「蠢く触手」を含む新潮社版「新作探偵小説全集」は江戸川乱歩の『探偵小説四十年』によると最初の配本を担当した作家で一~二ヶ月、最終配本の作家でも半年しか執筆する時間が無かったという。日本におけるこういう長篇の書き下ろし企画って、最低でも何ヶ月の猶予を作家に与えれば十分といえるのだろうか?
新潮社「新作探偵小説全集」内容見本より、「蠢く触手」の紹介部分をご覧頂こう。
恐怖!戦慄!人々は考へて見るだけでも身の毛のよだつ思ひがした。併し、犯跡に對する緻密な観察と、科學的な推理と、探偵的奇策とによって、悪魔は遂に暗黒の世界から曳摺り出された。恐るべき悪魔の正體!その醜怪極まる姿は人々の前に晒された。青白き触手を持つ暗闇の悪魔とは抑々何者ぞ!
猟奇的探偵小説家としての第一人者江戸川亂歩氏の、これは、最も本格的なる猟奇的探偵小説の傑作中の傑作である。
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この紹介文も、乱歩通俗長篇の新連載を取り付けた戦前の雑誌がよくやる無責任な広告文と全く同じパターンで、乱歩自身まだ次作の構想が全然練れておらず、具体的なプロットや設定も決まっていないのに編集部が勝手にでっちあげた、おどろおどろしい雰囲気を伝えるだけの法螺にすぎない。だから猟奇・・・猟奇・・・猟奇の繰り返し。
諸兄姉御承知のとおり本作は乱歩が岡戸武平に代作を頼んだものだが、思えば乱歩が第三者の手になる代作によくも明智小五郎の使用を許したものだ。『蠢く触手』が発表された時期は平凡社版『江戸川乱歩全集』配本が終わった数ヶ月後で、「蜘蛛男」「魔術師」「黄金仮面」など明智の人気は最高潮。「蠢く触手」の前年に完結した「吸血鬼」のフィナーレで明智は恋人の文代と結婚すると語られている事から、乱歩は名探偵のハッピーエンドな退場を考えていたと見る人もいる。そんな明智は正に虎の子のキャラクター。代作を頼んでいるとはいえ自分以外の者に明智を扱わせて乱歩は平気だったのかしらん。
乱歩本人が通俗長篇に明智を登場させる場合は大抵〝 名探偵明智小五郎 〟という風に、形容が強調されている。しかし本作では、最後の最後に正体を明かす明智に名探偵の冠は付いておらず「お馴染みのアマチュア探偵界の王者であり、現警視総監の愛婿と目されている男だ。」って、なんか紹介がチープ。それに総監の愛婿・・・???
仮令明智を使わなかったとしても、いつもの粘着質な乱歩調は露ほども感じられないし、1932年に初刊本が出た時、文体がいつもの乱歩とは全然違うから読み手にもバレていそうで、よくクレームが来なかったものだ。カバー絵に使われているKKKもどきの覆面集団も印象が薄く、内容としては褒められたもんじゃない「蠢く触手」だがそれは岡戸武平のせいではない。1997年のこの春陽文庫版には初刊本に添えられていた林唯一の挿絵も数点入っており、一応貴重な再発ではあったのだ。
追記
2020年2月18日(木)の記事『殺人狂想曲』(水谷準)並びに2月20日(土)の記事「春陽文庫『蠢く触手』を再調査すること」にて述べた理由をもって、当初★5つにしていたこの本の評価は★2つへと変更した。
(銀) 岡戸武平の探偵小説著書『人を呪へば』『殺人芸術』探偵小説随筆集『不木・乱歩・私』、そして雑誌『幻影城』に連載された博文館時代を回想するエッセイ、更に単行本になっていない彼の創作探偵小説もあれば、それらをコンプリートした書籍がほしい。
この人は著書の数こそかなり多いけれど、探偵小説に関するものはほんのわずか。彼はやっぱり作家というより編集者とみるほうが相応しいかも。