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ハヤカワ・ミステリ文庫
1977年2月発売
★★★★ 後発の版では〝らい病〟が〝不治の病〟に改変
◙ アミアス・クレイル
画家。芸術家肌ゆえ常識の欠落したところがあり、女に惚れやすい。
◙ エルサ・グリヤー
アミアスの絵のモデル。アミアスからの求愛をまともに受け入れ、彼の新妻になることを望んでいる勝気な娘。アミアスを取り巻く人々の目を何も気にしていない。
◙ カロリン・クレイル
アミアスの貞淑な妻。肉親には異母妹のアンジェラ・ウォレン、アミアスとの間に出来た一人娘カーラがいる。自分をなおざりにして結婚するとうそぶく夫と愛人の無軌道ぶりに動揺しつつ、気丈に振舞う。
夫アミアスに毒の入ったビールを飲ませ殺害した容疑により、終身刑を科せられた妻カロリン。その彼女も判決の一年後、獄中で死亡している。それから十六年・・・幼い頃カナダに暮す親族のもとへ遠ざけられ、両親の暗い過去を知らずに育った二十一歳のカーラ・ルマンションは今、現実と向き合わざるをえない状況に置かれていた。成人になり初めて読む母からの手紙には自分の潔白を伝える毅然としたメッセージが・・・。カロリンの冤罪を晴らすべく、カーラはエルキュール・ポアロに調査を依頼する。
マザー・グース系に属する作品だが私の関心はそこには無く、特筆すべきはやはり幾人もの登場人物による手記を繋げてストーリーを進行させるウィルキー・コリンズ「月長石」(☜)のやり方を更にもう一歩押し進めた構成だろう。事件が現在進行形で動いているならともかく、ポアロは十六年も昔の情報を拾ってゆくしかない訳で、十名の関係者と接見、そのうちクレイル夫妻をよく知る次の五名には報告書まで書かせている。かくも地味なプロットにありながら読者の興味をどう引っ張っていくかがクリスティの腕の見せ所。
フィリップ・ブレイク/アミアスの親友
メレディス・ブレイク/フィリップの兄
エルサ・グリヤー/現在はディティシャム卿夫人として上流階級の生活を送っている
セシリア・ウィリアムズ/当時、アンジェラの家庭教師としてクレイル家に雇われていた女性
アンジェラ・ウォレン/現在は考古学者
古い本格長篇だと退屈な事情聴取を延々見せられがち。江戸川乱歩なんかはよく「最後には凄いカタルシスを得られるから、そこに至るまでなんとか辛抱して読んでみてほしい」と戦後の読者に語っていたものだ。しかし、「五匹の子豚」はポアロが自分の目で現場を調査できないハンデが全然マイナスになっておらず、過去のシンプルな愛憎劇だけでこのクオリティーに仕上がっているのが見事。喩えて言うなら、ゴテゴテした具材は何も使っていないのに、なぜか食欲をそそってやまぬ中華粥のよう。
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ポアロは両手を拡げて、しかたがない、というような身振りをした。彼は行こうとしたが、またひと言いった。
「ちょっとしたことをもうひとつうかがいたいのですが、よろしゅうございましょうか?」
「なんですの?」
「あの事件の少し前に、あなたは、サマセット・モームの『月と六ペンス』をお読みになりませんでしたか?」
アンジェラは驚いてポアロをじっとみた。
桑原千恵子の訳は2020年代でも十分読み易いものだし、誤訳や省略さえ無ければ新訳に頼る必要は無い。ただし、同じ桑原訳とはいえ問題のある版が存在している点については触れておかねばなるまい。なぜ上段にポアロとアンジェラの会話を引用したかというと、「月と六ペンス」と「五匹の子豚」の間には見逃すことの出来ない関連性があるからだ。私の手元にある桑原千恵子訳ハヤカワ・ミステリ文庫は昭和56年(1981年)6月30日12刷の版で、211ページを開くと、こんな一文が見られる。(下線は私、銀髪伯爵によるもの)
アンジェラは、最後の悪口をわめきたてながら、寝床に駆けだして行きました。それは、第一に、アミアスをこらしめてやるといい、第二に、死んじゃったらいいのに、第三に、らい病にかかって死んだらいいきみだ、
大衆が本を読まなくなった21世紀と違い、クリスティの時代には大抵の西洋人がモームの代表作に慣れ親しんでいたことだろう。その「月と六ペンス」に出てくる画家のストリックランドは、家族を放り出し気の向くまま絵画の創作に没頭するも、晩年には〝らい病〟に冒される。初めて「五匹の子豚」を読んでからというもの、クリスティは本作のアミアスとストリックランドを(イメージ的に)ダブらせ、解る人には解る目配せを送っているんだな、と私は解釈してきた。当然、昭和56年以降に出回った新しい版の『五匹の子豚』は読んだことがない。
ところが風の噂によると、元々あった〝らい病にかかって〟の部分が〝不治の病にかかって〟に改変された桑原千恵子訳ハヤカワ・ミステリ文庫があるというではないか。ネット上にも複数のレポートが上がっており、誤情報とは考えにくい。あいにく改変版の実物を手に取ってはいないけれど、〝らい病〟の三文字がいつ頃消去されたのか気にかかる。桑原訳をそのまま採用しつつリニューアルしたクリスティー文庫、すなわち2003年の版だろうか?それとももっと前の話か。
こんなくだらない自主規制を断行したがために、「月と六ペンス」の内容を知らぬまま「五匹の子豚」を読んだ人は、どうしてポアロがアンジェラに「あなたは、サマセット・モームの『月と六ペンス』をお読みになりませんでしたか?」と問いかけたのか、無粋な説明が差し込まれていないこともあって余計に意味が通らなくなってしまった。〝らい病〟とあるからこそ「月と六ペンス」が連想できるのに、いくらアンジェラがアミアスに激昂しているとはいえ、〝不治の病〟に変えちゃっても特に問題無しと判断した早川書房編集部は国語の勉強を一からやり直したほうがいい。
改めて付け加えるまでもないが、2010年に山本やよいの新訳で出し直されたクリスティー文庫『五匹の子豚』も普通に〝らい病〟表記ではなくなっているそうだ。改変されていない「五匹の子豚」を読みたければ、最初に桑原千恵子訳が単行本になった旧ポケミス 、そして本日紹介した昭和56年(1981年)12刷以前のハヤカワ・ミステリ文庫版を探すべし。もしかしたら13刷以降でも〝らい病〟表記がまだ生きている版はあるかもしれない。買う前にまずは奥付をチェック。
(銀) 桑原千恵子の訳は読み易いと書いたものの、彼女のミステリ翻訳件数は非常に少ない。田村隆一より二歳年上だそうで、1950年代にポケミスの訳者として名を連ねていたが、それ以外にはどんな仕事をしていたのか不明。