③ 「古びたる肖像畫」 (1) ~ (11)
【この章のストーリー・ダイジェスト】
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「古びたる肖像畫」(1)~(11)
老伯爵・名越梨庵に声を掛けられた女の名は木澤由良子といい、貧しいながらも裁縫師として働いている。その由良子のアパアトメントへオペラ座の名女優・綾小路浪子が訪ねてきた。浪子は名越梨庵の命を受けて由良子の後を尾けてきたのだが、その事を由良子は知らない。浪子は由良子に自分お抱えの裁縫師になってくれないかと申し出、由良子は戸惑いながらも断る理由はなく浪子の家に住み込む事を受諾する。
由良子との対面を済ませた浪子は、ある一流ホテルの部屋で待っている名越梨庵伯爵の部屋へ。彼は警察に追われる身である成瀬珊瑚子爵の世を忍ぶ仮の姿だった。綾小路浪子と成瀬子爵の間にはどんな繋がりがあるのだろう? そして春巣街で殺された女は計り知れない遺産の相続者だと浪子は言うが、その事と成瀬子爵にはどういう因縁が?
A セーヌ河に面したパリの裏町で (春) 64頁11行目
セイヌ河口に面した巴里の裏町で(九)
B 忙(いそが)わしく帰ってきた(春) 65頁8行目
急がはしく歸つてきた (九)
C ポケットから鍵を取り出すと (春) 66頁12行目
かくし(傍点あり)から鍵を取り出すと(九)
D 中からノブを捻って (春) 68頁11行目
中から把手(ハンドル、とルビあり)を捻って(九)
E 大理石を磨いたように清く肌理細かく(春) 68頁17行目
大理石を磨かしたやうに清く細く (九)
『北海タイムス』では〝肌理細かく〟となっていたのだろうか?
F あらためて見直した (春) 70頁9行目
改めて見直したが、直(すぐ)その眼を床の上へ落した(九)
なぜ春陽文庫はこんな一節まで乱暴に削除するかな?
G 格好のいい足下が覗いている (春) 71頁11行目
格好のいい踵(きびす)が覗いている(九)
この本の校正者は現代の読者が〝踵〟という言葉さえ、
理解できないとでも思っている?
H 「それで・・・どんな急なご用事でございますか。お知らせくださいますれば、
あたくしのほうからお訪ねしましたのに」(春)72頁11行目
「實は、今日參つたといふのも、
あの輕部呉服店でお訊ねしてやつて来たのでございますよ」
「まあ、それは・・・そんな急な御用事でございますか。お報らせさへ下さいますれば、
あたしの方からお訪ひしましたのに」(九)
確かに綾小路浪子は輕部呉服店で由良子の評判を聞いたという旨のセリフを
数行前でも口にしている。だからといってここまで文章をいじっていいのか?
I 貧しい陋屋(ろうおく、とルビあり)を訪れて(春) 73頁5行目
貧しい陋屋(あばらや、とルビあり)を訪れて(九)
J なんですのよ(春) 75頁1行目
なんですよ (九)
K (春)73頁13行目「浪子の裁縫師にさえなれれば」と「由良子には何よりも」の間
75頁3行目「あたしの裁縫師になるとなれば」と「ここを引き払って」の間
(九)「浪子の裁縫師にさへなれば」の後、幾つかの文字が欠けていて不明
「あたしの裁縫師にな」の後、幾つかの文字が欠けていて不明
『九州日報』の字組ミスによるもの。なんだかなあ、もう。
L 彼女はその絵の前に立ちはだかって (春) 79頁14行目
彼女にその寫眞の前に立ちはだかって(九)
『九州日報』ではここからしばらく肖像画を寫眞と間違えてしまっている。
「古びたる肖像畫」と章題にある以上、寫眞にしてしまっちゃいかんだろ。
M あの写真を取り外した(春) 81頁14行目
あの寫眞を取り外した(九)
春陽文庫はせっかく『九州日報』が間違えている〝寫眞〟をずっと
〝絵〟と訂正してきたのに、ここでは訂正するのを忘れている。
N それとこの肖像画の女との間に(春) 82頁4行目
それとこの肖像畫の女の間に (九)
『九州日報』ではしばらく〝寫眞〟と書かれていたが再び〝肖像畫〟へ戻された。
やっと横溝正史は〝肖像畫〟が正しかった事を思い出したと見える。
O 一昨日の朝悠然とやって来たばかり(春) 83頁15行目
一昨日の朝飄然とやつて来たばかり(九)
P この二人、いったいどんな関係が (春) 85頁13行目
仰(そもそも、とルビあり)この二人、一體どんな関係が(九)
Q そこまでは分からないけど (春) 87頁10行目
其處まではまだ分からないけど(九)
R ああいまごろ、花子はどうしているんだろう(春) 89頁14行目
あゝ今頃花子はどうしてゐるだろう (九)
このあたり、春陽文庫は余計な一文字を付け加えている事多し。
S 別に手掛かりにもならないような (春) 91頁9行目
別に端緒(てがかり、とルビあり)にもならないやうな(九)
T 分からなくなってくるのですねえ。伯爵、あなたは(春) 93頁14行目
分らなくなって来るのです。ねゑ、伯爵、あなたは(九)
『九州日報』の〝です〟と〝ねゑ〟の間に句読点の 〈 。〉は実際無いのだが、
この連載にてそういうのは当り前のようにあり、ここで〝ですねぇ〟とするのは ✕ 。
U あの女が殺されたのは(春) 95頁15行目
あの女は殺されたのは(九)
この後、春陽文庫96頁2行目上半分と97頁11行目下半分に該当する文字が
『九州日報』では欠けている。要するに K と同じミス。
V 冤(えん、とルビあり)が晴れようとは (春) 97頁14行目
冤(むじつ、とルビあり)が晴れやうとは(九)
正しいのはどっちか、あえて説明の必要もあるまい。
春陽文庫は98頁1行目では、冤(むじつ)を無実と表記している。
W 分りまして? (春) 98頁3行目
ね、分りまして?(九)
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春陽文庫の校正は方針がムチャクチャゆえ、黒岩涙香調の文章の理解が欠けている以前の問題であって、「昔の小説の在り方を解った上で校正しているんだろうか」と呆れさせられる。アタマの悪い上司に「中学生でも読めるようにしろ」とか指示されて、こんなテキストに改変しちゃったのかもしれないけど。
でも春陽文庫ばかりも責められぬ。昔の新聞小説にはありがちとはいえ、『九州日報』の欠字ミスしかり全体にわたる粗い仕事、なんなんだ?元『九州日報』記者で、この頃福岡住まいだった夢野久作も本作を目にした可能性は高いが、おそらく「こぎゃんもん、つまらん」と鼻にもかけなかったんだろうなあ。そもそも「女妖」みたいなのは久作の好みじゃないと思われるし。
(銀) 春陽文庫『覆面の佳人―或は「女妖」―』のカバー表紙絵の美人は、この記事の左上にupした挿絵と同じ綾小路浪子である。春陽文庫だけ読んでも解らないので一言添えておく。
この長篇が最初に『北海タイムス』にて連載が始まった1929年5月という時期を考えると、江戸川乱歩は「孤島の鬼」の連載を初めて、まだ数ヶ月。あれだけ避けてきた講談社の雑誌に「蜘蛛男」の連載をスタートさせるのは同年8月。この頃というのは乱歩の名義を借りた代作が本作以外にも非常に多く見受けられる年代だ。
片や横溝正史といえば、『文藝倶楽部』の編集長に勤しむ傍ら自分の創作短篇をチョロチョロ書いてはいるものの、まだ海外ミステリの翻訳のほうが多かったりする。長篇にこなれていないのもあるし、何より腰を据えて本作の執筆に取り組んでいないから、この後、長篇における辻褄合わせがあれだけ得意な正史とは思えないようなボロが出てきてしまうのだが、それはもう少し先のお話。
乱歩や正史のよき先輩格だった小酒井不木が病死したのも、『北海タイムス』で「覆面の佳人」の連載が始まる直前の1929年4月1日だった。『子不語の夢』によれば、不木の死が乱歩に通俗長篇執筆の踏ん切りをつけさせるキッカケになったというが、正史の本作連載にも何らかの影響はあったろうか。
④へつづく。