戦前は江戸川乱歩・甲賀三郎と並ぶ探偵小説三大巨頭だった大下宇陀児。「おおした・うだる」と読む。一部の評論家は彼の長篇代表作を戦後の「虚像」「石の下の記録」だという。❛ 一小説 ❜ としての纏りはあるが、探偵小説として向き合う限り、あの二長篇は妙味の薄いアプレ風俗ものとしか思えない。私なら完成度はさておき、横溝正史が推すように本巻収録の「蛭川博士」(昭和4年作品)に軍配を上げる。
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登場人物のうち読者は誰の目線で筋を追えばいいか少し掴み辛いといった粗さもあるが、宇陀児が初期だけで放棄してしまったトリック志向がここにはある。前半、黒水着の男が沖へ泳ぎに出ていった後でビーチパラソルの陰から屍体が発見される片瀬海岸での犯人消失がまず第一の謎。この場面は当時のファッションをヴィジュアルで見せないと現代人には理解しづらいのもあり、岩田専太郎によるビアズレーばりに妖美な殺人現場の挿絵が解題に一点のみ掲載されている。
後半、癩病の怪人物・蛭川博士の死を巡る第二の謎。得体の知れない人間の××トリック(ネタバレになるので伏字
– 読者諒せよ)を横溝正史が本作の数年後、某長篇にて自分流に仕立て直しているのが興味深い。
宇陀児の特徴としてレギュラーの探偵キャラは無いように思われがちだが実は地味に存在する。併録「蛇寺殺人」「昆虫男爵」に登場する歯医者の老探偵・杉浦良平がそれで、山田風太郎の茨木歓喜を先駆する雰囲気も少々ある。他にも杉浦良平ものは数点あり、完全制覇とならなかったのは残念。その他「風船殺人」と二随筆を収録。
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戦前の宇陀児のエキスを絞った本書。この叢書の定石どおり、初出誌テキストからの校訂で過去の単行本とは異同あり、カバーデザインにて初出誌挿絵をコラージュしているのも高得点。欲を言えば「蛭川博士」が復刻されるなら、初出連載誌『週刊朝日』及び初刊本(朝日新聞社・刊)口絵頁の岩田専太郎挿絵全点を本文中に付してほしかった(其のごく一部が表カバーに使用されている)。そしたらこの長篇のグルーサムぶりが二倍三倍にも増したろう。
(銀) 戦前から戦後にかけての長い期間執筆活動を続けてきたのに、大下宇陀児には「全集」が存在しない。もしかするとそういったものを出そうとする商売っ気が彼には欠けていたのかもしれないけれど、「全集」って作家自ら動いて出すというより、回りが働きかけて出すものでもあるし。
宇陀児にはアイ・キャッチとなるようなシリーズ・キャラクターが無く(映画化された作品ってあったっけ?)、エキセントリックな文体や題材とかで一般層にアピールする部分も無い。没後も宇陀児の研究家だったり熱烈な読者がファンサイトを作ることが無く、80年代~00年代の間はなんとも不遇な扱いをされてきた。
いまさら「漏れの無い完全収録の全集出してくれ!」と無茶を言うつもりはないが、せめて論創ミステリ叢書みたいなマニアックな商業出版 + ニッチな同人出版といった方面からだけでも彼の本を少しずつ出していって、最終的に全集の代わりになるぐらい全作品をほぼ網羅した単行本の数が揃ってくれたらそれに越した事はない。