上記の二つの視点はユニークで良い。でも川端康成にこうも頁を割く必要がある?前田河広一郎や平林たい子への言及には一瞬目が止まるが、群司次郎正・北村小松・貴司山治とか他にも扱うべき探偵小説未満作家はいたのでは?濱尾四郎が谷崎潤一郎の系譜にあるという説は、これまで聞いたことのなさそうな提言。その後は木々高太郎・小栗虫太郎・久生十蘭・橘外男に筆が費やされ、本格・変格の議論にはならない。著者の水面下で蠢く意識はプロレタリアから結局、弾圧と抵抗へ帰結して終る。ラストで触れているのは朝鮮半島出身の野口赫宙だし。
探偵小説に限らず日本の大衆文学に深く分け入っていて、著者が従来にはないミステリ論にトライしているのはよく判る。この書名が妥当とは私には思えない。もっと適切なタイトルがあったのではないか。それが本書を二度読んだ感想。
先行して刊行された野崎のもうひとつの新刊『捕物帖の百年』にも少しだけ触れておこう。第一部はよろしい。特に横溝正史と夢野久作の章は必読。ただ、こちらも百年という広めのタームを採ったために第二部で失速するのが惜しい。昭和40年以降の作品は、必要最低限のもの以外は切り捨てた方がよかった。『北米探偵小説論』も含め、野崎の著書はどうもとっちらかった印象が残ってしまうのが不満。
(銀) このレビューはAmazonへ☆3つで投稿したのだが、ちょっと厳しかったかもしれない。本書の版元は、Amazon.co.jpのブルドーザーのようなやり方に反旗を翻して意図的に書籍を卸さないポリシーで戦っている水声社だから、発売当時よりも彼らを応援する私の気持は強くなっている。
野崎の本の内容がわりととっちらかり気味という印象は変わらないし、本書のタイトルはもう一捻りしたほうがベターだったと今でも思う。しかしこの『日本探偵小説論』での、探偵小説専業作家と専業ではない作家それぞれの作品をカテゴリ分けせず、フラットな目で味読したら新たな価値観を見つけられるのでは?という見方はなかなかの先鞭だった。
事実、2019年に長山靖生が評論書『モダニズム・ミステリの時代~探偵小説が新感覚だった頃』を出した時、「あっ、これは『日本探偵小説論』を長山流にヴァージョン・アップしているな」と感じたものだ。
『捕物帖の百年』のレビューを書いた事、そしてそれがAmazon.co.jpのレビュー管理担当者に不当削除されていたのはすっかり忘れていた。トンガった事を書くと、何でもかんでも〝悪意〟呼ばわりだからな、あいつら。