キチガヒというと必ず持ち出される探偵小説は「ドグラ・マグラ」なんだが、私的にはあの作品をそっち方面からいじり倒すのにはとっくに厭きている。本書の中でキチガヒについて考えるのに最も自然に入っていけるのは、同じ夢Q作品でも、言葉と理性を失い村人から差別されている娘を描いた「笑ふ唖女」(第9章)。他に類似するものが無いこの特異な小説は戦前の地方が舞台ゆえ、若い読者には狂える花子の造形が現実離れしていると思われるだろうが、昭和の頃までは精神を病んだか何かで姿を見かけなくなると、「あの人は狐憑きになったよ」なんて前時代的で無責任な噂が流れることも、場所によってはまだあったのだ。
他には「後光殺人事件」小栗虫太郎、「三狂人」大阪圭吉、「予審調書」平林初之輔、「三つの痣」小酒井不木、「夢の殺人」濱尾四郎等が素材になっているが、どれも(入院患者が出てくる「三狂人」でさえ)狂気が作品の核になる程のモチーフではないので、「三狂人」以外は「あれっ、この作にキチガヒ要素なんてあったっけ?」と言う人がいても不思議はない。第11章/江戸川乱歩の「緑衣の鬼」における狂気とは只のガジェット(仕掛け)でしかないし、第10章/岡本綺堂「川越次郎兵衛」に至っては責任逃れの為にキチガヒの振りをするだけで。乱歩長篇を一般常識目線で眺めれば、殺人淫楽者の蜘蛛男氏や盲獣氏のほうがはるかにキチガヒと呼ぶにふさわしい所業なんだが。
日本探偵小説、それも変格ものにおいて狂気とは頻々と描かれる怪奇的な雰囲気作りのひとつ。本書に採取されているのが「笑う唖女」みたいな王道の(?)キチガヒばかりではない理由は、著者が「近代文学は〈狂気〉を様々に表現してきた (中略)、本書の試みは〈狂気〉とは何かという本質を探ることでは決してなく、ある状態を〈狂気〉と捉える価値観について探偵小説を通じて顧みる」といった考えだから。
本書を戦前篇とし、戦後の推理小説を対象とした戦後篇も書き上げたいそうだが、第12章/木々高太郎「わが女学生時代の罪」、第4章/大下宇陀児・水谷準・島田一男の合作「狂人館」と、戦後の作品は既に取り入れられている。「狂人館」は式場隆三郎による戦前の作「二笑亭綺譚」と繋げたくて引っ張り出したのだろうが、これは未だに同人出版でも読むことができない珍品だし初出誌はおろか一度きり収録された単行本も流通が少なかったから、「狂人館」を読んだことのある人なんて世の中きっと数十人位しかいない筈。
(銀) 鈴木優作は近年『新青年』研究会の一員になった。立教大では藤井淑禎、その後は成蹊大の浜田雄介のもとで学び、現在に至っている。という事は、ここでの文章がどれも論文チックなたたずまいなのは言わずもがな。