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岩波文庫 小池藤五郎(校訂)
1990年7月発売
★★★★ 八百比丘尼の幻術
◕ 冨山に登った里見義実の前に現れた犬江親兵衛はわずか九歳ながら十七、八歳と見まがう程の偉丈夫に成長していた。幼い親兵衛が神隠しにあったのも伏姫神女の庇護によるもので、荒芽山を襲撃された姨雪与四郎(=世四郎)と音音の夫婦、そして曳手/単節も霊験によって富山へ誘われ、伏姫の墓がある富山の岩室にて彼らは秘かに親兵衛を育てていたのである。
◕ 本巻から暫くの間は親兵衛中心のエピソードが続く。ここで明らかなのは、(今後も新たに姿を見せるキャラはいるにはいるが)主に既巻にて顔見せ済みのキャラがまた登場してきたり、それまでの伏線回収だったりして、前巻の七犬士集結までを仮に第一部とするなら、物語の折り返しとなる蟇田素藤/妙椿篇以降は第二部といった趣きがあること。
「南総里見八犬伝」の読者には共通して、ここから先の親兵衛譚は評判が悪く、現在河出文庫になっている白井喬二の現代語訳『南総里見八犬伝』でも(元々この本は最初からかなり端折っているところが多いのだが)バッサリ省略されまくっている。
それぞれ不遇な少年時代を送ってきた他の七人に比べると、ひとりだけ伏姫に守られていたり、全ての犬士が揃うまで他の七人は里見家に接見するのを固辞しているのに、親兵衛は特別扱い。何故馬琴は「仁」の玉の持ち主にこういう特性を持たせたのか、一応八犬伝研究書で識者の推論を読んではきたけれど、久しぶりに原作を読んでみてもやっぱり親兵衛にはどうしても好印象を持ちにくい。とりたててイヤな面が描かれている訳でもないのに「これ!」という魅力に欠けているし、馬琴が妙に親兵衛をヒイキしている(?)のが行間から透けて見えるぶん、なんだか逆効果な感じがする。
◕ それと、もうひとつ。前巻までの犬士列伝はどんな悪役が出てきても、それらは殆ど生身の人間だったし、例外といえるのは伏姫八房篇の玉梓の祟り及びニセ赤岩一角の化け猫ぐらいで、スーパーナチュラルな現象を起こすのは伏姫もしくは役行者、つまり善の側のほうが目立っていた。ところが蟇田素藤の軍師でもあり愛人でもある妙椿があやつる妖術の手練手管は、それまでの悪役とは比べものにならない。
なんせ〝甕襲の玉〟という禍々しい物を持っており、かつて甲斐國で継母だった夏引の霊を持ち出して浜路姫を奇病をしたり、はたまた親兵衛から「仁」の玉を遠ざけたり、親兵衛と浜路姫がまるで密通しているようなニセの艶書を里見義成に見つけさせて怒りを誘発し、義成はその詭計にまんまと嵌まって「他の犬士を連れてくるように」と建前上命じてはいるものの、親兵衛は里見家から暇を出される立場に追い込まれるのだから。
◕ 一度は里見勢に捕えられ、親兵衛の寛大な諫言によって斬首されずに追放された蟇田素藤とその家来達。だが、彼らはまたしても妙椿の力を借りて館山城を占拠した。その頃、親兵衛は上野原にいて、自害した河鯉権佐守如の息子・河鯉孝嗣の死刑執行を耳にする。
河鯉守如は扇谷家のため犬阪毛野に籠山逸東太の暗殺を依頼したのだが、逸東太に通じた佞臣どもが管領扇谷定正に「孝嗣は犬士達と内通している」などと出鱈目な情報をもたらした為、激怒した定正は孝嗣に釈明の余地も与えず、このような断罪へ。父・守如同様に孝嗣も主君に対する厚い奉公心を持っているのは前巻に書かれているとおり。
死刑執行の瞬間、越後からやってきたという箙大刀自の一行が現れ、すんでのところで河鯉孝嗣は命を救われた。しかし、その箙大刀自一行は煙のように姿を消してしまう。「神の御加護か」と思いつつも早々にその場を立ち去った孝嗣は親兵衛と出会う事に。
といったところで第六巻ここまで。
(銀) 突然だけども、今も現行本で入手できる新潮社版『南総里見八犬伝』はこちら。
全十二巻。手軽な文庫という形態にこだわらないのであれば、これも決して悪くはない。
ただ80年代に出ていた岩波書店の函入り単行本が、一冊あたり1,000円未満の価格だったのに対し、新潮社の函入り単行本は一冊あたりの価格が税込で3,000円前後。しっかり作られた造本とはいえ、十五年ほどの年月の間に「本の相場はこんなに高くなったんだな」という事を改めて思い知らされる。
前巻の地の文でも、馬琴は「大団円が近い」と書いていたし、本巻でもそのような文章はある。にもかかわらず親兵衛譚が長くなるのはどうしてだったのだろう?蟇田素藤/妙椿篇だけをとっても他のエピソードより尺が長い。
本巻に収録されている分の話が発表される前年には、馬琴の一人息子・滝沢宗伯(=興継:のちに失明する馬琴の執筆活動を、口述筆記で支えるお路の夫)が四十にならない若さで亡くなっている。馬琴自身も既に七十になろうとしており、右眼だけでなく左眼の視力までもが低下しつつある。こんなヘビーな状況でも、彼はまだ「南総里見八犬伝」を終わらせるつもりはなかった。