2023年7月20日木曜日

『船冨家の惨劇』蒼井雄

NEW !

春秋社
1936年3月発売



★★★★★   南波喜市郎の後ろに控える師・赤垣瀧夫の是非




 前々回の記事で春秋社について書いたからには同社が実施した長篇探偵小説懸賞企画の一等を獲得した「船冨家の惨劇」にも触れておかねばなるまい。日本人オリジナル本格長篇の創作となると先輩作家は理想を掲げるばかりでまだまだ実作を生み出せずにいた。そんな中、シーンに登場したばかりのニュー・フェイス蒼井雄、リアリティー重視を狙ってクロフツ流の物語を敢然と世に放ったのである。

 

 

♧ 講談チックな涙香調で育った当時の日本人にすればこの種の筋立ては如何せん地味だし未知の領域(?)。前半がダルくなるのは〝本格長篇あるある〟なれど、あの頃頭ひとつ抜けて海外ミステリの精通者だった井上良夫にして「工夫が足りぬ」「実話風に墜して退屈」と前半部に苦言。相手(蒼井)はまだ新人なのに厳しぃ~。さらに井上は、本作の探偵役・南波喜市郎の師にあたり後半になって登場してくる赤垣瀧夫(作者は彼を日本のホームズと呼んでいる)みたいな存在はコツコツ謎解きしてゆくのが醍醐味のクロフツ流には調和しないのでは、と首を傾げた。

 

 

「船冨家の惨劇」が後年の鮎川哲也や松本清張の先駆となりえた功績はどんな評者であろうとも否定のしようがない。私なんか無味乾燥な時刻表トリックは夢中になれないタチだけどそれでも本作を楽しめる理由は、肩に力が入り整然としていない文章を結果的にカバーしている伝奇風の古色蒼然たる語り/演出があるからかも。なにげに蒼井雄は明治42年生まれの人。そういう古めかしさを前向きに楽しめない人は本作のみならず『銀髪伯爵バードス島綺譚』を覗いたところで「そんな古臭い小説、いったいどこが面白いの?」てなりますわな。

 

 

♧ 私の感じる不満は物語も大詰めを迎えて明らかになる小さなふたつの秘密、すなわち催眠術と近親相姦。後者については紀田順一郎も語っているとおり、昔の日本女性はきわめて忍従であるよう強いられていたから大詰めで犯人が吐露しているような事実があってもかまわない。横溝正史的なこの非道行為を或る殺人の動機にもってきたのはいいとして、読者がその事実を知ったあとドス黒さがそれほど糸引かずにサラっと流れていくんだが、あれでよかったのかな?そこに至るまでの伏線を前半に張っておけたら或る人物のキャラにもより奥行きが出たのに。ネチネチと書いたら書いたでお咎め受けそうな時代だし、控えめに済ませたか。

それ以上に困ってしまうのが催眠術・・・カーのようにオカルトを消化した上でプロットに溶かし込むのならアリかもしれないけど、これこそクロフツ流には全くフィットしないんじゃない?大詰めといえば憎々しげに南波喜市郎を嘲笑う犯人の在り様はgoodなんだし、逮捕の瞬間は省略せず、あと少しだけ枚数増やして堂々たるThe Endで締めてほしかった。(とやかく言いながらワタシも蒼井雄に要求が多いな)

 

 

そして井上良夫が疑問を投げかけた赤垣瀧夫の存在についても、言わんとする事はよ~く解る。しかしストレートな例ではないけれど、実行犯の背後で自分の手は一切汚さず其奴を狡猾にあやつる真犯人、みたいなミステリってあるでしょ?赤垣瀧夫の登場は全体のバランスを崩しているかもしれないけど、私は井上と違ってトーシロだからクロフツ流を徹底させてほしい気持はそこまで強くもないし、メインの探偵役・南波喜市郎が面目丸潰れになる展開は嫌いじゃない。全体の整合性がとれているのなら〝二重の犯人〟ならぬ〝二重の探偵〟を設定するのはアイディアとして悪くないのでは?

 

 

♧ 初刊本の春秋社版は南波と須佐が入れ違っている箇所があったり、ルビも含めて誤字があちこち見られたり、それらは蒼井雄が執筆した時のものが残ってしまったのか校閲/植字担当者がやってしまったのか解らないが、この本を底本にする際には特に注意が必要。完成度が高いとは言えないものの戦前の日本でアリバイ崩しを盛り込んだ長篇は貴重。数ある欠点よりチャレンジ精神を買っての満点。

 

 

 

(銀) 「船冨家の惨劇」につづく「瀬戸内海の惨劇」に蒼井雄が登場させたのは天才型探偵・赤垣瀧夫ではなく南波喜市郎のほうだった。井上良夫の「船冨家」評が『ぷろふいる』誌に掲載されたのが昭和11年7月号で、蒼井が「瀬戸内海の惨劇」の連載を開始したのが同じ『ぷろふいる』昭和11年8月号。井上の批評がどれほど蒼井に刺さったかは想像するより他にないが、残念ながら蒼井はこの後「船冨家」に肉迫する長篇を書くことはできなかった。



近代のトラベル・ミステリに私を高ぶらせるものは何もないが、「船冨家」に出てくる南紀その他の舞台をひとつひとつ訪ね歩いたら楽しい旅になるんだろうなといつも妄想している。




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