2025年4月6日日曜日

『トレント最後の事件』ベントリー/延原謙(訳)

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新潮文庫
1958年11月発売



★★  トレントの恋は単なるフェイント




延原謙が翻訳した「トレント最後の事件」単行本一覧はこちら。

 

『トレント最後の事件』    黒白書房              昭和10年刊

『    〃    』    雄鶏社/おんどり・みすてりい      昭和25年刊

『    〃    』    新潮社/探偵小説文庫                       昭和31年刊

『    〃    』    新潮文庫                                      昭和33年刊


 

本書・新潮文庫版の解説にて延原はこう述べている。

 

〝私がこの作をはじめに訳したのは昭和十年で、当時は出版社の意向もあり、かつそれが当時の一般的傾向でもあったので、枚数制限を行ったが、こんどは機会を与えられたので、全体を検討して約九十枚を補綴して完全を期した。文字の使用法もできるだけ当用漢字法に従いたかったが、多少は当用漢字以外の字も使わざるをえなかった。その場合はなるべくふりがなをつけるように心がけた。

一九五八年秋   訳 者

 

 

一見「トレント最後の事件」を初めて完訳したのは新潮文庫版のように受け取れるけれど、この二年前、同じ新潮社が出していた探偵小説文庫版で既に完訳し、それをそのまま新潮文庫のテキストに流用している可能性もある。抄訳だった戦前の黒白書房版と新潮文庫版しか持っていないのでハッキリ断定はできないが、もし最終形の延原謙「トレント最後の事件」完訳を読みたいのなら、本書を入手しておけばまず間違いはない。

 

 

この長篇でいつも話題になるのは死んだ金満家ジグスビ・マンダスンの妻メーベルに対するフィリップ・トレントの恋愛感情。でもあれは言うなれば読者へのフェイントにすぎない訳で、意外な結末がラストに控えており本格黄金時代の中でも本作は一目置かれているとはいえ、探偵役の恋がイメージとして少々拡大解釈されているきらいはある。二人のLoveはクライマックスの真相に直結しないのだから。








さてそれでは、黒白書房版抄訳テキストと本書・新潮文庫版完訳テキストではどんな違いがあるのか、部分的ではあるがチェック。まずは目次。

 

 

〈黒白書房〉              〈新潮文庫〉

 

序曲                 第一章    序曲

凶報                 第二章    凶報

朝の食事               第三章    朝の食事

眼の中の捕繩             第四章        眼の中の捕繩

寢室にて               第五章        寝室にて

 

バナーの推定             第六章        バナーの推定

電報                 第七章        黒衣の婦人

査問會                第八章        査問会

恐ろしき事實             第九章        恐ろしき事実

生ける屍               第十章        生ける屍

 

トレントの報告            第十一章         トレントの報告

トレントの苦惱            第十二章         トレントの苦悩

夫人の告白              第十三章         夫人の告白

挑戰狀                第十四章         挑戦状

マーロウの告白            第十五章         マーロウの告白

 

意外な結末              第十六章         意外な結末

 

 

目次比較からも明らかなように、いくら黒白書房版が抄訳だからといって肝心な箇所まで削ってはいない。新潮文庫版では各章にナンバリングし、第七章の章題を「電報」から「黒衣の婦人」へ変更。全体の語り口を特にいじることはせず、旧訳の〝将棋〟表記を〝チェス〟に直したり、「そこまで詳しく形容しなくてもいいんじゃね?」と延原が判断したくだりを黒白書房版のテキストではあちこちスキップしていたため、それらの復元に努めている。

 

 

例えば「凶報」の章。
冒頭から数行経過したところで新聞社の社長サ・ジェームズ・モロイの人となりが紹介される。その部分は〝この偉大なるジャーナリストは、アイルランド生れの長身・・・・〟うんぬんかんぬん続いてゆくのだが、黒白書房版では彼が絶倫の精力の持主だとか、外見/性格/仕事のモットー等といった情報は訳されていない。

 

 

もうひとつ、章題が変えられた「黒衣の婦人」の章を見てみよう。この章には、ひとり水平線の彼方を眺め物思いに耽っているマンダスン夫人メーベルを見かけたトレントの胸の内に火が灯る大事なシーンがある。それでも黒白書房版ではページ調整のためカットせざるをえなかったのか〝画家として眼の肥えたトレントにも、この女はきわめて美しいものに受けいれられた。〟から〝トレントは不意をうたれて、黒衣愚人の姿をみた瞬間歩みをとめたが、そのまま静かにうしろをまわって、行きすぎた。〟の間にある数行のうち、メーベルに関する描写が少なからずカットされていた




以前 ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』(☜)の記事でも書いたように、戦後の新潮文庫は必要以上に漢字を開いている。その傾向は新潮文庫だけでなく春陽堂文庫/創元推理文庫などでも顕著。せっかく完訳していても、そんなひらがなだらけじゃ字面が美しくない。こうして比べてみると、旧漢字/旧仮名遣いテキストで作られた戦前の黒白書房版で読むほうが(たとえ抄訳であれ)やはり味わいがある。同じ延原謙訳『トレント最後の事件』といえども黒白書房版なら満点にするが、新潮文庫版なら★4つ。






(銀) 最新の『トレント最後の事件』訳書って・・・創元推理文庫が2017年に出したアレか。大久保康雄の訳だから、昭和時代に発表された旧訳のままのテキストかな。本作には〝インディアン〟〝土人〟といったワードが含まれているし、この次 新訳が出される時には間違いなくポリコレ自粛が横行しているだろう。

 

 

 

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