2025年1月30日木曜日

『カナリヤ殺人事件』ヴァン・ダイン/瀬沼茂樹(訳)

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角川文庫
1961年5月発売



★★   トリックの創造以外、問題ありまくり




〝・・・・マーカム君、そんなロマンティックな犯罪学的な考え方をして、君をまよわせたもうなよ。また雪の中の足跡にあまりに近づいて、熱心につつきたもうなよ。君を、まよわすこと、この上なしだからね。君はあまりにこの邪悪な世界を信用しすぎているよ。それにあまりにまじめすぎるよ。僕は君に警告するね。どんな馬鹿な犯人だって、君の巻尺や測経器(ママ)におあつらえむきに、自分の足跡を残しておく奴なんか、ありはしないとね〟

~本書 第二章「雪の中の足跡」より(瀬沼茂樹・訳)

 

 

「カナリヤ殺人事件」歴代翻訳者はこちら。
 
平林初之輔  平凡社版「世界探偵小説全集19」        昭和5年刊

瀬沼茂樹   新樹社 「ぶらっく選書9」         昭和25年刊

  〃        早川書房「HPM 135」           昭和29年刊

井上勇    東京創元社版 「世界推理小説全集32」    昭和32年刊

    〃      創元推理文庫                          昭和34年刊

瀬沼茂樹         角川文庫(本書)                      昭和36年刊

日暮雅通         創元推理文庫~SS・ヴァン・ダイン全集   平成30年刊

 

 

こうしてみると訳書の数でいえば、(現時点では)瀬沼茂樹のものが一番多い。
【本書あとがき】の中で瀬沼は次のようにコメントしている。

 

平林初之輔の抄訳を引き継ぎ、ぶらっく選書では完訳を目指し、学友・金子哲郎の助力をあおいだ。その際、使用した底本はGrosset & Dunlap版。

 

ぶらっく選書~ポケミスにおいて不徹底だった箇所に対し、本書(角川文庫版)は全編にあたって悪訳・誤訳を正した他、用語を平易にするよう努めた。

 

後発の井上勇訳も参照した。原作者(ヴァン・ダイン)の付註の他には極力割註を避け、本文におりこんで読み易くした。

 

後発の翻訳者が他者の手掛けた先行訳書を参考にすることは決して珍しくないけれども、自らの「カナリヤ殺人事件」が三度目の刊行になるとはいえ、後追いの井上勇訳書をも参照するなんて謙虚な姿勢だな~と思っていたら、瀬沼より井上のほうが三つ年上なばかりか、翻訳者としてのキャリア・スタートも瀬沼に比べ井上はだいぶ早かった。あとwikipediaを見て気付いたのだが、井上勇も同盟通信社(☜)に勤めていたとは知らなんだ。今後彼に関する資料や訳書をもう少し注意して見ていきたい。

 

 

フィロ・ヴァンス(本書ではこう表記されている)長篇第二作。本作については大抵、
 日本のドラマにさえ散々パクられてきた密室偽装トリック、
 ✕✕✕✕を用いたアリバイ・トリック、
 ポーカー・ゲームによる容疑者たちの心理洞察、
この三点が議論の中心になる。現代の一般読者に子供騙しだと冷笑されるのトリックだが、発表時、のhow toを知った読者は絶対「おお~」って驚嘆した筈。ハンス・グロス文献からの頂きだったにせよ、百年も前、つまり1927年(昭和2年)の話であることに留意しなきゃいかんぜよ。もきっと物的な推理対象だけじゃ物足りず、もう一手ダメ押しすべくヴァン・ダインはこんなシーンを終盤に挿入したんだと思う。

 

 

旧世紀のクラシックな佇まいを好む私でさえ批判したくなる本作の問題点は、トリック等を全部とっぱらった物語の部分が絶望的につまらないところ。語り手=ヴァン・ダインの存在が100%空気状態であってもさほど気にはならないが、全体の半分以上を占めるフィロ・ヴァンス/マーカム検事/ヒース(本書の役職表記は警部)のやりとりに人間味や温度が殆ど感じられないため退屈。主人公のヴァンスがひたすら皮肉/気取り/イヤミしか口にしていないように映ったら、読者にシンパシーや親近感は生まれ得ない。時代の趨勢を考えれば、謎の提示をこのレベルまで実践できたことは評価に値する。でも面白くないものは何度再読しようがやっぱり面白くない。

 

 

フィロ・ヴァンス長篇は第七作「ドラゴン殺人事件」以降、低調になっていったと誰もが云う。読み物としての出来で言えば、二作目の「カナリヤ殺人事件」だって褒められたものではない。瀬沼茂樹訳だから不満なのではなく、原作そのものに至らぬ点が多過ぎ。


 

 

(銀) 海外古典ミステリの新訳本が発売されると「旧訳はつまらなかったのに、以前とは比べものにならないぐらい劇的に面白くなった!」、そんな感想をよく見かける。訳の向上は間違いなくあるだろうが、サクラによる誇大広告でないとも限らないし簡単に信用するのは危険。自分の目で読み比べて確かめるのが一番。