「春巣街で〝巴里の伊達男〟と呼ばれる成瀬珊瑚子爵が身元不明の美人を殺害」とのニュースは新聞のネタとなり、満璃子という女の遺体を公開した死体陳列所は市民の見物人で長蛇の列だ。その中に厚いヴェールで顔を隠し、手袋の下の指には目映いばかりのダイヤの指輪をはめている世の常ではなさそうな若い婦人がいて、遺体を見るとすぐに立ち去った。見物人の後列にはまた別の二十二、三と思しき、服装はよくないながらも美しさを秘めた金髪の女性が並んでいたが、満璃子の遺体を目の当たりにしてふらつく。名越梨庵と名乗る老紳士伯爵は初対面ながらも彼女を気遣う。
A 嫌疑者成瀬子爵とその許婚者 (春) 35頁10行目
嫌疑も成瀬子爵と、その許婚者 (九)
一見、春陽文庫のほうが正しそうだが『北海タイムス』ではどうなっているのだろう?
B さも恐ろしそうに叫んだ (春) 36頁3行目
C 鼻の先から奪われ、 (春) 38頁5行目
D その物腰なり (春) 39頁4行目
その態度(ものごし、とルビあり)なり(九)
『九州日報』では〝態度〟と書いて〝ものごし〟と読ませている。
E はっとして顔を上げた拍子に (春) 40頁2行目
ハッとして面(かほ、とルビあり)を擧げた拍子に(九)
ここだけでなく他でも、横溝正史は顔ではなく面と書いて
何等(なんら、とルビあり)かを打ち案じてゐるが(九)
G 慄える声を押し静めながら(春) 48頁16行
慄へる聲を押し鎮めながら(九)
せっかく〝慄える〟の漢字はそのままにしておきながら、
〝鎮〟を〝静〟へ変えてしまうとは。
H この異常な女の行動 (春) 49頁4行目
この気違ひめいた女の行動(九)
〝 狂人 〟はOKなのに〝 気違い 〟はアウトらしい。その倫理が私には理解できん。
I さも面映ゆげに (春) 50頁2行目
J 似合わしからぬ身形(みなり、とルビあり)様子だった (春) 50頁4行目
「ほゝう、これは素敵々々」 (九)
意味は全く同じでも、春陽文庫のこの文字遣いはセンスが無い。
L 街路の傍らに身を寄せると(春) 50頁14行目
街の方傍に身を寄せると (九)
これは意味的に春陽文庫のほうが正しい気がする。
M ズボンのポケットの中に (春) 51頁8行目
洋袴(ずぼん、とルビあり)のポケットの中に(九)
N やがて断念したように (春) 52頁9行目
やがて断念(あきらめ、とルビあり)たように(九)
O お宅へお伺いしているのですよ (春) 53頁3行目
P 花子へ手渡された紙切れの最後に〝なるせ〟と記名がしてある(春) 56頁2行目
〝なるせ〟の記名がない (九)
『北海タイムス』には〝なるせ〟と入っていたのだろうか?
Q わたくしには分かりません(春) 57頁3行目
あたしには分りません (九)
春陽文庫はおしなべて〝あたし〟を〝わたくし〟に変えてしまっている。
R 胸のうちに込み上げてくるものをしいて抑えながら (春) 57頁10行目
胸の中(うち)にこみ上げて来るのを、強ひて押へながら(九)
S 突然、急所を刺されたように(春) 58頁13行目
突然急所を指されたやうに (九)
T しかし、紫影さま、あなただけは違います(春) 60頁11行目
然し、紫影、貴方だけは違ひます (九)
これは『九州日報』の校正ミスだろう。
U わたくしを苦しめるために検事になったのです(春) 60頁12行目
あたしを苦しめる検事になったのです (九)
春陽文庫は考えすぎて、余計な〝ために〟を付け足してしまったか。
V 狂気じみた情熱が輝いた (春) 61頁3行目
狂氣(きちが)ひじみた情熱が輝いた(九)
当時のテキストで確認しないと、つい見落としてしまいそうな言葉狩り。
W あなたとわたくしとは長いこと (春) 61頁5行目
貴女(あなた)とあたしとは長い事 (九)
ここでいう〝あなた〟は蛭田検事の事だから、〝貴女〟とするのはミス。
X 花子が言ったとおりである(春) 63頁11行目
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〝キチガヒ〟に関するワード自粛病は、この〈探偵CLUB〉のみならず、昭和後期から平成に至る春陽堂書店のどの本を読んでも付き纏ってくる。
(銀) こちらの伊藤幾久造画伯による、名越梨庵伯爵に抱きかかえられた女性の図を御覧頂きたい。
挿絵画家が同じなのだから『北海タイムス』用に書かれた挿絵を『九州日報』でもそのまま使っているのは当然として、小説原稿のほうも、どうやら同じものを再利用しているようだ。章立てとかを見ても『九州日報』と春陽文庫『覆面の佳人』の間で違いが見られないし。