らすのです (春) 144頁17行目
子爵の冤(むじつ、とルビあり)を晴らすのです(九)
春陽文庫では〝冤〟を一律〝無実〟と書き換えていながら、
150頁4行陽目では冤のままで、しかもルビは〝えん〟と表記している。
H 陰気だった。伯爵は相手の疑惑をはっきりと意識した。 (春)145頁5行目
陰気だつた。突然、伯爵が體を乗り出すやうにして訊ねた。
「さあ・・・あれは・・・」伯爵は相手の疑惑をはっきりと意識した。(九)
ここに示した春陽文庫に抜けている箇所が、
どういう訳か146頁3~4行目へ移動してしまっている。
I しかしでは、その人が犯人だと(春) 146頁15行目
然し、ではその人が犯人だと (九)
J その人があの凶器で本の頁を (春) 148頁6行目
その人があのナイフで本の頁を(九)
この場面で花子が〝あの凶器〟と口にするのはおかしい。
K 十も年齢(とし、とルビあり)を余計に取った(春) 155頁7行目
十も年(ルビ無し)を餘計にとつた (九)
L それで、あれはいつ亡くなったのだね? (春) 155頁10行目
それで、彼女(あれ、とルビあり)はいつ亡くなつたのだね?(九)
M あのか弱い花子はどうして (春) 156頁10行目
あの繊弱(かよわ、とルビあり)い花子はどうして(九)
N 秘密が一度に暴露したら(春) 156頁16行目
秘密が一度で暴露したら(九)
O どんな家庭の伜だって (春) 157頁2行目
どんな豚殺しの伜だつて(九)
これも差別用語としての言葉狩り。
P 目下成瀬子爵を厳探中なのです。春巣街で殺されたあの女、(春) 157頁15行目
目下成瀬子爵を厳探中なのです。
御存知ではありませんか。春巣街で殺されたあの女、 (九)
Q 困難を感じた(春) 158頁8行目
困惑を感じた(九)
明らかに春陽文庫のミス。
R 十年以上も生きていたのです (春) 159頁8行目
二十年近くも生きてゐたのです(九)
本作冒頭にて、春巣街で殺されていた女の年齢描写は三十代半ばと書かれていた。
あの描写を優先するとなると、春日龍三と結婚した当時の死美人の年齢を考えた場合に
辻褄が合わなくなるから春陽文庫はこのように書き換えたのだろうが
〝十年以上〟としても、やはり彼女はかなりの早婚になってしまうのでは?
S と、そこには夜会服を着た (春) 166頁3行目
と、見る、其處には夜會服を着た(九)
T いったい、いつごろまで(春) 170頁14行目
一體何時頃迄 (九)
U ところが突然、恐ろしい悲鳴が(春) 171頁16行目
突然ところが、恐ろしい悲鳴が(九)
これは『九州日報』のミス。
V 浪子はそれを聞くと、少なからず顔色を変えた(春) 173頁1行目
浪子はそれをきくと、尠からず顔色を變へた (九)
本作の元ネタはアメリカの女性作家 A・K・グリーンだと云うが、彼女の何という作品を横溝正史は翻案したのか、いまだ不明とされている。となると本作を『北海タイムス』上で連載する前年(1928)の『新青年』、その昭和3年6月臨時増大号と7月号に正史が執筆したふたつの作品が気になる。
ひとつは6月臨時増大号に坂井三郎名義で翻訳したファーガス・ヒュームの「二輪馬車の秘密」。黒岩涙香のオールドスクール感を打ち出し江戸川乱歩を喜ばせた逸話はよく知られており、英国が舞台なので、全体的な雰囲気は本作に通じるものが確かにある。ゴービーという鬼刑事が蛭田紫影鬼検事へ、グッター婆さんが安藤婆さんへ発展したかどうかは読む方々の判断にお任せしたい。
もうひとつは、7月号に川崎七郎名義で発表した創作もの「桐屋敷の殺人事件」。これは二話分載すると思われたが、一話きりで中絶した。この作品の冒頭を見てみると、夜の街頭を警官が巡回していて、ある建物に異変を感じ室内に入ってゆく。このあと警官はアッパーカットを喰らって賊に逃げられるのだが、それまでの導入部分は非常に短いシークエンスであれ、本作(「覆面の佳人」=「女妖」)と酷似している。
「二輪馬車の秘密」と「桐屋敷の殺人事件」の延長線上に本作があったのだろうか?
(銀) A・K・グリーンに近い世代で探偵小説を書いていた海外作家といったら、ヒュームの他にボアゴベ/ウィルキー・コリンズ/ガボリオ/ウィリアム・ル・キューがいる。要するにドイルが登場してくる前の世代だ。
⑥へつづく。