2025年5月10日土曜日

『鏡は横にひび割れて』アガサ・クリスティー/橋本福夫(訳)

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ハヤカワ・ミステリ文庫
1979年9月発売



★★★★★  この動機に目を付けたクリスティーは偉い




自分的に思い出深い長篇。読むきっかけは映画「クリスタル殺人事件」(1980年公開)に非ず、横溝正史vs小林信彦対談(『横溝正史読本』/第四部「クリスティーの死と英米の作家たち」)なんだけど、「こんなことがトリックになるのか」と横溝正史が感心するのもむべなるかな、我々の生活に起こり得る奇禍を題材にしたクリスティーの目の付け所には敬服するばかり。読者を驚嘆させたい一心で実にバカバカしいフィクショナルな珍トリックをひけらかす作家とは雲泥の差ですな。

 

 

小林信彦が言うように、大抵クリスティー作品の滑り出しは日常的な描写で始まり、のっけからガンガン鐘を鳴らすスタイルではない。本作もベテラン女優マリーナ・グレッグの開催するパーティーの席にて口にチャックしておけぬ性格のヘザー・バドコックが謎の死を遂げる第五章まで読者は英国のオバちゃん連中・・・・もとい御婦人達の井戸端会議に度々付き合わされる。ただどんなに長閑なシーンであれ、時の移ろいと共に年齢を重ねたミス・マープルはもちろん、ゴシントン・ホール(シリーズ初期の事件にも出て来た邸宅)を売り払ったバントリー夫人その他、愛着あるキャラクターの流転を実なクリスティー・ファンは温かく見守っているのだろう。

 

 

ワタシなど細かいポイントに注意を払わず読み進んでしまいがちだが、これは衆人環視下の事件ゆえ、現場に居合わせる顔ぶれはしっかりインプットしておいたほうがよい。召使頭ジュゼッペの行動も要チェック。ヘザー・バドコックが死ぬ直前、マリーナ・グレッグの視線の先にあったものについ気を取られ、読者はミスリードさせられてしまうけれども、読み終わったあと強烈な印象を残すのは他に例を見ない特異な動機。本作は早川書房日本語版翻訳権独占と謳ってあり、現在流通しているのが同じ橋本福夫訳なのは別に構わない。しかし、旧版に使われている〝気ちがい〟〝白痴〟〝低能児〟、さらに〝模型きちがい〟みたいな言葉まで現行本で書き変えられていたら、そいつはゆゆしき問題だ。2004年以降出回っているクリスティー文庫版『鏡は横にひび割れて』をお持ちの方、どうです?

 

 

本国イギリスでの発表は1962年。ということはクリスティー72歳の時の作品か。必要最小限の分量で物語を終わらせる無駄のない書き方も秀逸だし、同じ年齢でやっと「仮面舞踏会」を完成させた横溝正史が冗長な長篇しか書けなくなっていたのと比べても、彼女の力量はまだそれほど衰えていないのがよく解る。初めて本作を読み、「終盤に来てあの二人を殺しちゃったよ。もう少し堪えて様子見していたほうがよかったのでは?」「片方はともかく、もう一人を手に掛けるのは性急だったんじゃない?」と思われた方、いませんか?そのあたり、前段階にてそうせざるをえなかった状況がシレッと書かれているのを見落としてるかもしれず、是非一度再読してみてはいかが?

 

 

 

(銀) 頻繁にくしゃみをしているエラ・ジーリンスキーの悩みの種がアレルギー性鼻炎なのは一目瞭然だが、今でいう〝花粉症〟を昔の人は〝枯草熱(こそうねつ)〟と呼んでいたらしい。